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3. ステファン・ポラック

 ラッサ村を潜伏地とし、出稼ぎ農婦として住み込み始めて数ヵ月。私とステファンの共同生活はなおも続いていた。今日の仕事は晴天に見守られながら畑の雑草を抜き取ること。単純で面倒な作業だが、ステファンからは何よりも重要だと伝えられている。私は畑全体に水やりをした後、考え事に耽りながら草むしりを始めた。

 時間が経ったことで、ステファンの人となりについてある程度理解が進んだ。最初の頃、小さな家の一室を間借りする日常は不安と隣り合わせだった。ステファンが下心で私を雇った可能性があり、襲われて負けることはないものの、そうなれば再び放浪の旅が始まってしまう。

 しかし、結論から言えばステファンはそんな人間ではなかった。こちらが黙り込んでいても話しかけてくる姿勢にはうんざりしているが、内面は人畜無害そのもの。これまで暮らしてきた王宮では誰もが邪心を隠して生きていたため、こんな人間が存在することに驚いたほどだった。無頓着で優しく、弱みと付け入る隙が多い。ステファンは私が多くの命を奪いながら逃亡している魔法師だとまだ知らない。打ち明ける日が来ないことを祈っているが、仮にそうなっても私に害を及ぼす存在にはなり得なかった。

 一方、ステファン以外に関してこの共同生活には少々の問題があった。畑一面にぎっしりと植えられたクバという野菜の周りを除草し終えると、一度腰を伸ばすために立ち上がる。魔法を使えばすぐに終わるが、ルサルカの痕跡が残ってしまうためそれはできない。額の汗を拭い、ガラス瓶に入った水を飲んで一息ついていると、麓に続く坂を一人の女性が上ってきていることに気付く。相手も私に向かって大きく手を振っている。問題の一人だった。

 「あれ、今日はヘレンだけ?」

 「ええ」

 彼女はニーナ・ビエルデといい、ラッサで村長をしているトニーの娘である。今日も来たのかと私は心の中で嫌な顔をして、手に持っていたタオルを首に巻き戻す。ニーナは緑のロングスカートの裾を気にしながら畑のあぜを歩いてくる。

 「頑張ってるね。はいこれ、うちで採れた杏子。一緒に休憩しよ」

 「仕事は?」

 「お父さんが見てこいって。だから気にしないで」

 ニーナはバスケットを抱えて畑の縁に座る。この村で私は異質な存在と見なされている。内地にルーツを持つ女性が一人で出稼ぎにやって来ただけでなく、その背景は何も分かっていない。トニーが度々会いに来ていたのはそんな私を監視するためで、最近ではその役割がニーナに移りつつあった。

 休憩したばかりだったものの、体力温存を優先してニーナの隣に座る。ここのところ同じような時間を過ごしている。ニーナの真の目的がステファンだということも分かっていた。

 「生活には慣れた?」

 「ええ」

 「もう三ヶ月だもんね。はいこれ。ナイフ持ってきたから」

 話す内容はいつもと変わらない。植物の皮でできたブレスレットが揺れるニーナの右手からナイフを受け取ると、早速杏子に切れ込みを入れる。最近差し入れを持ってくるようになったのは話題作りの一環なのだろう。そんな無理をしてまで健気に会いに来るのは、初対面の時にステファンから仲良くしてやってほしいとお願いされていたからだ。この二人を見て、好きな人間の言葉には魔法とは違う力が宿ると学んだ。

 「ヘレンってナイフの使い方上手いよね」

 「花嫁修業」

 「そ、そうなんだ。誰か披露したい人でもいるの?」

 いつもは人の顔色を窺いながら話をするニーナであるが、試しにからかってみるとたじろぎながらそんなことを聞いてくる。ニーナの目下の心配事はステファンと私の関係である。血生臭さのない平和な村で暮らしていると、同じ年頃でもこんなに考え方が違ってくるらしい。ナイフの扱いが上手いのは自分が軍人だからだ。

 「あなたはステファンが好き」

 「え!?」

 「だけど私には関係ない。心配しないで」

 「ステファンのこと、何とも思ってないの?」

 「雇用主。それだけ」

 私はそう説明して杏子を頬張る。少し酸味が強いが今はちょうどいい。ニーナは硬直したまま私の言葉を理解しようと努めている。これで執着をやめてくれれば万事解決だったが、なぜか懐疑の目を向けられた。

 「家では何して過ごしてるの?」

 「仕事」

 「それ以外の時間は?」

 「読書」

 「食事を作るのは?」

 「ステファン」

 「洗濯は?」

 「ステファン」

 「掃除は?」

 「ニーナ」

 質問が止まらなくなったニーナを一度牽制する。一体何を知りたいのか。目的のない会話は疲れるだけだった。ニーナはここまで聞いておいて止められると恥ずかしそうに俯く。私はもう一つ杏子を食べてから口を開いた。

 「ステファンのこともっと知りたい」

 「どうして!?」

 「一緒に生活してる。危ない人じゃないって確証が欲しい」

 私の言葉にニーナは不快感を示す。ニーナの扱いもステファン並に簡単である。こう言っておけば好きな人にかけられた誤解を解くために話してくれると分かっていた。

 「何が知りたいの?」

 「どうやって知り合った?」

 雰囲気を作るためにあえてニーナが関係する話題を持ち出す。目の前では風に揺れるクバの花に蝶が集まっている。ステファンも疲れるとよくクバの花を食んで蜜を吸う。そんなことを思い出していると、空を見上げたニーナが足をパタパタさせながら話し始めた。

