30. ウタラトスの行方
東の空が白み始めた頃、私は人里離れた湖のほとりに建つ古い教会にたどり着いた。ここが集合地点のはずだが見渡してみても誰もいない。休みなしの戦闘と移動で体力はひどく消耗している。それでも二人と再会したい一心で、私は教会の重たい扉をゆっくりと押し開けた。
かすかに話し声が聞こえる。建物の中は暗く、目を凝らしてやっと祭壇前に人が集まっていることに気付く。扉を閉めるとガチャンと音が鳴り、全員がこちらを向く。一番背の低い人影が真っ先に駆け寄ってきた。
「エレナちゃん!」
リディアを迎えるべく膝を曲げると、胸に突進されてその場で尻もちをつく。私の首元に顔を埋めたリディアは小さな両手で私の服を強く握っている。安堵した私もシンタマニを置いてリディアの背中を撫でた。リディアの体は暖かく、悴んだ指先に血が巡っていくのを感じる。ステファンとも、遅れて再会を喜んだ。
「良かった。二人で心配してたんだ。顔、怪我してるじゃないか」
怪我と聞いて、リディアが私の顔をまじまじと見つめる。緊張が解けると頬にヒリヒリとした痛みが出てくる。リディアの心配そうな目が何よりの薬だった。
「少し擦りむいただけ。大丈夫」
「ちょっと待ってて」
大した怪我ではないと伝えても、手拭いを握りしめたリディアはそう言って離れていってしまう。立ち上がろうとすると目眩に襲われる。ステファンは背負っていた鞄からパンや干し肉、水筒を取り出した。
「さっきヤンも合流したところだ。上手くいったって言ってたけど本当?」
「避難はそれなりに。けれど、街が燃えてた」
「そうか。それでルッツたちは?」
「途中ではぐれた。ラテノンだけじゃなく、帝国の魔法師も出てきたから」
「クラウスとカタリナ?」
「へニアが助けてくれた」
手渡された干し肉を噛みながら静かに答える。案の定、ステファンの動きが止まった。その顔には安堵と不安が入り混じっている。少しの間があって質問が続く。
「へニアが、いたの?」
「ええ」
「今どこに?」
「ピアに残った。囮になるって」
「どうしてそんなこと。あいつ、そんな奴じゃないだろ」
ステファンが小さな声で悪態をつく。どうやらまた意図を正しく汲み取れなかったらしい。さすがに同情した私はヘニアの想いを伝えることにした。
「ここにも魔法師が迫ってる。ステファンを守るためだった」
「僕を?」
「へニアはそれ以外の理由で動かない」
ようやくステファンが理解を示す。眉にしわを寄せているのは自らを過小評価しているからだろう。ただ、この期に及んで目を背けることはしない。
「元気そうだった?」
「別れる時は」
「良かった」
ステファンの表情が柔らかくなる。私が囮になった方がステファンは喜んだかもしれない。卑屈になった私はへニアに命を狙われた事実まで伝えようかと考える。しかし、戻ってくるリディアの姿が見えてこの話は終わらせた。
「これで顔拭いて」
濡れた手拭いを差し出すリディアの手は赤くなっていた。受け取った私は右手でリディアの冷たい手を握り、左手で顔を拭く。手拭いには思った以上の血が移った。
「エレナも戻ったか。流石は帝国の英雄だ」
しばらくしてヤンが話しかけてくる。ルッツらの心配をしないのかと思った矢先、教会の扉が大きく開け放たれて血だらけの男が姿を現した。赤い痰を吐いたルッツは唸り声を上げて崩れ落ちる。
「よほど神に好かれているらしい」
「また俺だけが生き延びてしまった」
血の匂いが漂ってきて、私はリディアを遠ざける。ルッツの鋭い眼光が私に向いた。
「どこにいた?」
「指示通り、正面を押さえてた」
「ふん」
ルッツはそれ以上何も言ってこない。すぐに数人がかりで治療が始まる。
「みんなよくやってくれた。おかげで戦闘が激化する前に住民を避難させることができた。その結果、奇襲は失敗に終わったようだが仕方がない。我々も多くの仲間を失った。恐らく指導部は我々を反乱分子と認識したことだろう」
