8. 旅の始まり
一定のリズムで体を揺さぶられている。そんな感覚で私は目を覚ました。また気を失ってしまった。そんな後悔が出てくる前に、追手がかかっていたことを思い出して脳が活性化する。しかし、体は思うように動かなかった。
「気がついた?」
顔を上げるとステファンの背中があった。肩にはサラの胴体に巻かれていた防寒用の毛布がかけられている。上を向くと冷たい何かが顔に当たって頬を伝う。大粒の雪だった。
「ここは?」
「もうすぐ僕が山籠もりで使ってる拠点につく。拠点といってもただの洞穴なんだけどそこで休憩しよう」
「敵は?」
「動かないで。また体力が空っぽになったんでしょ?前より悪くなさそうだったから今回はまだ何も食べさせてない」
私は愛玩動物ではない。餌やりのように話されて不満を持ったが、ステファンのおかげで生き延びられたことに免じて文句を飲み込む。サラは積もった雪をかき分けながら進んでいる。振り返っても漆黒の闇が広がっているだけだった。
「心配いらない。幾つか川を渡ったし、僕よりこの辺りに詳しい人なんていないから」
「そう」
私はステファンやサラに魔法の残渣がないか調べる。ルサルカが残っているとそれを頼りに追跡される恐れがあるのだ。幸い、そんな痕跡はなく、後はステファンに任せることにした。
サラが歩みを止めたのは切り立った山肌の前だった。地上に降りたステファンがそんな断崖絶壁に積もった雪を手で掘ると、すぐに洞穴の入り口が姿を見せる。私もサラから降りようとしたが、足に力が入らず手間取ってしまう。情けない姿を晒しているとステファンが肩を貸してくれた。
「もう少し物資を貯めておけば良かったな」
洞穴の中は幾分暖かかった。ステファンは私を入り口近くに座らせて洞穴の奥に消えていく。水の滴り落ちる音が反響している。それに耳を傾けていると両手いっぱいに荷物を抱えたステファンが戻ってきた。真っ先にふかふかの毛布が手渡され、ステファンは休む間もなく火おこしを始める。
「煙に気付かれる」
「大丈夫。この洞穴は奥に別の入り口があって煙はそこから出ていく。それにヘレンさんの体力回復が最優先だから」
ものの一分ほどで小さな火がついて、それはあっという間に乾いた枝に燃え広がっていく。辺りが明るくなるとステファンの顔もよく見えた。頬や目元に血糊がこびりついているものの気にする様子はない。作ってくれたのは塩味のスープとサンドイッチだった。
「こんなに要らない」
「食べて。雪山を甘く見ちゃいけない」
食事を押し付けてくるステファンの表情は血痕も相まって少し怖い。ただ、こんな旅に巻き込んだのだから無理もなかった。素直に受け取ったサンドイッチは食べ始めると止まらない。ステファンは固いパンだけをしゃぶりながら荷物の整理を始めた。
声を掛けづらい。そう思った私は持っていた手拭いに雪を集めて焚火の熱で溶かす。人肌まで温まるとステファンに渡した。
「なに」
「顔拭いて」
ステファンは言われた通りに顔を拭って驚く。極度の興奮状態で気付いていなかったらしい。左腕の傷も開いてしまって服に血が滲んでいる。
「ありがとう。ヘレンさんはどこも怪我してない?」
「ヘレンじゃない」
「え?」
「私の名前はエレナ。手配書の通り」
「ああそっか。やっぱりそれが本当の名前だったんだ」
ステファンは焚火を挟んで向かい側に座る。これでは揺れる炎で顔が見えない。表情から感情を読み取らなければならない私はスープを片手にステファンの右隣に移動する。すると、ステファンがおもむろに立ち上がる。嫌がられたのかと思ったがそうではなく、焚火を回って私の右隣に腰を下ろした。
「こっちの耳、聞こえないんだ」
「なぜ?」
「あの爆音を聞いちゃってさ。エレナさんは大丈夫?」
「自分の魔法にやられる魔法師なんていない」
「そりゃそうだ」
ステファンは右耳を触りながら苦笑いする。爆音とは私がカタリナから逃れるために放った魔法のことだろう。耳を塞ぐよう言ったはずだと思った矢先、自分がステファンの右腕に支えられていたことを思い出す。途端にスープの味が悪くなった。
