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7. 脱出

 気温は日増しに下がっていき、太陽が山陰に隠れる時刻もかなり早まった。ステファンはとうとうクバの収穫を翌日と決めて、私はその準備に追われていた。山を見上げると積雪はすぐそばまで迫っており、麓でも水の入ったバケツに厚い氷が張るようになった。クバは寒さに強いが、雪の重さで実が落ちてしまう。例年に比べて小ぶりだというが仕方なかった。

 また、この時期になると山で餌にありつけなくなった動物が農作物に手を出すことがあるという。身を粉にして育てたクバを最後の最後で奪われるわけにはいかない。仕事がひと段落してからも、私は畑の前に陣取ってクバを見守っていた。

 ステファンは私が買ってこれなかった食料を調達するために山を下りている。クバを収穫してしまえば、半年間生活を共にしたステファンとも別れる。こんなに人の世話になったのは師匠以来だ。どんな最後になるのか想像もつかなかった。

 もう少し留まりたい。そんな気持ちになるのはラッサの毎日が新鮮だったからだ。人と争わなくていいのならその方が良く、殺さずに済むのならその方が良い。ラッサではそんな毎日がこれからも続いていくのかもしれない。しかし、その中に私の居場所はない。

 軍人ならば命令を果たさなければならず、放棄するなど許されない。それにグスタフとの決着がまだついていない。あの仇敵を殺さない限り、一生この体での生活を強いられる。魔法師として借りは必ず返すつもりでいた。

 空を見上げると灰色の雲が山脈に向けて流れている。ライネを脱出したのもちょうどこの頃だった。この一年は何のためにあったのか。その答えを得られないまま終わりなき旅が再び始まろうとしている。

 両手をポケットに入れて白い息を吐くと、忘れていた孤独感が押し寄せる。私は意味もなくクバの葉を撫でて、自分自身の存在意義を心の中で復唱した。

 黒い煙が同じ色をした空に伸びていることに気付いたのはそんな時だった。出所はラッサの麓で、風に乗って山の方向へ流れている。気になった私は畑を囲う柵の上に立って遠くを見やる。煙が上がること自体は珍しくない。問題はその見慣れない色と量だった。

 火事でも起きたのだろうか。しばらく煙の正体を考えていると、今度は坂を上ってくる集団に目が留まる。大抵この道を使うのはステファンかニーナ、そしてへニアであるが、そこには少なくとも五人分の人影があった。目を凝らしてみると全員がフィールドグレーの服を着ている。私は咄嗟に身を伏せた。

 帝国軍だ。魔法師かどうかまでは分からなかったものの、まずは最悪の事態から想定する。戦闘に備えるならばシンタマニが必要だ。そう考えた私は姿を見られないように匍匐前進で家まで戻り、自分の部屋に直行してシンタマニを手に取った。

 今のところ体力に不安はない。ただ、万全を期するに越したことはなく、キッチンに向かうなり砂糖の袋を破って白い結晶を口に詰め込み、水で強引に流し込む。甘ったるい味を我慢しながら窓の外を窺うも、まだ誰も見えない。私は次の行動を考える。

 始めに思い浮かんだのはいち早くここから逃げることだった。麓の街道を使うわけにはいかないため、そうなると裏手の山に飛び込むしかない。一時的に森の中に身を隠すという案も浮かんだが、ステファンが帝国軍を呼んだ可能性がある以上、それは得策ではなかった。

 敵は刻一刻と近づいてきている。決断できずにいると、思考は戦闘による敵の排除に偏り始めた。身体は既にその準備を始めていて、心臓は忙しく動いている。ステファンに敗北したばかりであり、魔法の構成はいつもより慎重に考えた。

 その最中、裏口の扉が音を立てて開く。私は即座に机の下に転がり込み、シンタマニを回した。

 「僕だ!ステファンだ!」

 「敵じゃないと証明できる?」

 「できないけど違う。ラッサに軍が来たから裏道使って急いで戻ってきたんだ。ヘレンさんを探してる。手配書を持ってた」

 ステファンは警戒する私に目もくれず、窓の外を窺う。そして、背負っていた鞄から荷物を出すと、代わりに食料を詰め込み始めた。私はシンタマニをステファンに向けたまま立ち上がる。

