34. クラウスとカタリナ
目を覚まして最初に聞こえたのはステファンの声とパチパチと枝が爆ぜる焚火の音だった。目を開くとじっとりと濡れた岩の天井が目に映る。どこか洞窟で野営をしていただろうか。頭はぼんやりとしていて思考がまとまらず、体は雪崩に巻き込まれた時のように怠い。心だけが穏やかで落ち着いていた。
いつものようにステファンの食事をリディアと食べよう。そんなことを考えながら地面に腕をついた瞬間、強烈な痛みに襲われる。横になっていた時には感じなかったが、力が加わると火にかけられたかのように熱を持つ。その痛みをもって記憶が蘇ってきた。
「ステファン!」
痛みをこらえて起き上がり、周囲に視線を這わせる。すると、洞窟の入り口近くで焚火をつつくステファンの姿があった。隣にはリディアもいて、二人して驚いた顔で私を見ている。二人が無事だった。そんな安堵も束の間、奥にもう一つの人影が見えて目を凝らす。それはフィールドグレーの軍服を着たカタリナだった。
「カタリナ・ミネッティ!」
二人が危険に晒されている。咄嗟に両手で腰のベルトをまさぐるがシンタマニが見つからない。それならば丸腰で戦うまでだと、魔法言語を詠唱してルサルカを集めた。目の前の三人はそれを見て慌てふためく。カタリナは素早く洞窟の岩陰に飛び込み、ステファンとリディアは手にカップを持ったまま駆け寄ってきた。魔法の発動はそんな二人に邪魔される。
「動いちゃだめだ」
「エレナちゃん、落ち着いて」
「二人とも私の後ろに隠れて!」
私は二人の腕を引っ張ってカタリナの動きに集中する。戦うには体力が足りていない。後方では暗い洞窟が口を開けているが、空気の流れがないため袋小路の可能性が高かった。
「エレナさん。私に敵対する意思はありません」
「黙れ!目的は何だ!?」
「カタリナの言う通りだよ。僕らは何もされてない」
ステファンは興奮する私を振り向かせて小さく両手を広げる。リディアの丸い瞳にも恐怖は見当たらず、あるのは私を心配する感情だけだった。
「分かっただろ。とにかく座って。傷口が開いたら大変だ」
ステファンに肩を掴まれて強引に座らされる。その時になって腹部からもじんわりとした痛みを感じた。見ると服が赤く染まっている。
「カタリナさん。もう大丈夫だと思います」
ステファンに声を掛けられてカタリナが恐る恐る岩陰から出てくる。右手にはシンタマニが握られていたが、戦う意思はなかった。
「あれから助けてもらったんだよ。今はもう僕らの命を狙ってない」
「いい加減なこと言わないで」
「いい加減なのはどっちだ」
私が反論すると、どこからともなく癪に障る声が飛んでくる。洞窟の入り口に新しく誰かが立っている。拳を握った私が立ち上がろうとすると、再びステファンとリディアに押さえつけられた。
「お互い滑稽だな。王家魔法師が揃いも揃ってこんな岩陰に身を隠してる」
「クラウス」
「ここであの日の続きをするか。さんざん辛酸を嘗めさせられたが、こんな機会は二度とない。お前に殺された同志の喜ぶ顔が目に浮かぶ」
「こら、何言ってるんですか。格好つけてないで買ってきた物を出してください」
やはりクラウスは殺さなければならない。そう思っていたところ、カタリナが高圧的な態度を叱責して手を差し出す。クラウスはこちらをまじまじと観察した後、麻の袋を渡した。
「近くの街まで薬を取ってきてもらってたんだ。エレナの傷のために」
「何かされたの?それとも私が人質に?」
ステファンはクラウスという魔法師の正体をよく知っている。それにもかかわらず、こうして好意的に話しかけていることに違和感があった。私は今の今まで気を失っていた。優しいステファンのことだ。私の命を天秤にかけられて言いなりになっていたのではないかと考える。しかし、ステファンとリディアにそんな様子はなく、ルサルカで操られているということもなかった。
「びっくりしたと思う。でも僕が決めたことなんだ。だから信頼してほしい」
動悸が収まらない。目の前にライネからの忌敵がいるのだから無理もない。ステファンもそれを理解してか優しい口調で話しかけてくる。ただ、そう簡単には受け入れられない。痕跡は残っていなくとも、命を奪い合った時の緊張や恐怖は体に染み付いている。それをステファンの短い言葉だけでなかったことにはできなかった。
しかし、そうした脳内での結論とは裏腹に、私はステファンにされるがままその場にへたり込んでいた。勝算がないことも理由の一つである。ただ何より、ステファンを信じていないと受け取られたくなかった。
薬を受け取ったステファンが、私に服をめくり上げるよう指示する。無言の抵抗も長くは続かない。薬は香草の匂いが強い軟膏で、ステファンの手で温められてから肌に塗られる。リディアもステファンにならって私の腕に塗ってくれる。両腕の肌はリビオの魔法を受けて全体的に腫れていた。
その間、クラウスとカタリナは焚き火を囲んで静かにしていた。定期的にカタリナの視線が気になる以外は何もなく、気まずい沈黙が流れている。その中で最初に口を開いたのはクラウスだった。
