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31.噂

 ピアを離れてひと月が過ぎた。とうとう長い冬が終わりを迎え、雪が降らなくなった平野は春の暖かい陽気に包まれていた。冬の間は枯れた川ばかり見てきたが、最近になって船で川を越えることも増えた。船頭の話では山脈の雪解け水を源とする季節河川らしく、道理で魚が釣れないわけだと嘆くステファンをリディアと一緒に笑ったことが最近の楽しかった出来事だ。とはいえ、この水は砂と石だらけの土地に植物を生やし、それを求めて羊や牛が集まってくる。牧羊犬の姿もあったため、ここらの住民が放牧しているのだろうと想像がついた。

 季節の変化は自然だけでなく私たちにも影響を与えた。その最たる例が野営の過酷さが緩和されたことである。リディアが寒さで悪夢を見ることもなくなり、最近では三人で春の星座を見つけ合う余裕までできた。ただ、そんな恩恵を受けるのは追手も同じである。私たちを執拗に追う魔法師のことを考えると不安は消えない。ただ幸い、ピアを発ってからは帝国軍を目撃していなかった。

 私たちはタラパカの東はずれにあるエムデンという街を目指している。そこは私が一年前にウタラトスをラテノンに預けた街で、その後の足取りを調べることにしたのだ。ヤンの話では指導部が身柄を預かって以降、ウタラトスの居場所が分からないという。不倫の末に生まれた子を巡って、背後では様々な思惑が絡み合っている。私もそこに興味を持った。

 今でもウノカイアの命令は効力を失っていない。ステファンを説得した時はそんな過去を持ち出した。ただ、ステファンでさえこれが建前だということには気付いただろう。ピアの一件で私たちはラテノンに協力を求められなくなった。そこで、ウタラトスを取り巻く状況が利用できると考えたのだ。

 道中、私たちはティロルという小さな村に寄ることにした。いつの間にかマウレ自治区という帝国の領土に足を踏み入れていたらしく、その村ではいたるところで五芒星の旗が翻っている。ただし、ピアに内地の人間が多かったように、ここにはアタパカ人が多く住んでいる。そのおかげで私たちが不審がられることはなかった。

 「こっちで一部屋貸してくれるって」

 手分けして民宿を探し、先に見つけたステファンが寂れた民家まで案内してくれる。日が落ちてもう数時間が経っている。リディアは小一時間前にステファンの背中で眠ってしまっていた。

 宿主のグースは内地の人間だった。私がやり取りをすることになり、ステファンは部屋にリディアを寝かせにいく。グースはどうやら農夫でもあるらしい。農具があちこちに置いてあり、今は懐かしいステファンの家と似ている気がした。

 簡易的な食事であれば用意できると伝えられ、空腹だった私はステファンを呼ぶ。ステファンは眠たそうに目をこすりながらグースと握手を交わし、私の隣に腰掛けた。

 「ククル」

 グースも席につくと声を張って誰かを呼ぶ。すると、別の部屋から一人の女性が顔を出した。先に休んでいたようだったが、私たちと目が合うと嫌な顔一つせず小さく会釈した。

 「妻のククルです」

 「起こしてしまってすみません」

 「いえ。お茶を淹れますね」

 ククルは寝間着に上着を羽織り、キッチンに立つ。40歳前後に見えるグースに対して、ククルは随分と若い。また、ククルはアタパカ人だった。ここではそんな関係もよくあることなのかと思っているとグースが口を開いた。

 「旅のお方ですか?」

 「それを生業にしているわけでは。ピアから逃げる途中でして」

 「ピアで何か?」

 「ラテノンと帝国軍の大きな戦闘が」

 「そうでしたか。疲れた顔はそのせいだったんですね。街を出るほど酷いことに?私の知り合いも何人か住んでいるもので」

 「衝突が始まってすぐに逃げたので詳しいことは何も」

 ステファンがピアでの出来事を軽く説明していく。その間にククルがお茶の入ったカップを全員に配っていき、それが終わると軽食を作り始めた。飲んでみると少し甘い。ただ、これが帝国でありふれた味だったことをふと思い出す。

 「ここもいつ巻き込まれることか。私たちも覚悟しないと」

 「さすがの帝国も自分の領地で戦闘は起こさないでしょう」

 「はい、普通の軍は。ただ、最近になって魔法師の蛮行を耳にするようになりました」

 「魔法師?」

 眉間にしわを寄せるグースから魔法師という言葉が出て、私は思わず身を乗り出す。その時に手がカップに当たって中身が少しこぼれてしまった。ククルが布巾を持ってきて濡れなかったかと心配してくれる。頭を下げた私は、落ち着いてから隣のステファンを見る。そこには憂いを含んだ瞳があった。

 「ピアから来たのであればウルス山脈から分岐したシエナ山脈の北側を歩いてこられたのでしょう。この山脈を越えた南はコキンボ自治区ですが、そこのアラスという街で最近、帝国の魔法師がとんでもない蛮行を繰り返しているという噂が」

