52. 旅の終わり
ウルス山脈に再び雪が降ってきた。山から吹き下ろされる寒風は一段と強くなり、ガラス窓がビシビシと大きな音を立てている。この様子では夜には眠れないほどになるだろう。そう思った私は上着を羽織って外に出ると、朽ちかけた雨戸を全ての窓にはめ込んでいった。太陽はもう山陰に隠れてしまっている。東の空を見ると、明るい星が二つだけ輝いていた。
ひと仕事終えて玄関に戻ると、扉の前に灰色の封筒が落ちていることに気付く。郵便は不定期で届けられる。大抵その仕事は行商人が請け負っていて、街道を通りかかったついでに扉に挟んでくれることが多い。宛名には私とリディアの名前が書いてある。差出人はステファンとへニアで、それを見た瞬間、体が熱くなるのを感じた。
家に戻ると、リディアがちょうど鍋を暖炉の火から外しているところだった。机の鍋敷きに置かれると蓋が開けられ、スープのいい匂いが漂ってくる。リディアは続いてパン切り包丁を手に取った。
「手紙が届いてた」
「手紙?」
「ステファンとへニアから」
私は上着を脱いで椅子に座る。すぐに食いつくかと思ったが、予想に反してリディアは台所で作業を続けている。その間、私は封筒の文字を眺めていた。
「読まないの?」
「そうね」
しばらくの間、思い耽ってしまっていた。気が付くと首を傾げたリディアが隣に立っていて、私は何事もなかったかのように農業用の鋏を手に取る。上部を丁寧に切ると、羊皮紙二枚分の手紙が入っていた。今更になって食事の前に読むべきか迷い、最終的に我慢できないと手紙を広げる。私の目がそこに吸い込まれると、リディアはまた台所に戻っていく。それから時間の流れを感じなくなった。
ウタラトスがラテノンの指導者となって数か月、まさに激動と呼ぶにふさわしい毎日が続いた。戦争阻止を最優先に、ラテノンはアタパカに侵入した帝国軍に抵抗しなかった。一部の地域では指示が間に合わず死人が出たというが、おおよその地域で戦闘は回避され、大部分の街に帝国軍が進駐する結果となった。
帝国とラテノンの講和はアタパカにほど近い、リンダウという街で行われた。ラテノンからはウタラトスと新しい指導部が出席し、帝国側の代表者はダーナ・ハイドラだった。ダーナはコールサックの孫娘であるヘイス・ハイドラの婿養子であり、ライネでは外交部門のトップを任されている。ただし、その時のダーナは何ら交渉する権利を持っておらず、コールサックからの言伝を預かっていただけに過ぎなかった。
ウタラトスが提示した条件は多岐に渡るが、聖域はアタパカの自治権だった。それを見越していたコールサックは、その対価として三つの条件を要求したという。ラテノンは治安部のみを残し、軍部を全て解体すること。アタパカに新しい軍の駐屯地を設置させること。そして、ウタラトスがハイドラ家の一員としてオストランド帝国と友好的な関係を築くよう努力し、帝国の国益に反さない範囲でアタパカを指導することだった。これら全てが守られた暁に、アタパカの自治権が保障されるとダーナは伝えてきた。
議論はあったが、結局のところウタラトスはこれら条件を飲むほかなかった。既にアタパカの奥深くまで帝国軍が入り込んでいる状況で交渉を決裂させれば、自治権は直ちに失われる。また、全く飲めない条件という訳でもなかったことが、コールサックの狡猾なところでもあった。ウタラトスをハイドラ家と認めて、アタパカを預けるという立場を取る。そうすることで、帝国がアタパカを直接支配する必要がなくなり、穏便な条件提示に繋がったというのが大勢の意見だった。
ヴィルゴ家はこれに猛反発したが、コールサックは意に介さなかった。これより先はまだ噂話の範疇だが、どうやらライネでヴィルゴ家の地位は大きく落ちたらしい。あの日以来、グスタフも行方知れずの状態が続いているという。