 「これ持って逃げて。サラと山に入るんだ」

 「手配書?」

 「そう。エレナ・ヘイカーという名前だったけど、似顔絵や特徴はヘレンさんそのものだった」

 「山は駄目。道が分からない」

 「サラは賢い。一番近い沢までは連れていってくれる」

 「あなたは?」

 「時間を稼ぐ。ここにヘレンさんがいることもバレてる。誰かが軍に教えたんだ。僕が引きつけている間に逃げて」

 荷物を押し付けられた私は裏口に向かうように指示される。その時、玄関からノック音が響いた。私たちは同時に息を飲む。

 もし、言われるがままここから逃げればステファンはどうなるのだろうか。私を追ってきたとなれば相手は魔法師のはずで、情報を得るために残忍な手段を厭わないだろう。私が今からステファンを半殺しにでもすれば、魔法に支配されていただけだと見逃してくれるかもしれない。そんなことをつらつらと考えているとステファンに体当たりされて馬小屋に押し込められてしまう。直後、玄関が蹴破られた。

 「あれ、兵士様がこんなところに。どうかされましたか?」

 「誰と話してた?」

 私は扉の隙間に顔を押し当てる。家には五人の兵士が押し入ってきていた。ステファンと話す男は手配書を掲げており、その他は部屋の物色を始める。襟元のバッジから国家警備魔法師だと分かった。王家直属魔法師ほどではないが、高い能力を有した魔法師だけで構成される軍属の警察組織である。

 「ここにこの女がいるはずだ」

 「ああ、雇ってるよ。でも今ちょうど麓に使いに出してるところだ」

 「たわけが」

 ステファンの回答に男がシンタマニを振り上げる。魔法を行使されたのではない。シンタマニの柄で殴られたステファンは鼻から血を流してその場に倒れた。逃げるなら今だ。しかし、心が葛藤を続ける。

 「麓はしらみつぶしに調べた後だ。それに、この女は大抵農作業をしているという話も出ている。どこにいるか知っているんだろう」

 胸ぐらを掴まれたステファンは何度も拳で殴られる。それを見ていると別の男が裏口に近づいてきた。足が次第にサラの方に向かう。成り行きで知り合っただけの男を優先するなど正しい軍人の姿ではない。私はそう何度も自分に言い聞かせてサラに跨る。

 今度は鈍い音とステファンの叫び声が私の鼓膜を揺さぶる。とうとう殺されたのかと思ったが、部屋の中でルサルカの濃度が高まったためそうではないと分かった。ステファンは私のために身を滅ぼそうとしている。弱いと馬鹿にしていた人間に庇われる弱さに気付いた時、私はサラから飛び降りていた。

 リビングに突入すると、ステファンは一人の男と取っ組み合いをしていた。私は最も近くにいた男に魔法を食らわせ、ステファンを助けに向かう。次の標的はステファンともつれ合う魔法師で、即死した一人目の死体を飛び越えると立て続けに魔法を撃ち込んだ。他の魔法師は既に魔法を繰り出した後だった。しかし、そのことでステファンを心配する必要はない。

 二人目が死んで、ようやく残りの三人がステファンよりも大きな敵の存在に気付く。それぞれが攻撃的な魔法を撃ち込んでくるが、私にはそのどれもが幼稚に見えた。瞬く間に一人は首から血を吹き出し、残る二人は胸を手で押さえて倒れた。私は急いでステファンに駆け寄る。幸い、鼻血を垂らしている程度で意識ははっきりとしていた。

 「どうして逃げない?」

 「借りを作るのは嫌い」

 「ラッサに来た魔法師はこれだけじゃないんだぞ」

 その言葉と同時に、弾丸のようなルサルカが玄関から飛び込んでくる。こんなにも乱暴で力任せな魔法を使う者は一人しかいない。次々と飛来するクラウスのルサルカを跳ね返し、隙をついてこちらからも魔法を放つ。手ごたえはなかったが、攻撃が止んだところで私はステファンの手を引いた。