 「どんな」

 「現地のアタパカ人を人質に取り、一人ずつ処刑しているそうです。それも女や子供を選んで。目的はラテノンの魔法師をおびき出すためだと聞きました」

 「誰がそんな馬鹿なことを」

 ステファンが声量を上げて怒りを露わにする。私は感情を握り拳に移し、冷静な頭で理解に努めた。普通に考えれば信じられない話である。人道的な観点からもそうだが、一般的な魔法師の任務から大きく逸脱している。そんな蛮行の先に魔法師の利益はないように思えた。

 「アラスもアタパカに近い町で、多くのアタパカ人が住んでいます。私は帝国の生まれですが、この祖国の行いはあまりにも許しがたい。ここらでは帝国とアタパカの軋轢に関係なく、お互い手を取り合って生きてきた。そんな関係に水を差しかねない愚行です」

 グースの声にも怒りが乗る。私は直感的に王家直属魔法師の仕業ではないかと疑った。ここらで活動する魔法師のほとんどは国家警備魔法師であるが、彼らがここまでの蛮行を働いたという話は聞いたことがない。スミロが吐露した苦悩もこれほどではなかった。

 一方、最近になって何人もの王家直属魔法師がアタパカに投入されている。彼らは私と同じく人を殺して駆け上がってきた人間である。アタパカで営まれる穏やかな生活に触れたことなどなく、その尊さも命令の前では意味を持たない。そして、そんな彼らをこの土地に招いたのは他の誰でもない私だった。

 「ですから、できるだけアタパカから離れて移動することをおすすめします。魔法師は心を持たない。見つかったが最後、何をされるか」

 「分かりました。気をつけます」

 グースの助言にステファンが暗い声で感謝を述べる。私の心には影が落ちた。軽食で空腹が満たされても気分が晴れることはない。

 話を終えて部屋に入り、リディアの寝顔を見て少しだけ痛みが和らぐ。しかし、この時ばかりはその頬に触れたいと思わなかった。

 「困ったな。エムデンにはコキンボを抜けて向かうつもりだったんだけど」

 「ええ」

 「それにしても惨い。敵を誘い出すために関係のない住民を殺すなんて。とにかく迂回しよう。リディアのことがあるし、エレナにも負担はかけられない」

 寝袋を広げながらステファンがこれからの方針を提案する。私はベッドに腰かけて大きく息を吐いた。これまでのように見て見ぬ振りすることは簡単だ。しかし、私が招き寄せた災いだと考えると心はかき乱された。そんな私を気にしてか、ステファンが寝袋の上からこちらを見上げてくる。

 「何か思うことでもあるの?」

 「犯人はクラウスかもしれない」

 「でもあいつはエレナを追ってるんだろ。急に矛先を変えるかな」

 「本当の標的は私かもしれない」

 シンタマニを握って早まる呼吸を落ち着かせる。脳裏にはアタパカで見てきたいくつもの死が蘇っていた。彼らは些細な幸せの中で生活していただけだった。針で刺されたような痛みが胸に広がり、シンタマニを手放してしまう。

 「止めたいの?」

 「分からない」

 「エレナが決めることだ」

 痛み止めになるような言葉を求めていたわけではないが、ステファンの突き放すような反応に唇を噛む。何を優先すべきか頭の中でこんがらがって纏まらない。悶々としていると、ステファンがおもむろに立ち上がって私の隣に腰掛ける。ベッドが大きく沈んだことでリディアが唸りながら寝返りを打った。

 「僕らを気にしてるなら心配いらない」

 「馬鹿言わないで。二人とも命を狙われてる」

 「それを理由にエレナを不自由にしたくない。全ては自分次第だって言っただろ?すべきだと思ったことはその時にしておかないと」

 「それで二人を失えば私は後悔する」

 「大丈夫だって。その時は僕がリディアを守る。戦いは不慣れだけど、魔法から守ることはできるみたいだし。ちょっとくらいの負担なら背負えるよ」

 ステファンは呑気な顔でそんなことを言う。自分でその罪深さに気付いているのか分からないが、笑顔を見せられて私の頬も緩んだ。

 「クラウスは私と同じヴァイデン出身。そんなことをして故郷の魔法を汚してるのなら私が止めないといけない」

 「そう言うと思った」

 「協力してほしい」

 「もちろん。僕は最後の最後までエレナに協力するよ」

 迷いなく言い切ったステファンはのっそりと寝袋へ戻っていく。私もベッドに横になるとリディアの前髪を耳にかけてその寝顔を見つめた。

 協力すると言ったステファンの言葉は力強かった。ただ、その最後というのがいつなのかと疑問に思って変な想像をしてしまう。いずれステファンとも別れが訪れる。初めて心を許した相手なだけあって、この関係の終わりを考え始めるとなかなか寝付くことができなかった。

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