その代わりに新しく発言権を得たのがウルサ家とハーキュリー家で、ライネの政治体制は大きく変わりつつあるとクラウスは話していた。これによって、私やクラウスにかけられていた手配は全て解除された。クラウスは既にヴィルゴ家を脱した身分だったため、どこにも属さない魔法師として自由を得た。それから早速旅に出たのだそうだが、その目的地は言うまでもない。
私には、ウノカイアからライネに戻ってくるよう指示があった。自分一人で断れなかったことは、私がまだ魔法師の呪縛に囚われている証拠になるのだろう。それを聞いたリディアの反発は相当なものだった。そのおかげで私は魔法師という立場を捨てて、過去の自分と完全に決別するに至った。
しかし、そんな理由ではウノカイアは納得しない。そこに手を差し伸べてくれたのはウタラトスだった。父上が私に寄越した魔法師なのだから自分のそばに置くと言って、最終的にそれを認めさせたのだ。もちろん、この関係に拘束力はない。おかげで私はリディアのそばで幸せな時間を過ごすことができている。ウタラトスへの大きな借りだった。
「手紙にはなんて書いてあった?」
どれほど時間が経ったのか、手紙から顔をあげるとリディアがスープを温め直していた。私は手紙を封筒に戻してリディアに差し出したが、食事を先にすると机の端に避けられる。
「二人とも無事ラッサについたって」
「ほんと?良かった。へニアちゃんも元気なら嬉しい」
リディアは、ステファンと同様にへニアにも命を助けてもらった恩義を感じている。今では私もそうだ。
戦いで右足と左腕を失ったへニアは、何日も生死の境をさまよった挙句、多くの願いに引き寄せられて生き延びた。先月まではヘントで静養していたが、冬が来る前にラッサに戻ることを決意し、ステファンと最後の旅に出たのだった。
その道中、私とリディアが新しい住処として選んだメルクにも立ち寄ってくれた。その時にはもう、二人の手首には新しいシリヴァスタがあり、私はその意味を重々理解しなければならなかった。二日間の滞在の後、私たちは二人の幸せを願いながら送り出し、旅の仲間は解散した。手紙にはニーナと再会したとも書いてあった。一人でステファンを待ち続けていたであろう彼女のことを思うとやりきれない。
「あとは何て?」
「冬の間はへニアのリハビリを続けて、春からクバを育てるのだそうよ。それに、ラッサではなんとサラも迎えてくれたんだって」
「サラってエレナちゃんが食べようとしたっていう賢い馬?」
「ええ。そうしなくて正解だった。あんな距離を一人で戻ってこられるなんて」
笑っていたはずが、冷たいしずくが頬を伝る。リディアが再び鍋をこちらに持ってこようとしていたが、気付いてその場に立ち止まった。
「もう少し後にする?」
「ううん、食べよう」
私は目元を拭ってリディアを呼ぶ。最近はどうしてか涙もろくなってしまった。リディアの寝顔を眺めているだけで泣いてしまうこともあれば、ステファンとの旅を思い出して涙が止まらなくなることもある。リディアは成長したのだと言ってくれるが、まだそんな弱い自分に慣れないのが現状だ。
スープを皿に盛りつけて、二人で神に祈りを捧げてから食事を始める。パンを半分ほど食べたところでリディアが口を開いた。
「そういえば、明日はウタラトスが来る日だから、エレナちゃんも早起きお願いね」
「もうその日なのね。旅をしていないと一か月が早く感じる」
「幸せな証拠だよ」
「そうね」
ラテノンは新しい指導部の拠点をウルサ山脈のどこかに構えたという。その場所は私も詳しく知らないが、どうやらメルクに馬ですぐ来れる場所にあるといい、一か月に一度、ウタラトスはここに顔を出すようになっていた。今はまだ多忙なはずだが、それでも時間を作ってやって来る目的はリディアだ。私としては気持ちの良いものではなかったが、リディアの願いでもあるため仕方がない。今はこの幸せを嚙みしめられるだけで、それ以上の贅沢は何も要らなかった。