 「何してる」

 「あなたも来るの。死にたいの?」

 「でも僕は」

 「案内人が必要」

 「言ったはずだ。こんな争いに関わりたくなんて」

 「私を助けて!」

 歯切れ悪く言葉を連ねるステファンに私は叫ぶ。一緒に逃げなければ二人ともここで死んでしまう。合理的な判断に誘導するためにはステファンの弱い部分を利用するしかなかった。再びクラウスの攻撃が始まる。方針を変えたのかこの家を丸ごと破壊するつもりらしい。私はその魔法が作用する前にルサルカに干渉し、ステファンに決断を迫った。

 「二人だとサラの足でも森まで数分かかる。逃げ切れるか?」

 「任せて」

 「僕を信用するのか」

 「こいつらよりマシ」

 私は周囲の死体を指差す。魔法師の争いに負けるとは、こうして冷たい床の上で無造作に転がることを意味する。ステファンもようやく決断した。

 「分かった。後ろは任せた」

 ステファンは私から荷物を預かると身を低くして裏口に進む。その時に玄関から見えたのは、数十メートル離れた場所で隊列を組む魔法師の群れだった。どうやらカタリナもいるらしく、皆してクバの畑をブーツで踏み荒らしている。

 先にステファンがサラに跨り、私はその背中に身を預ける。準備が整うと、心を落ち着かせる間もなくサラに鞭が入れられた。馬小屋を飛び出るなり斜面を一気に駆けあがって森を目指す。直ちにけたたましい笛の音が鳴った。

 「死に損ない!逃げるな!」

 背後でクラウスが叫んでいる。振り返ると数人の魔法師が同じように馬で追いかけてきていた。二人乗りをしている分、こちらの方が遅い。私は近い敵から攻撃する。

 「後ろは大丈夫か」

 手綱を握るステファンに問いかけられるが答えている余裕はない。クラウスとカタリナ以外は魔法師として質が低かった。シンタマニを丁寧に回す癖があり、その隙を狙って二人を落馬させる。クラウスはサラを集中的に狙う。防御に徹する私だったが、カタリナとの連携攻撃に苦しめられ、徐々に動悸が激しくなっていく。

 視界がぼやけると、たちどころに魔法の威力が下がることが経験則的に分かっている。最後の一撃に体力を温存したいものの、馬の上では逃げ隠れできないため飛来するルサルカを無視できない。そうこうしていると限界を迎えた身体がバランスを崩して大きく傾く。咄嗟に支えてくれたのはステファンの右腕だった。しかし、二人して無防備となる。

 次の攻撃は避けられない。濃い死の感覚が背中を這って口の中が一気に乾いていく。そんな時だった。

 どこからともなく新しいルサルカが飛来し、クラウスを攻撃し始める。不思議な型をしているが威力は申し分ない。クラウスは突然の介入者に驚き、直ちに対抗魔法を発動する。追手はカタリナだけとなった。

 「耳を塞いで」

 「え?」

 擦れた声で指示を出すとステファンの反応を待つことなく最後の魔法を放つ。その瞬間、カタリナの鼻先を中心として甲高い音が発生した。爆発と勘違いしたカタリナはルサルカの盾を作る。しかし、実際にカタリナを襲ったのは空気の振動で、驚いた馬が暴れたことでカタリナは地面を転がった。クラウスならば対処できていただろう。実戦経験の少なさに由来する失敗だった。

 ほどなくして私たちは仄暗い森に突入する。すぐさま方向感覚を失った私とは違い、ステファンは迷いなくサラを誘導していく。追手が見えなくなっても安心できない。私は警戒を続けるつもりでいたが、サラの動きにつられてステファンの背中にもたれこむと一気に力が抜けていく。意識が飛んだのはそのすぐ後のことだった。

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