39. エムデン
翌日、私たちは予定通りエムデンに到着した。街道には検問が設置されていたが、コリンの案内で裏道からエムデンに入る。ここの景色には見覚えがある。一年と半年前、私とウタラトスは命からがらこの街に逃げ込んだ。その時には想像もしていなかったが、アタパカに大きく輪を描いて再び戻ってきたわけである。
「私たちはラテノンの詰所に向かいます。ここからの道は分かりますか」
「ええ」
「それではここで。ご一緒できて良かったです。一週間はエムデンにいるはずなので、もし何かあればまた」
握手を交わした後、コリンとシーラは小さく頭を下げて離れていく。三人だけになると、お互いに顔を見合わせてから私の先導で歩き始めた。今日はシリヴァスタをつけた手をリディアと繋ぐ。大通りを避けて路地裏に入り、汚水とごみを避けながら進んでいく。
「これからどこに」
「私がウタラトスを引き渡した場所に行く。そう遠くない。フリッツって変な女が営む雑貨屋があるの」
初めてここに来たときは二人とも疲労困憊だった。追手が迫っているという緊張感に加え、リディアより年上とはいえウタラトスもまだ子供だった。それに、私も今ほど旅に慣れていなかった。
エムデンにラテノンの拠点があることは知っていたが、フリッツとの出会いは偶然だった。クラウスやグスタフを振り切れないと悟った私はフリッツにウタラトスを預け、一人囮としてバイロイトを目指した。あの時の孤独な記憶が蘇ってくる。
しばらく歩くと、川を挟むように広がる大きな市場が見えてきた。流れが穏やかな川の上にも小舟がひしめき合っていて、巨大な水上マーケットを形成している。今日も多くの人で賑わっている。私とステファンはリディアを人混みから守りながら歩く。何度か道に迷いつつ、なんとか目的地に到着した。
「気を付けて。もしかすると帝国軍が先に来てるかも」
「リディア見て。ツナだ。食べたことある?」
振り返ると、二人は私の注意も聞かずに露店の果物に興味を示していた。そこには緑色をした細長い果物が陳列されている。リディアが首を横に振ったのを見て、ステファンが三つ買う。
「何してるの」
「エレナも食べてみて。ここに穴を開けてこっちからストローで中を吸うんだ。甘いよ」
「行くよ」
能天気にもほどがある。ひったくるように一つを受け取ってから、二人を引っ張って一つ隣の店に移動させる。曇り空のせいもあってランタンが灯っていても店内は暗い。人の気配は全く感じられなかったが、私が傷だらけの机をノックすると奥からしがわれた女の声が返ってきた。
「はいはい、誰だい」
「あれ、少し老けた?」
私が会釈すると、眼鏡をかけ直したフリッツにまじまじと観察される。前に会ったときよりも身長が縮んでいる。顔のしわも増えていた。
「あんた生きてたのかい」
「ええ」
「老けたように見えるならあんたのせいだよ。さあ入って」
フリッツは私たちを店の奥に案内する。通路には足の踏み場もないほど物が散乱していて、客が来ているのか心配になる。通されたのは倉庫兼休憩室だった。あの日と変わらず、ここにも売れ残りの商品が山積みになっている。
「帝国の英雄が随分と優しい顔をするようになったじゃないか。そんな子と手まで繋いで。おや、それはシリヴァスタかい」
「別に」
私がそっけなく返答すると、扉を閉めたフリッツが煙草に火をつけようとする。私はすぐにその手を握ってやめさせた。子供の前でマナーのなっていない老婆だと目で非難する。
「ウタラトス様の前では止めなかっただろう」
「まだこんな店を続けてるとは思わなかった」
「失礼だね。あんたが来たせいであの後大変だったんだ。軍がやって来て、数ヶ月市場を丸ごと閉鎖しての大捜索さ。おかげで直後は人が寄り付かなくなって商売あがったりだったね」
「そのことで話がある」
「まだ鬼ごっこしてんのかい。まあ、あんたがここに来る理由なんてそれくらいだろうけどね。フリッツ・ミューエだ。ここの店主だよ」
フリッツがそう言って手を差し出す。ただ、ステファンとリディアは握手しようとして自分の手を見つめて固まる。その手はツナの果汁でべたべたになっていた。フリッツはやれやれと二人のために濡れた手拭いを持ってくる。
「ステファン・ポラックです」
「リディア・マルティンです」
「リディア・マルティン?聞いたことある名前だね。そうだそうだ、アントンの娘だ」
