32. エレナの正しさ
私たちは進路を南にとってシエナ山脈を突っ切る道を選択した。この山脈はこれまでに越えた山々と比べて標高が低く、谷を抜ける街道を使うことでその行き来が比較的簡単となっている。春を迎えたこともあって人々の往来は激しく、帝国軍の姿もあったが彼らが私たちを気に留めることはなかった。
関所はコキンボ自治区に入る直前に一つだけあり、そこでは通過する人の顔と名前、目的が確認されていた。遠くから見ている限り実務を一般の兵士が行い、数名の国家警備魔法師が警備と統括をしている。戦力は私の方が勝っているだろう。しかし、危険は回避すべきというステファンの考えに従い、ここからは獣道に分け入ってコキンボを目指した。
一晩だけ森の中で野営を行い、翌日からはシエナ山脈から南に流れる川に沿って点在する集落にお世話になりながら進んでいく。アレスが近づくにつれて、耳に入る話はより具体性を帯びつつ、凄惨になっていく。私は怒りとともに疑問を増幅させた。
明日にはアラスに着く。そんな距離まで迫ってもまだ犯人の素性は分からなかった。軍が街を封鎖したため正確な情報が入らないという。私の雰囲気が日増しに悪くなっていることをステファンとリディアも肌で感じ取っていて、会話が明らかに減っている。この日は、夕食後に私から話しかけた。
「明日は私だけでアラスに向かう。二人はここに残ってて」
「どうして!?」
短く用件を伝える。真っ先に反発したのはリディアだった。首を大きく振るリディアに抱きつかれ、意志薄弱とは無縁だったのはずの心が早速文句を言い始める。ただ、リディアを連れていくなどできるはずがない。何度か頭を撫でた後、奥歯を噛んでステファンの方に押し戻した。ステファンはこうなることを予期していたのか、リディアを膝に抱えて一つ息を吐く。
「戻ってきてくれるのか」
「上手くいけば。期限は二日。それまでに戻らなければ二人はここから離れて」
「嫌だ!」
「リディア、よく聞いて。魔法師の醜い行いは魔法師が止めないといけない。二人とは関係ないことなの」
「でも、嫌だよ」
「僕らは待つことしかできない?」
「ええ」
私はシンタマニを握って円筒部をゆっくりと回す。そうして心を落ち着かせているとステファンと目が合った。最初は何か逡巡しているようだったが、最後はリディアの説得に移ってくれる。
「仕方ない。僕らが行っても邪魔なだけだ」
「うう」
「私がこれまでにリディアを置いていなくなったことなんてあった?」
「ない。だけど」
「じゃあ信じて。この正しさはリディアが教えてくれた。リディアが受け入れてくれた私には罪なき人を魔法で苦しめる暴挙を無視できないの」
たとえ分かり合えなかったとしても私の気持ちは変わらない。リディアに嫌われようともこの正しさを胸に抱いて生きていくと決めたからだ。リディアはこんな私のために涙を流してくれる。優しく微笑みかけると、嗚咽を漏らしながらも最後は頷いてくれた。
「私がいない間、リディアをお願い」
「分かってる。こっちの心配はしなくていい。でも」
「ん?」
「心配だ。抱えられる不安には限りがある。へニアのことがずっと胸に突っかかってるのにエレナまで。どうすることもできないって分かってるから余計に歯がゆいよ」
ステファンが落ち着いた声で胸の内を吐露する。素直に嬉しかった。ただ、どう言葉を返そうかと考えると思いのほか伝えたいことが多いと気付き、結局は感謝の言葉だけを口にした。
翌朝、私は日が昇るよりも早く泊まっていた宿を発った。ステファンやリディアと抱擁を交わしたのは三人の旅がこれで終わりになる可能性を十分に承知していたからだ。フードを被って早歩きで進むあぜ道からは農作業に励む人の姿が見える。山脈からの雪解け水が蜘蛛の巣状に引かれて、一か月後には新緑に染まった風景が広がるのだろうと想像する。
