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40. 離別

 春が終わると雨の多い時期に入った。エムデンを発った私たちは大きな森に突き当たり、その中を横断している旧街道を進む。近くの集落ではこの深い森を人喰いの森と呼ぶらしい。理由はこれまでに多くの遭難者を出しているからで、最近では遠回りになっても森を迂回する人がほとんどだという。

 そうして利用者がほとんどいなくなった結果、旧街道の一部は森と完全に同化して区別がつかなくなっていた。降りしきる雨で地面はぬかるみ、それでいて倒木を乗り越えながらの移動になる。誰かと鉢合わせる危険はなかったが、久しぶりの辛い旅路だった。

 「今日はここまでにしておこう。足元が悪くてこれ以上暗くなると危ない」

 「ええ、早く焚火がしたい」

 「靴の中がびちょびちょ」

 ステファンの提案を全員が受け入れて、野営の準備が始まる。ステファンとリディアが雨をしのげる場所を探し、私は焚火のために比較的濡れていない枝を拾っていく。雨の日はたいてい、倒木の下に身を寄せ合うことになる。そうなるとシリヴァスタ作りもできそうになかった。

 「ナイフで木の皮を剥いで。できるだけ濡れてないところを燃やすんだ」

 リディアはステファンの指示を聞いて実践する。ナイフを握らせてひやひやしていたのは昔のことで、最近はずいぶんと手際が良くなった。教えたのは私で、軍で教わった技術が役に立つ。ただ、これが花嫁修業にならないかという心配は常にあった。

 火が付くと、三人とも靴を脱いで乾かし始める。夜も気温が下がらなくなったため、体が濡れても寒いということはない。それよりも足が濡れる不快感の方が大きな問題で、リディアと一緒に足の指を広げて焚火にあたる。アントンがこんな姿を見れば怒るかもしれない。しかし、私の方針ではリディアの健康が最優先だ。ステファンは近づけられた足に文句を言いながら食事を作っていた。

 「今夜は雨脚が強まりそう。狭いけど今日はここで三人横にならないとだめだね」

 「えー、それじゃ真ん中はエレナちゃんね」

 「僕の横はそんな嫌?」

 リディアの言葉にステファンが動揺する。リディアは唇をとんがらせた。

 「だって暑いもん。こうやってくっついてくるから」

 リディアが説明のために私の首元に抱きつく。抱き癖のことを言っていて、事実を前にステファンは言い返せないでいた。私は別段それを嫌だとは思っていないため、リディアの提案を了承する。最近はリディアと私が一緒に寝てステファンは別になることが多かった。しかし、それで治るステファンの癖ではなく、緊急時に身を寄せ合うときにはリディアも被害者となっている。

 濡れない位置に荷物を置いて、三人横になると焚火が消えるまで雑談を交わす。いつも通りの時間だが、今日は雨音でお互いの声が聞き取りづらい。しばらくするとリディアが私の肩に顔を寄せてうとうとし始める。私は結んであげた髪を自分の胸の上に乗せて、濡れた地面に触れないようにする。私の髪はそれと絡まらないようにステファンの上に乗せたが、あの寝相を考えると朝もそこにあるとは思っていない。

 リディアが眠りにつくと、私はいつものようにルサルカを警戒する。ステファンもまだ起きているようだが、リディアを起こさないために会話はしない。焚火が消えるとあたりは真っ暗となる。そうして私も夢の中に落ちつつあった時、嫌な感覚が体を突き抜けた。

 「ステファン」

 「どうした」

 小声で名前を呼ぶとすぐに返事がある。まだ眠っていなかったことに安堵して、顔をステファンに寄せた。

 「魔法を感じた」

 「近い?」

 「分からない。弱く一度だけ」

 私はシンタマニを握って神経を研ぎ澄ませる。この暗さではお互いに肉眼で相手を視認できない。そもそも追手とも限らず、偶然居合わせた魔法師かもしれなかった。ただ、楽観的な安心は禁物だ。

 「一応準備して」

 「分かった。リディアを起こした方がいい?」

 「いえ、でも見てて。私はすぐ動けるように」

 私はステファンの腕をリディアの頭に誘導して、上体を起き上がらせる。ブーツの紐を締めて準備を整えると、もう一度周囲の観察を始めた。魔法がなければ何も分からない。そう思っていると、もう一度ルサルカの揺れが起こる。

 「駄目だ。頭の方向、近づいてる」

 「こっちは任せて。大丈夫そう?」

 「ええ」

 魔法師がどこかに潜んでいることは確定した。しかし、こちらが先手を打つことはできない。ステファンはリディアを起こして、静かに靴を履くように指示する。リディアから不安そうな声が漏れた。

 「エレナちゃん、怖い」

 「私がいるから大丈夫よ。ステファンから絶対に離れないで、ちゃんと手を握ってるの。いい?」

 「うん」

 リディアの素直な返事を聞いて頭をなでる。何があっても守る。心の中でそんな決意を復唱して、一方向を睨む。誰かを守りながら戦うことは難しい。しかし、これまでの圧倒的な経験と覚悟から不安は感じていなかった。

