5. 衝突
「ヘレンさん、起きて」
ステファンの声で目を覚ました私は重い瞼と格闘した末に半目のままベッドから這い出る。寒さに身を震わせながら上着を羽織り、大きく欠伸をしてからリビングに顔を出す。早起きのステファンは既に暖炉で二人分の朝食を準備していた。椅子に座ると温かいミルクと毛布が手渡される。窓は結露で曇っており、外の様子は分からない。今日の冷え込みはずいぶんと酷かった。
「全然目が開いてないよ」
「ん」
毛布を肩にかけた私はもう一度瞼に力を入れてみるが、ステファンに顔を覗き込まれて目を細める。どうやら昨日の夜更かしを引きずっているらしい。朝食はパンとゆで卵、焼いた燻製肉で、食べ進めるうちに脳が活性化されていく。単純に体力が足りていないだけだった。
「今日は疲れてそうだね。あまり眠れなかった?」
「大丈夫」
「なら良かった。夜のうちに山の方はまた雪が積もったみたい。これだと収穫は早めた方がいいと思って」
「うん」
今年は冬の訪れが早いらしい。寒さは私にとって天敵で、体力消費が増えると活動に制限が出てくる。それに、ぬるま湯に浸かったような生活のせいで軍人としての感覚が鈍ってしまった。決断力の低下が特に顕著である。
「それでなんだけど、今日は麓におつかいを頼まれてほしいんだ。収穫に必要な道具と、食料も少し」
「ええ」
「僕はサラにご飯をあげてくる。後でお金渡すから準備できたら声掛けて。冷たいだろうけどちゃんと顔を洗って髪を梳かすんだよ」
サラとはステファンが飼っている馬のことで、畑を耕したり荷物を運搬したりするときに活躍する。馬小屋に繋がる裏口から出ていったステファンを見送った私は大きくため息をついた。ステファンはいつも一言多い。母親みたいな小言に嫌気が差し、本当の母親の顔を思い出せなかった私は頭痛に襲われて唇を噛む。こんな考え事は不毛でしかない。そう判断した私は食事に集中した。
おつかいは与えられる仕事の中でも好きな部類に入る。理由は自分の時間に浸ることができるからで、特に考え事が山積している中ではありがたかった。言われた通りに身支度を整えると、ステファンからメモとお金を受け取って家を出る。ここ数日で季節は一気に進んだ。コートもステファンからの借り物で悠長にしている暇はないと痛感させられる。
昨晩、私はステファンが寝静まった後に家を抜け出し、裏手の山を数時間ほど散策した。来た時のように街道からラッサを去ることもできる。しかし、街道は軍と鉢合わせる危険があるため新しい移動経路を探すことにしたのだ。ステファンの話では、ラッサはクレムス山脈の中央に位置しており、険しい道を抜ければ隣国エイノットにも出られるという。帝国を脱することまでは考えていなかったものの、手段は複数あるに越したことなくその下調べのつもりだった。
しかし、結論から言えば私は山道の入り口さえ見つけられなかった。方向感覚には自信があったものの山はよそ者を強く拒み、切り立った崖と深い森に追い返されたのだ。最悪の場合、嫌でもここに逃げ込まなくてはならない。しかし、通り抜けられる自信はなかった。
そうなると必然的に街道を使うしかなくなる。ラッサは辺境の村であり、帝国軍はまだ現れていない。その時は天に祈りながらの脱出が想定された。
小一時間ほど歩くと麓に到着する。人々の生活に変わりはない。しかし、いつもと比べて村の雰囲気が暗いと感じた。しばらく歩いていると悪い予感が的中し、レンガ造りの建物に反響して男の怒声が聞こえてくる。見に行くと軍服姿の男が数人、若い夫婦が営む肉屋の前でたむろしている。私は咄嗟に建物の影に身を隠した。
見渡すと役場の前でも兵士が煙草をふかしていた。私はじっと彼らの観察を続ける。しばらくすると一人の兵士が店主を振り払いながら燻製肉を持って外に出てくる。周囲の人々は怒った目をしているが、私と同じように距離を置いて眺めるだけだった。
胸のエンブレムからハイドラ家の兵士だと分かる。ただ、襟元にバッジがないことや武器が小銃であることから魔法師ではなく、警ら中の一般兵だと推測する。肉屋の店主はどうやら殴られただけで済んだらしい。ここで買い物はできそうになく、次の店に向かうことにした。
ラッサでは初めてだったが、こんな光景はアタパカの至る所で見ることができる。彼らの蛮行にできることは何もない。ラッサの人々にはお世話になっているが、私が干渉すればさらに多くの兵士がやって来ると分かっているからだ。
結局、私は収穫用の新しい鋏だけを買って足早に帰路についた。帝国兵と私には内地の人間という共通点がある。私がこの非道な振る舞いと無関係だと分かっていても、全ての人間が理性的でいられるわけではないのだ。それを差別だと非難するつもりはない。ラッサでの生活はもうすぐ終わる。ステファンさえ変わらず接してくれれば問題は起こらないはずだった。
息を切らして家に戻ってみるとステファンの姿はなかった。それを特に不思議に思わなかった私は買ってきた物を机に置いて一度自分の部屋に入る。この後はいつもの農作業が待っている。気分が上向きつつあるのはクバの相手をできるからだった。そうして着替えを始めた矢先、強烈な違和感が体を貫いた。