「父は死にました。帝国の兵士に殺されて」
リディアが自らの口でアントンの最期を説明する。無理をさせてないかと心配したが、その表情に気弱な影はない。まっすぐフリッツを見据えて、アントンが持っていた力強さを継承している。
「そうかい。それは残念だ。アントンとは古い知り合いだったからね。それで今日は何の理由でここに来たんだい?まさかその子を匿ってくれと言うんじゃないだろうね」
「違う。ウタラトスのことで少し」
「もう終わったことだろう」
「私が預けてからどこへやった?」
私は単刀直入に問いかける。フリッツは思案顔を作ってわざと間を置く。その顔はどうして今頃になって探っているのかと訊いていた。
「私がウタラトスを連れてきた理由をもう忘れた?」
「それはよく分かってるさ。でも、命を狙う者は多い」
「私が殺そうとしてるとでも?」
「ライネの政治は醜い。昨日の友が明日の敵ってこともあるんだろう」
「私には魔法がある。その気になれば強引にでも」
「エレナ」
「分かってる。フリッツ、どういう意味か分かるでしょう」
ステファンに心配されずとも乱暴するつもりはない。フリッツは埃の積もった木箱に腰掛けて頬杖をつく。私の手はリディアから貰ったシリヴァスタに触れていた。
「まあ隠すことでもないな。少し前にもラテノンの奴が来て教えたばかりだ。指導部が居場所を隠してるんだって?」
「誰が来た」
「ヤンの部下だよ。ヤンもアントンと一緒で古い知り合いだからね」
「それでどこに」
「教えてやるが、ここに火の粉を飛ばすんじゃないよ。だいたいラテノン同士で争ってどうするのさ。ラインホルトがあの世で悲しんでるよ」
「フリッツ」
私が催促すると、ため息をついたフリッツがそばに置いてあった机の引き出しを漁り始める。出てきたのはアタパカの地図だった。
「ここから西に半月歩いた距離にカッセルって街がある。バイロイトからだとちょうど北に一週間くらいかね。そこにラテノンの拠点があってね。そこへ連れていった」
「連れていってどうした」
「指導部に預けたさ」
「間違いない?」
「まだ痴呆は来てないよ。偶然そこにネルンストが来てた。間違いないね」
ネルンストはラテノン指導部で軍部のトップを任されている男である。もう一度念を押して確認したが、嘘をついている様子はなかった。
これでヤンの話に信ぴょう性が出てきた。確かにウタラトスの身柄はラテノンの指導部が秘匿しているらしい。その理由は分からないが、考えうるのはヤンの企みに先手を打った可能性だ。もちろん、帝国軍から守るためだとも考えられる。しかし、それならばヤンにまで隠す理由がない。
ヤンはラテノンのトップを挿げ替えることでアタパカに平和が訪れると信じている。一方のヴィーラントは、争いをもって真の自由と平和を勝ち取ろうとしている。私にはそのどちらが正しいのか判断できない。しかし、現状ではアントンと同じ考えを持っていたというヤンに賛同しつつあった。
「それであんたたちはどうするのさ。その子を危ない世界に巻き込むのかい」
「リディアは私が守る」
「その自信過剰さが裏目に出ないといいけどね」
「いいえ、私もついていきたいんです。父が望んだ世界を見てみたいから」
「ふうん。父親に似て強い子だ」
「エレナさんのおかげです」
リディアが私に微笑みかける。素直に嬉しい。そう思った私は必死に平静を装おうとして、その努力をフリッツに見られてしまう。フリッツは一度手を叩いて立ち上がると服についた埃を払った。
「そうなると長旅だね。私が準備できるものは用意するよ」
「ありがとう」
「いいんだよ。私だってさっさとこんな世界を変えてほしいからね。ヤンもヴィーラントも、そしてあんたらも、目指す先は同じだと信じているからさ」
フリッツはその後、旅の道具や食料を準備してくれた。私は待っている間、リディアと他愛のない会話をしながら物思いに耽る。これからどうしてあげることがリディアのためになるのか。その答えをずっと持っていなかった私は、先ほどの会話で手がかりを得た気がしていた。リディアはアントンが望んだ世界を見たがっている。それならばそのために努力することが一番手っ取り早い。いずれにしても、私ばかりが恩恵を享受するこの不平等な関係をどうにかしたかった。