「グスタフ様に負けたお前は凍てついた川に落ちた。誰もが死んだと思ったが、死体を見つけなければライネには戻れないと言われ、俺たちはありもしない死体を探してあの川を十日も這いずり回った。一体どうやって生き延びた」
「黙ってろ」
「もうこれは必要ないのか」
クラウスから何か小さな物を投げつけられる。受け取ってみるとそれはハイドラ家の魔法師を証明する記章だった。軍服はラッサに置いていかざるを得なかった。捜索して見つけたのだろう。
かつて、この記章は身分を証明する以上に私自身の存在意義を表す大切なものだった。手のひらに乗せて握りしめると初めて与えられた日を思い出す。ただ、次の瞬間には洞窟の壁に投げ捨てていた。
「ステファンもういい」
「駄目だよ。包帯巻くから」
「分かってるの!?」
ステファンの手首を掴んで強引に治療をやめさせる。すると、驚いたリディアがステファンの背後に引っ込んでしまった。こうしてまた孤独になるのかもしれない。しかし、耐えられない。
「こいつらはラッサでトニーを殺した。ヘントではアントンを。ヘニアだってどうなったことか」
「俺たちの任務はお前を殺すことだった。他の殺しは知らない。お前がピアで置き去りにした魔法師も忌々しいことにまだ生きている」
「そんな言い訳は通じない」
「図々しいぞエレナ。同じ穴の狢のくせに自分だけ善人気取りか?お前がライネの政治を持ち込まなければ全て助かっていた命だろう」
「だったら一緒に死んでやる。そうすれば報われる人もいるはず」
「エレナ!」
私はもう一度クラウスとの決着を求める。そこで怒声を上げたのはステファンだった。眉間にしわが寄って、それを見たリディアが今度は私の後ろに隠れる。丸一年、一緒にいても見たことのない顔だった。
「魔法師同士でいがみ合うのは勝手にすればいい。でも、自分たちの特権だと言わんばかりに命をもてあそぶ態度が気に食わない。トニーやアントンだけじゃない。エレナとの旅では多くの人の死に触れた。それはとても苦しいことだったけど、苦しいと知ったから僕はクラウスやカタリナと交渉したんだ。なのに自分が死ねばいいとか平気で言って。僕には理解できないよ」
「わ、私だってステファンとリディアを守りたかった。魔法師の間違った行動を止めたかった。それだけで」
ステファンの言葉は重たい。必死に言葉を紡ぐ私だったが、上手くできずに焦ってしまう。ステファンを含めアタパカの人々が共有する価値観は、人の命を奪うことで評価される魔法師と相反する。私はステファンとの時間を通してその尊さを理解し、受け入れようと努力した。しかし、仇敵と対峙するとどうしても体に染み付いた癖が出てしまう。今になってすれ違いを起こすことは嫌だった。
「これが英雄の末路か。アラスに単身乗り込んだ理由も今なら理解できる。力だけが取り柄の価値のない魔法師だ」
「クラウスさん」
私から威勢が消えるとクラウスは饒舌になり、カタリナがそれを宥める。そんな時だった。リディアがおもむろに立ち上がってクラウスに近づいていく。何をする気なのかと全員で見守っていると、金属のカップを振り上げてクラウスに殴りかかった。クラウスは殴られる前に背後に回り、リディアの首根っこを掴んで持ち上げる。リディアは為す術なく宙で手足をばたつかせた。
「この野郎!エレナちゃんまで傷つけるなんて!許さない!」
「カタリナ」
クラウスは面倒くさそうにリディアを放り投げる。カタリナに上手く抱きとめられたリディアはまだ怒っていた。ステファンは包帯を置いてリディアを引き取りに向かう。私は理解の追いつかない現状を一旦は受け入れることにした。
「リディア、ありがとう。でもいいのよ」
「だけど」
「ステファン、私はどれくらい気を失ってたの?」
「五日だ」
「その間にあったことを話して」
リディアを抱えたステファンが私の隣まで戻ってくる。やはり二人と溝は作りたくない。正座になって太ももをポンポンと叩くと、優しい顔に戻ったリディアがその上にちょこんと座る。クラウスはそれを鼻で笑った。
「あの時、クラウスが来たのは覚えてるだろ」
「ええ。でもその前に聞いておきたい。どうしてあそこにステファンがいたの?待ってるように言ったはずだけど」
「それは」
「私がお願いしたの。エレナちゃん、もう帰ってこないかもしれないと思って。あのまま二度と会えなくなるのは嫌だったから。ごめんなさい」
リディアが謝る。黙っていると、前髪越しに瞳が潤むのが見えた。叱ることなどできない。
「ありがとう、おかげで私は助かった。ステファン、続けて」
「クラウスたちはエレナとリビオが戦うところを見ていたそうだ。本当はリビオと同じ命令を受けていたそうだけど、カタリナが嫌がって僕らの追跡を続けてたらしい」
「見てただけなら加担したも同然。あの親子の悲痛に満ちた叫びを聞いて体が動かなかったのなら」
「正しい魔法師の姿だ。いかなる命令にも従う。それが魔法師には求められている」
「だから私たちは嫌われ者なのよ」
クラウスの考え方は私にも馴染み深い。王家直属魔法師を続けている限り、こんな凝り固まった考え方から抜け出すことはできないのだろう。ステファンと出会えた私は幸運だった。しかし、クラウスの目は新しい価値観に染まった私を可哀想とでも言いたげだった。