「鼓膜くらい治してあげられる」
「いいよ。片耳は聞こえるし放っておけば治る。それに魔法、出来るだけ使わない方が良いんだろ?」
「ええ」
優しくされるのは辛い。私はスープをかきこんで洞穴から空を眺めた。欠けた月が東の空に昇り始めたため、到着の時よりも外が明るくなっている。それに伴って暗い星はどんどんと消えていた。
「それより教えてほしい」
「何を」
「エレナさんのこと。もちろん体が許す限りで良い。田舎の無知な農夫にも分かるように」
「質問を絞って。長くは話せない」
「じゃあまず、どうして軍に追われてるの。政変に巻き込まれたって言ってたけど」
もっと魔法のことを聞かれるかと思ったが、最初から一番難しい話題が切り込まれる。ただ、今となっては話すしかない。
「王宮ではウノカイア様の警護をしてた」
「ウノカイアってコールサックの息子だっけ。次期皇帝だろ」
「孫よ。フィウ様が十年ほど前に暗殺されて後継順位が上がったの」
「暗殺ねえ。ライネじゃそんなことばかりなのか」
「王宮は常に微妙な力の釣り合いで成立してる」
オストランド帝国は成立から1000年もの間、五つの大家によって取り仕切られてきた。これをコーム体制というが、歴史はこの国家運営が順風満帆でなかったことを鮮明に物語っている。今回の政変もその力関係の崩れに由来していた。
「ここ100年はずっとハイドラ家から皇帝が出てる。だけどそれは陰で支えるヴィルゴ家あってこそだった。皇后にヴィルゴ家の人間を選ばせることで一定の影響力を保ち続ける。この協力関係で他の家々を抑え込んでた」
「政治に疎い僕でもなんとなく分かった。そのウノカイアってのが何かしたんだな」
「ええ。ウノカイア様はヴィルゴ家出身のエミリア様と結婚してたけど、ハルコス様というウルサ家当主のご息女との間に隠し子をもうけていたことが分かった。名前はウタラトス・ウルサ。ヴィルゴ家にとって突然の政敵だった」
「周りでも聞く話だからな。不倫して子供作って喧嘩して。いやもちろん、規模が違うことは分かってるけどさ」
私が馬鹿にした目つきで睨むとステファンが言葉を付け加える。この出来事を単なる不倫男の失敗とみなすことはできない。最悪、内戦に発展する大きな問題なのだ。
「それで?エレナさんがそれとどう関係してくるの?」
「ハルコス様とウタラトス様は命を狙われた。もちろんヴィルゴ家の怒りに触れたからで、皇帝陛下も殺害を容認したと聞いてる。けれど、ウノカイア様にとって二人は政略結婚で得た家族よりも大切だった。だからヴィルゴ家の魔法師が差し向けられたと聞いて、私に二人の保護を命じた」
「なるほど。その末の逃避行ってわけか。それで二人は今どこに?」
「ハルコス様は間に合わなかった。ウタラトス様はフィリップというウルサ家の魔法師が助け出した後、私が引き取って長旅の末にラテノンに預けた。ウルサ家とラテノンの関係は公然の秘密。逃走の手助けもしてくれた。囮を引き受けた私はその後、グスタフというヴィルゴ家の魔法師と戦い破れた。そうして呪いを身に纏ってラッサに流れ着いた」
「呪いって、すぐに気絶してしまうあれ?」
私は頷く。あの日のことは毎晩夢に見るほど屈辱的な過去としてこの体に刻み込まれている。魔法は行使者が解くことで簡単に消滅する。つまり、私に枷をかけたグスタフは今もどこかでほくそ笑んでいるのだ。
「正確には魔法を行使する時、必要以上に体力が流れ出てしまう。まるで体に穴が空いてしまったかのように」
「治せないのか?」
「できなかった。魔法で調べられるけどそのためにも体力が必要」
これまでの調べから、グスタフの魔法がルサルカに由来することは分かっている。問題はそのルサルカを構成する魔法言語が既知のものではないことだった。知られた文字で構成されていたため判断を誤ったが、実際には言語として組み上げる際の文法に根本的な違いがあった。