もし今の自分がラッサでステファンと出会っていたらどうなっていただろうか。真っ直ぐな道の先を眺めながらそんなことを考える。きっとあの時よりもずっと愛想よく振舞い、ニーナやへニアとも違った関係を作っていたかもしれない。そんな生活は楽しそうだった。
それでも、私が帝国の魔法師だった過去は変えられない。いずれはクラウスに居場所を突き止められ、より大きな絶望とともに旅を始めていただろう。だからこそ、私はこうして一人で歩いている。
アラスはここらで最も大きな街だが、通ずる道には全くと言っていいほど人の気配がなかった。聞いていた通り、帝国兵が街を包囲するように配置されている。私は最も手薄な場所を探し出すと、そこの兵士を無力化してアラスに侵入した。
通りは気味が悪いほど閑散としていた。まずはここで何が起きているのか調べなければならない。その前に軽い休憩を取るべく、通りに面した廃屋に入ってステファンのサンドイッチを食べた。この味ももう最後かもしれない。そう思うと感想を伝えておくべきだったと後悔する。名残惜しく最後の一口を頬張っていた時、遠くで銃声が鳴り響いた。
割れた窓から外を窺っても変わった様子はない。ただ、荷物を背負い直していた時、蹄の音が聞こえてきた。私は窓に寄ってもう一度外を観察する。見えたのは騎兵の列だった。彼らは数軒隣の建物の前に馬を止めると、扉を叩いて怒鳴り声を上げる。
「出てこい!」
その声には人を威圧する力があり、同時に恐怖を内包していた。しばらくすると腰を引かせた男が出てくる。兵士はその男を押しのけるなり建物内に押し入った。一分もしないうちに外に引っ張り出されてきたのはリディアと同じ年頃の男の子だった。栗色の髪を鷲掴みにされて嫌がると頬をぶたれている。それを追いかけて母親も出てきたが後頭部を銃床で殴られた後、男の子と一緒に馬に乗せられた。
「やめてくれ!」
「うるさい」
必死に懇願する父親は太ももを撃たれてその場をのたうち回る。その間に母子を連れた兵士たちは来た道を戻っていった。
周囲が安全かどうかまだ分からない。それでも男の子がリディアと重なった私は、なぜこうなる前に助けなかったのかと自らを非難しながら廃屋を飛び出した。男のもとに駆け寄ると、向かいの建物で別の男が心配そうにこちらを見ていることに気付く。しかし、外に出てこようとはしない。
「大丈夫か」
私は男を横に寝かせる。止血のために手拭いで傷口を縛ると、男はうめき声を上げた。私は魔法で止血を試みる。
「ラテノンの魔法師」
「違う」
「誰でもいい。家族を助けてくれ!このままだと殺されてしまう!」
男が私の両手にすがりついてくる。私はそれをやめさせ、後方に手を振って人を呼ぶ。顔を覗かせていた男が恐る恐る近づいてくると、傷口を押さえるように指示を出した。
「誰が処刑を」
「帝国の魔法師」
「特徴は」
「頭のおかしい奴だ。右腕がない」
「リビオ」
「あいつは悪魔だ。誰もアラスから出られない。皆殺される!」
「静かに。そいつはどこにいる」
私はシンタマニを腰に戻して荷物をまさぐる。後から来た男が声を震わせながら答えた。
「中央広場。今日は気が立ってる。さっきの銃声でもう十回目だ」
「分かった。隠れてろ」
私は砂糖水の入った水筒を飲み干す。甘ったるい水が喉を通り過ぎて、サンドイッチの味を全て忘れてしまう。何度か大きく深呼吸をすると手遅れになる前に走った。
アラスの造りは珍しいものだった。建物は広場を中心に同心円状に立ち並んでおり、その間を縫うように道が舗装されている。兵士が闊歩している地上の移動は難しく、私は屋根伝いに広場を目指す。ただ、広場に最も近い建物には帝国兵が多く張り付いていて行く手を遮られてしまう。考えた末、大げさに数人の見張りを殺して、混乱する兵士を尻目に堂々と地上から広場に入った。