「今後の計画は変わらないままということですか」
泥と血で顔を汚した一人が問いかける。肩にかけた小銃がカタカタと音を鳴らし、行く末を案じていることが分かる。ヤンは力強く頷いた。
「そうだ。これから我々はクーデターを目指す。そこでお願いだ。エレナ、これからも私たちに協力してほしい」
「クーデター?」
「指導部をすげ替える。理由は言うまでもないだろう。ヴィーラントは帝国との戦争を望んでいる。エイノットから援助を受けながら何年でも戦い、その末にアタパカの独立を勝ち取ろうとしている。だが、それが何を意味するのか簡単に分かるはずだ。多くの罪なき人々が苦しむだろう。平原でエイノットと繋がるアタカマならばいざしらず、山脈に囲まれたタラパカで戦争を優位に進めるなど不可能だ。実際、指導部はタラパカを切り捨てるつもりだと聞く」
「タラパカを、捨てる」
ステファンから声が漏れる。故郷が帝国に飲み込まれるかもしれない。そんな近い将来がステファンの心を揺さぶっていた。ヤンはそこに漬け込もうとする。
「ステファン、君はタラパカの人間だったな。こんな指導部をどう思う。かつてラインホルトは、アタカマとタラパカは同じ未来を目指す兄弟だと言った。だが、バイロイト紛争以降、矢面に立ってきたのはいつもタラパカだった。ラテノンという名もラインホルトがわずかな同志とともに立ち上がったタラパカの小さな集落の名前に由来している。今の指導部はそんなことも忘れてしまった」
「私たちは協力しない」
ステファンの優しさを悪用することは許されない。心を鬼にした私は声を張って間に割って入る。一斉に非難めいた視線に晒される。ただ、この程度で決断を覆すつもりはない。ルッツも声を荒げた。
「なぜだ!」
「私たちが必要としているのは安全。見込みのないクーデターに付き合うつもりなんてない」
「お前にも正義があるはずだ。だからその子を助けた」
「私の正義はまだ見つかってない。リディアと一緒にいるのはアントンとの約束だから」
「アントンも我々と同じ考えだ」
「アントンはリディアを巻き込むことを望まなかった」
言い合いが続き、ルッツはさらに言葉を浴びせようとしてくる。しかし、ヤンがそれを制止する。
「無理にとは言わない。私だってリディアちゃんを巻き込みたくはない」
「賢明ね」
「頼って来てくれたのに何もできず申し訳なかった。だが、気をつけてほしい。もはや今のラテノンは君たちの安全に寄与しない。近づけば戦争がより眼前に迫るだけだろう」
「だったら私だけで守る」
「確かにそれが一番安全かもしれない。そうしてくれるのなら嬉しいよ」
ヤンは最終的に引き下がっていく。これで話は丸く収まる。そう思っているとステファンが一歩前に出た。
「かわりに僕らにできること、何かありませんか?」
いつものようにステファンが不用意な一言を添える。意図を問うべく振り返ると、ステファンは複雑な表情のリディアと手を繋いでいた。リディアと目が合って文句は喉の奥に引っ込んでいく。ヤンは何かを思い出したように手を叩いた。
「そういえばエレナに確認しておきたいことが一つあった」
「なに」
「ウタラトス様の居場所が分からなくなっている。何か知らないか」
「ウタラトス?」
予想外の質問だった。ウタラトスとの逃避行はもう一年以上も前になるが、ラテノンに預けた瞬間は今でも鮮明に覚えている。なぜラテノンが居場所を把握できていないのか。私はまた面倒事を押し付けられるのではないかと身構える。
「君の仕事を疑ったのではない。あの後、指導部の方針でウタラトス様には身を隠してもらうことになった。その時は私も安心したものだ。しかし、その後、何度問い合わせてもウタラトス様に関する情報が下りてこなくなった。直近では行方不明と返答された次第だ。恐らくだが、ウタラトス様をどこかに幽閉しているのだろう」