「運動や会話でも体力が漏れる?」
「魔法ほどじゃない。けれどすぐに疲れてしまう気がする」
一度ここで深呼吸をする。呼吸のリズムが乱れたのは体力のせいではなく、私が長話に慣れていないからだ。ステファンは踊る炎を見つめて何かを考えている。爆ぜた枝が心地よい音を奏でていた。
「後悔してないの?」
「後悔?」
「政治の力比べで苦しい思いをしてる」
「馬鹿にしないで。私は魔法師であって軍人。主の命令に従うことが存在意義なの」
「たとえ尻拭いの紙だと分かっていても?」
「そうよ」
ステファンの言い方は冷たいが、意図して私の気分を逆撫でしているわけでない。本当に疑問に思っているのだろう。命令に従ったところで利益はない。それを分かっていて自己犠牲に走る理由が見当たらないといった顔をしている。こればかりは同じ魔法師でなければ理解できないことだ。ただ、しこりを残さないためにも説明を続けた。
「あなたも私を助けてくれた。見捨てればラッサで生活を続けられたかもしれないのに」
「あの時はそうしないとエレナさんが死ぬって分かってたから。半年一緒にいた人を見捨てられない」
「じゃあ一緒。ウタラトス様はまだ15歳。親の愛情を十分に受けられなかった子供が大人の事情で殺されるなんて許せないでしょ」
少し熱くなってしまったのは共感を欲していたからだ。そのはずが、ステファンの相槌を見ても心は気持ち良くならなかった。理由は単純で、これは私の本心ではない。自らの魔法がどこまで通用するのか。その力試しのために私は魔法師であり続けた。結局、自己満足に終始する心を知られたくなかったのだ。
「今後の予定を聞いてもいい?」
「ラテノンと合流してウタラトス様の護衛に戻る。あなたのことも責任を持って連れていく。巻き込んだこと、申し訳なく思ってるから」
「あては?」
「一つだけ。アタカマのヘントという街にウルサ家とラテノンを繋ぐアントン・マルティンという男がいる。彼に協力を仰ぐ」
「ヘント!?」
「そう。知ってるみたいで良かった」
私の頭にあるアタパカの地図はあまり正確ではない。ステファンが素っ頓狂な声を出したため、自分が突拍子もないことを言ったのだと分かった。
「ヘントはウルス山脈の北側だ」
「それくらい知ってる」
「冬に越えるつもりか?」
「難しい?」
「難しいに決まってる!今いるクレムス山脈だって僕に土地鑑があるから入っていられるんだ。ウルス山脈を越えるなんて」
ステファンから愚痴がこぼれる。ただ、そんなことを言われても困る。私はどういうことなのかと説明を求めた。
ステファンの話を要約すると、ヘントに行くためには南北に延びるクレムス山脈を北上し、その先で東西に広がるウルス山脈を越えなければならないという。二つの山脈が連結する地点では険しい山々がそそり立ち、前人未到の領域が行く手を塞いでいる。この季節の移動は不可能というのがステファンの見解だった。
「他に当てはない」
「だとしてもなあ」
「帝国に追われた時点で死んだようなもの。街道を使えない以上、挑戦するしかない」
「うーん」
ステファンは黙り込む。相当難しいのだろう。言い出した私が怖気づくわけにはいかず、静かに判断を待つ。ステファンはしばらくして大きく息を吐いた。
「だったら急ぐしかない。ウルス山脈はもう本格的な冬期のはずで、時間が経つほど積雪も増える。どちらかが体調を崩したり怪我をしたら終わり。道に迷っても終わりだ。でも、山を下りるとあの乱暴な魔法師がわんさかと待ってるんだろう」
「ええ」
「こんな気分になるのか。初めて知った」
一体誰と心を通わせたのだろうか。無意識に淡い期待を寄せた私だったが、最後は過干渉を怖がって気にすることを止めた。
絶望的な目標が決まった後、私たちは短い仮眠を取ることにした。これ以上無防備な姿を晒すわけにはいかず、私は毛布にくるまってステファンの寝息を待つ。しかし、それが聞こえてくる前に日が昇った。