 「来た」

 三度目は規模が桁違いだった。組み立てられた魔法も明確に攻撃を目的としていて、私は解除魔法を放つと同時に反撃を行う。魔法の出所は特定できていたが、仕留めた感覚はない。次の瞬間、少しずれた場所から再び攻撃が加えられる。魔法の型が違っていて、敵が複数いることが分かる。

 「数が多い。ステファン、先に逃げて」

 「分かった。どっちに」

 ステファンの問いに答える前に目の前に何かが落ちる。咄嗟に防壁を張った矢先、大きな爆発に襲われた。リディアから悲鳴が上がり、爆炎が私たちを明るく照らす。

 「反対方向、走って!」

 私はステファンを後ろに押して移動を促す。そちらに敵がいない保証はなかったが、二人を守るための賭けだった。先ほどの爆発は魔法ではない。魔法では私に解除されると分かっていて、爆発物まで準備していたのだ。ルサルカの干渉を受けていない物体の排除は、その接近に気がつかない限り難しい。このままではいつリディアが巻き添えに遭うか分からず、私は攻勢に出る。

 敵は一向に姿を見せない。魔法の出力を上げて広域で空振を起こすと、何人かが脳震盪を起こして倒れた。これで時間が稼げただろうと二人の後を追おうとするも、しぶとくルサルカが飛来する。それに対処している内に二人の足跡が聞こえなくなった。

 この暗さではぐれると合流が難しくなる。頭ではそう分かっていたが、攻撃的な敵がいる以上は戦わざるを得なかった。背中を見せて、乱暴な手をリディアにかけるわけにはいかない。ただ、そんな思いも虚しく、二人が消えた方向から新しくルサルカを感じ取る。それと同時にリディアの悲鳴が上がった。

 「リディア!」

 駆けつけようとしても、呼応するように正面からの攻撃が強まる。最初から分断を狙っていたのだろう。私は体力を気にすることをやめ、高出力のルサルカで小賢しい敵を完全に排除する。飛来した魔法の中には見覚えのあるものもあった。その一つはピアで戦ったルルで間違いなく、あの時に殺しておけば良かったと後悔する。

 魔法でぬかるんだ地面を照らし、二人の足跡を探す。すぐにステファンの足跡が見つかり、それを追跡すると他の足跡と入り乱れて踏み荒らされた場所にたどり着く。ステファンとリディアを襲った敵は少なくとも五人いる。私は急いでその集団の足取りを調べた。

 しかし、動き始めてすぐ、右足に激痛を感じた私はその場に倒れこんでしまう。見てみると狩猟用のとらばさみが足首に食い込んでいた。魔法で強引に取り外して立ち上がるも、力が入らず再度倒れる。

 「だめ。リディア」

 私は右手のブレスレットを強く握って血が出るほど唇を噛む。魔法で右足の痛覚を遮断すると、体重をかけられずとも前に進めるようになる。リディアが遠くに行ってしまう。そんな恐怖から逃げるようにがむしゃらに足跡を追う。ただ、降りしきる雨が唯一の痕跡をみるみる消し去っていく。最後、遠くでかすかに笛の音が聞こえた。

 もう追いつけない。膝をついた私はシンタマニを地面に叩きつけた。ゲルトのシンタマニはこの程度では傷つかない。泥で汚れたブレスレットが視界に入ってもう一度心に火がつく。這いつくばってでも追いかける。ただ、体はすぐに動かなくなった。

 止血をしなかったことで体力はあっという間に失われた。仰向けになると、雨粒が顔に当たって私を孤独に追いやる。その後はただひたすらに泣いた。あっという間に大切な人を奪われてしまった。そんな光景はこれまでに何度も見てきたが、私には到底耐えられるものではないことを知る。肩にはまだリディアの吐息の感覚が残っていて、腰にはステファンに抱きしめられた時の窮屈さが蘇ってくる。しかし、全て失ってしまった。

 所詮、自分は奪うことしかできない人間だ。多くを傷つけてきた者に大切な人を持つ資格などない。神はそう言っているのかもしれなかった。初めて死んでしまいたいと感じ、そのまま何もかも投げ出して気を失った。

 私は死ぬことさえ許されなかった。朝日に頬を暖められて目を覚ますと、木々の隙間から青空が見える。体を引きずらせて近くの木にもたれかかり、まずは状況確認をする。足の傷はかなり酷いが、出血は止まっている。体力はほとんど残っておらず、魔法を使える状態にはない。あと少し気温が低ければ死ぬことができただろう。そんな乱暴なことを考えて近くに落ちていたシンタマニを拾う。

 二人はどこに連れていかれたのか。ルルがいたため、相手はラテノンで間違いない。それに、あの戦い方は最初から私を目当てにしていなかった。リディアがアントンの娘だから狙われたのか。それとも私と一緒にいたから狙われたのか。考えようとしても頭が上手く働かない。