「安全なら問題ない」
「そうはいかない」
「なぜ?」
指導部がウタラトスの動静を隠していたとしても不思議ではない。むしろヤンのようにウタラトスの居場所に興味を持つ方が問題に思えた。情報が漏れれば、帝国はまず間違いなく暗殺を企てるからだ。
「どうしても私たちの計画にウタラトス様が必要なのだ」
「よく分からない」
「ヴィーラントを退けるだけではクーデターの意味がない。新しい指導者を据える必要がある」
「まさかウタラトスを」
私は驚く。ウルサ家とハイドラ家の血を受け継ぐウタラトスはラテノンの指導者にふさわしくない。そんなことは歴史の流れを見ても明らかだ。指導部が居場所を秘匿したのも、そんな計画を察知してではないかと勘繰る。
「我々には強い力を持った指導者が必要だ。アタパカは所詮、帝国という共通の敵を前に結束しているに過ぎず、その中身は多様な人間の寄せ集めだ。民族も違えば、信仰する宗教も違う。だからこそ正しい指導が求められる」
「ウタラトスはまだ子供。それに五大家の血が流れてる」
「だからこそだ。ヴィーラントのように力で反発するだけではいずれアタパカは消滅する。我々が持つべきは政治的な力であり、その点でウタラトス様を指導者に置くことは理にかなっている」
「この土地が受け入れるとは思えない」
ステファンでさえ帝国の王家や軍を嫌うほど、アタパカにおける帝国の心象は悪い。ウタラトスの場合、皇帝と同じハイドラの血が流れていることが問題だった。コールサックの命令で家族を殺された人々がこの地には多くいる。
「私たちに残された道はこれしかない。ウタラトス様が指導者となればハイドラ家はラテノンに対する考え方を改めるだろう。ヴィルゴ家は暗殺に固執するかもしれない。しかし、こうでもして帝国との融和を進めなければアタパカに平和が訪れることはない。実現すればハーキュリー家も地域の安定に協力すると申し出てきている」
「でも」
「難しいだろう。だが、いま重要なのは戦争をいかに回避するかだ。一度火蓋が落ちればこの土地は徹底的に破壊され、ラインホルトが守ろうとしたアタパカの自主性は失われる。帝国に譲歩を求めるのなら、弱い立場の我々から先に誠意を見せるのが筋だ」
ヤンはウタラトスをラテノンの指導者に置く利点を力説する。その主張にはヤンなりの筋があるようだった。ただ、私は賛同しない。かつては帝国の魔法師としてウノカイアの命令に従い、ウタラトスの命を守ってきた。今やその立場は形骸化したも同然だが、ヤンに肩入れする理由がなかった。リディアをそんな危険に巻き込むわけにもいかない。
「これから私たちは別々の道を行く。どうかこのことを頭の片隅に入れておいてほしい。そしてもし、ウタラトスの情報を得たときは私たちに伝えてくれ。その時にまだアタパカが存在していたらの話だが」
「覚えておくだけ」
「これはアントンとの願いでもあった」
「お父さんと?」
アントンの名にリディアが反応する。やり方が汚い。そう抗議する前にヤンは大きく頷いてみせる。それ以上の悪だくみはしてこなかった。
「リディアちゃんを頼む。アントン亡き今、その意思は私が引き継ぎ、必ず目標を達成する」
ヤンは最後にそう言い残すと、私たちに背を向けて仲間を集合させた。リディアはヤンの言葉をどう受け止めただろうか。口を真一文字に結び、瞳に正義を抱く姿はアントンと似ている。話しかけられなかった私はキラキラと輝くステンドグラスを見上げて朝日が昇ったことを知った。
その後、軽い休息を取って最低限の体力回復を済ませた私は、一抹の不安を覚えつつリディアと手を繋いだ。ヤンたちが先に出発し、私たちはそれとは違う方向へと歩き始める。目指す先はない。リディアは何度も私の手を握り直していた。