物がほとんどないこの部屋は常に整頓されている。その中でシンタマニと軍服が入った鞄は目のつかないベッドの下に隠していた。それを探られた形跡があったのだ。万が一を考えて魔法の残渣がないか注意する。ただ、それはなさそうで鞄の中身もそのまま残っている。それでも軍服には一度広げられた跡があった。
私はシンタマニを握るなり周囲を警戒する。これが残されていたということは軍の仕業ではない。そうなると犯人はおのずと絞られた。ステファンは一体どこに居るのか。体が戦いに備え始め、残りの体力から行使できるルサルカの量を即座に計算した。
扉を押して、シンタマニを持った右手側からリビングを窺う。すると暖炉の前で仁王立ちするステファンがいた。真っ直ぐこちらを見ていて、似合わない緊張感を顔に浮かべている。他に人の気配はない。
「ヘレンさん。少し話がある」
目が合うと、ステファンが低い声で話しかけてくる。煩わしい会話を飛ばしたということは本気なのだろう。ただ、ステファンが何に気付いて何を目的としているのかはまだ分からない。
「勝手に部屋に入ったことは謝る。だけど隠さないで教えてほしい」
「何を?」
「ヘレンさんは一体何者なんだ?」
ステファンの視線が度々シンタマニに移る。どうやら私が魔法師だということは把握しているらしい。普通ならば一般人が魔法師に立ち向かうことはしない。自殺行為だからだ。
「話すことはない。今までありがとう」
私はこの場を去ることを決断する。ただ、玄関に近づくとステファンに進路を塞がれた。よく見ると玄関と裏口の両方に錠前がかけられている。
「もう一度聞く。ヘレンさんは何か隠してる。そうだね?」
「争えばあなたは死ぬ」
「まさか、エイノットと繋がるスパイだなんて言わないよね?」
ステファンが私の正体について考察する。その結論が想定外だったため私は戸惑った。ステファンはシンタマニと軍服を見たはずで、それから導き出される答えは帝国の魔法師以外にない。何か勘違いしているようだが、こちらから真実を話すことはできなかった。
「行かせて。あなたを殺したくない」
「駄目だ」
「じゃあ死んで」
話し合いでは解決できない。そう判断した私は素早く魔法を繰り出す。過激な言葉とは対照的に行使したのは昏睡魔法だった。半年間生活を共にした善良な人間を殺したくないと思うのは普通の感覚のはずで、死を予告したのはステファンの動きを鈍らせる目的があった。
しかし、何の冗談かステファンは私の魔法を受けても倒れなかった。それどころか体勢を低くしてこちらに突進してくる。ルサルカは確実に当たった。一瞬の硬直の後、私は机に飛び移って再度同じ魔法を放つ。
「昨日、夜な夜な山に出かけたことは知ってるんだ!」
ステファンは素手のまま襲い掛かってくる。私は魔法が効かないことに酷く慌てていた。しばらく使っていなかったとはいえ、そんなことで錆びつくはずがない。ステファンの命を気にする余裕もなくなり、使い慣れた殺傷性の魔法に切り替える。しかし、何度ルサルカを撃ち込んでもステファンはびくともせず、体力だけが急速に奪われていく。
「それを捨てろ!」
とうとうステファンに右腕を掴まれる。格闘はこちらに不利だった。軍で基礎を学んでいるとはいえ、魔法師は基本的に魔法による敵の排除を前提としている。体格差もあり、押さえつけられるとどうしようもない。
なりふり構わず抵抗を続けながら必死に頭を回転させる。ルサルカを椅子に作用させると思ったように宙に浮かせられる。それを思い切りステファンに衝突させると掴まれていた手が解放された。腹部を強打したステファンは悶絶している。
魔法が使えなくなったわけではない。そう分かって、立て続けに部屋の物を投げ飛ばしていく。ステファンは椅子を盾にしてそれらをしのぐ。机上の鋏を変則的な軌道で宙に這わせると、ステファンの左腕を切り裂いて壁に刺さる。ただ、同時に椅子を投げつけられて私は魔法で受け止めてしまう。その瞬間、膝から力が抜けた。
その隙を見逃さなかったステファンが再び突進してくる。シンタマニを回す私だったが、もはやルサルカを集めることができない。シンタマニを奪われると冷たい床に押し付けられた。
「ヘレンさん!言うんだ!君は一体何なんだ!?」
ステファンが私に跨って叫ぶ。呼吸さえままならなくなった私はぼやけた視界で天井を見つめた。この体はこんなにも弱いのか。グスタフに続き、一般人にまで敗けた私は考えることを止める。存在意義を失ったような気がして涙が溢れてきた。
ステファンはそれを見て追及をやめた。私の涙に戦意を喪失したのか、拘束を解いて力なく椅子に腰掛ける。見飽きた優しい一面がここでも滲み出ていた。
弱い人間ほど優しさで身を滅ぼす。私はこれ幸いと鋏に意識を向けた。シンタマニがなくとも魔法は使える。正確にステファンの喉を切り裂くことができればまだ勝機はあった。しかし、どんなに努力しても壁に刺さった鋏はピクリとも動かない。
「君は帝国の魔法師、そうだね?」
ステファンはずっと帝国軍と繋がっていたのだろう。そうなるとグスタフはすぐそばまで来ているのかもしれない。私は全てを覚悟して目を瞑り、小さく頷いた。
「なんだよもう。だったらそう言ってくれれば良かったのに」
私の覚悟とは裏腹に、ステファンが乾いた笑みを浮かべる。どういう意味だ。最後になって優しい声に戻った理由を知る前に、私は無防備な姿で意識を失った。