 どうでもよくなって視線を落とすと、今度は手首のシリヴァスタが目に映った。どうしてこんなものを私にくれたのか。泥を拭っているうちにまた涙が溢れてくる。あの時は新しい感覚に舞い上がってしまった。冷静でいられたなら、いつかはこうして期待を裏切ってしまうと分かったはずである。

 しかし、家族と言ってくれたあの瞬間を思い出すと鼓動は早くなった。アントンは死の間際までリディアの身を案じていた。それが家族というものだ。クバが家族の絆を象徴するのは、お互いに支え合って苦難を乗り越えるから。ここで諦めがついてしまうなら、元から家族ではなかったというだけの話になる。幸い、私はアントンと違ってまだ生きている。リディアと再会する希望は残されていた。

 「リディア」

 大きく深呼吸して弱い心にわいた邪念を取り払っていく。リディアはきっと私が助けにくると信じている。どこかで泣いているかもしれないと考えると体は熱くなった。こんなところで腐っている場合ではない。

 私は四つん這いで周囲を徘徊して、見つけた木の実や植物を手当たり次第に口の中に放り込んでいく。二人を助けると決めた。そうなれば体力が必要となる。苦い果実を奥歯でかみ砕き、水たまりの泥をすする。傷を負った足首をツタで縛るとゆっくり立ち上がった。

 足跡は途中からきれいさっぱり消えてなくなっていた。追われると分かって魔法で痕跡を消したらしい。ただ、魔法をもってしても自然を厳密に再現することはできない。広く周囲を見渡してどこに魔法が行使されたか見極め、これまでとは打って変わって追跡者になる。気温が上がってくると体は動くようになるが、すぐに体力が枯渇して頻繁に眩暈を起こす。それでも少しずつ前に進む。追手は途中から馬を使ったらしい。その蹄の跡を発見した矢先、背後に人の気配を感じた。

 振り返った私は腹部に強い衝撃を受けて背中から地面に倒れた。シンタマニは固いブーツで蹴り飛ばされ、喉元に膝が食い込んでくる。ラテノンの連中ではない。私を見るその目は憎悪と殺意をはらんでいた。

 「お前、こんなところで何してる」

 「放せ」

 「ステファンはどこだ」

 へニアは私にシンタマニを突き付けながら周囲を見渡す。抵抗するには体力がなさすぎる。喉にかかる力が強くなって私は湿った地面に爪を立てた。

 「答えろ、ステファンはどこ?」

 へニアの目にも焦りが現れる。この状況で悪い想像をしないでいる方が難しい。私が答えられないでいると、胸ぐらを掴まれて木の幹に叩きつけられた。

 「聞こえなかったか!?ステファンはどこだ!」

 「連れていかれた」

 「なに?」

 「ラテノンに連れていかれた」

 私は掠れた声で何とか答える。その後に返ってきたのは重たい拳だった。頬を殴られて再び地面に倒れる。

 「だからお前に任せるのは嫌だったんだ!」

 背後でへニアが叫び、激高する。ひとしきり周りの物に当たり散らかした後、私の髪を掴んで強引に顔を上げさせる。へニアは泣いていた。

 「相手は誰だ」

 私は力なくへニアの赤い瞳を見つめる。今にも喉元に噛みついてきそうな形相だ。私が答えないでいると、足首の傷をブーツで踏まれる。痛みで声が漏れた。

 「ステファンが死んでもいいのか!エレナ・ヘイカー!言ってから死ね!」

 「ルルという魔法師。他にも大勢いた」

 「あの子供も一緒か」

 「ええ」

 「いつ襲われた」

 「昨日の夜更け」

 そこまで答えるとへニアは私を投げ捨てる。リディアの悲鳴が頭の中で残響する。もし苦痛を与えられていたとしたら。そう考えると心はかき乱された。へニアは悪態をつきながらシンタマニを腰に戻す。

 「あのくそ野郎ども。私から二度も奪うなんて」

 「へニア」

 「なんだ」

 「私も連れていって」

 私は膝を正して頭を地面に擦り付ける。へニアはリディアを気に留めないかもしれない。そうなれば私が行って守らなければならない。しかし、へニアは私のすぐそばに唾を吐いた。

 「まともに歩けもしないお前に何ができる?足手まといだ」

 「ついていく」

 「お前は負けた。仲間を失い、価値を失ったんだ。意味分かるだろ。帝国の魔法師様なら尚更」

 「私には二人がいないと」

 「お前は殺しが上手なだけで、大切な人を一人も守れない弱い魔法師だ。もともと関わるべきじゃなかった。二人が大切か?だったらここで死ね」

 そう言い捨てたへニアは走り去っていく。私は悔しさと後悔に押し潰されそうになって叫び、頬の内側を力任せに噛んで痛みを上書きした。自分が不完全な魔法師だということは、へニアに言われずともよく分かっている。それでも諦められない。

 私はのっそりと立ち上がってシンタマニを拾う。家族のためならばどんな屈辱も受け入れる。どんな旅路になろうとも乗り越えてみせる。ウタラトスのために旅をしていた時とは違う。喉に詰まっていた血を吐いて来た道を引き返した。

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