 「もともとステファンはバイロイトに住んでたの。だけどあの紛争でお母さんが亡くなった。それでお父さんと二人でここに移り住んできた。でも、ステファンのお父さんは反体制派の活動で忙しくて、だからステファンはよく私の家に預けられてた」

 「ここに反体制派は多い?」

 「ラッサじゃそこまでだけど何人かはいるよ」

 「で、ステファンの父親は?」

 「活動中に亡くなった」

 アタパカでこんな話は珍しくないと聞く。私が王宮にいた頃から、帝国軍を最も苦しめていたのは反体制派を指導するラテノンことアタパカ解放戦線だった。主にアタパカで活動する反体制思想の武装組織という位置づけであるが、ライネの王宮で大々的にテロ事件を起こした過去もある。

 「じゃあステファンも」

 「ううん。ステファンは距離を置いてるみたい。理由は聞いてないけど、やっぱりお父さんのことがあるからじゃないかな。それどころかお父さんの死後、一時期だけ軍に行ってた」

 「軍に?」

 驚いた私は思わず聞き返す。今の私は帝国軍と明確な敵対関係にある。共同生活者がそこに関与しているとなればそれは由々しき問題だった。この首には高額な懸賞金がかけられていて、大きな街では私の特徴が記されたビラも配られている。どんなに鈍感なステファンでも、その情報を見聞きすればそれが私だと気付くだろう。

 「でも一年間だけだよ。成人まで養ってもらうためだったって言ってた。それからはずっとラッサで農業してる」

 「反体制派の人間は何も言わない?」

 「まあそれはね。あるよ。裏切り者だってね」

 当然のことだった。歴史的な背景があって帝国と対立するアタパカで帝国軍に携わった意味は大きい。それも、反体制活動中に死んだ父親を持っていながらである。ニーナの話を聞いて途端にステファンという人間が分からなくなっていく。

 「だからステファンとへニアを嫌う人は多いかな。へニアは知ってるよね」

 「ステファンのことが好きなもう一人」

 「そんな覚え方かあ。合ってるけど。へニアとは軍にいた頃に出会ったんだって。どうしてその後ラッサに移り住んできたのかは分からないけど」

 「嘘」

 私が視線を送るとニーナは困ったように笑う。話に出てきたへニアこそ私が抱える最大の問題だった。こちらもニーナ同様、ステファンへの恋心を理由に度々干渉してくる。ただ、二人には大きな違いがあり、それはへニアの目には見慣れた殺意がこもっていることだった。とにかく過激な人間で、ステファンの留守中に村から出ていくよう脅迫された回数は両手で収まりきらない。ラッサに住み着いた理由など考えるまでもなかった。

 「ヘレンこそ、そろそろ教えてくれたっていいんじゃない?」

 「ん?」

 「自分のこと。生まれ育った土地とか」

 「ステファンが帰ってきた」

 相手の過去を聞くと自分の過去にも興味を持たれてしまう。坂を歩いてくるステファンを見つけた私は逃げるように畑に戻って仕事を再開した。隠すと疑われるが、綺麗な嘘を並べられるほどアタパカについて何も知らない。無口な性格を貫いているのも情報の管理に都合が良いからだった。

 「ニーナ来てたの」

 「うん。ヘレンと杏子食べてた。ステファンのもあるよ」

 「いつもありがとう。あ、そうだ。最近山羊肉の燻製作ったんだけどお返しに持ってってよ」

 「いいの?」

 さっきより可愛らしい声を出すニーナがステファンと一緒に歩いていく。残された私は再び作業に集中することにした。あんな人間関係が羨ましいかと言われれば分からない。帝国の魔法師だった私にとって他の人間は上にのし上がるための道具でしかなかった。私の魔法に惹かれて慕ってくれる者もいたが、過去の私はそんな人たちを冷たくあしらってきた。その結果、誰にも助けを乞うことができず、一人で苦しんでいる。

 この季節になっても山脈は頂上に雪を蓄えている。ある標高を境に森が途切れていて、剥き出しの岩石が私を遠くから威圧する。そんな山の斜面を風が這うと近くの滝から水飛沫が舞い、時折、太陽の光を反射して虹を描く。こんな毎日の繰り返しでは自分が何者か分からなくなる日も近い。そう思っていると作業する手元に影が落ちた。

 「あれだけ言ってもまだ居座るんだな」

 近づいてきていることには気付いていた。顔を上げるとへニアの鋭い視線に晒される。ステファンをずっと追っていたのだろう。もはや病的と言わざるを得ないが、わざわざ干渉する理由もなくへニアに対する態度は一貫して決めていた。

 「ステファンは家にいる」

 「知ってる。邪魔がいる」

 虚ろな目でステファンの家を眺めるへニアはしばらくして再び視線を落とす。ステファンに好意がある割に、ニーナと違って服装に無頓着で今日も質素な男物を着ている。整った顔立ちをしていても評判が良くないのはステファン以外には仏頂面しか見せないからだろう。無言の時間が続いてもなかなか離れようとしない。

 「何か用?」

 「お前を観察してる。ステファンに害をもたらす匂いがする」

 またこの話である。以前は人殺しと同じ目をしていると言われたこともあった。いずれも根拠なく言っているのだろうが、出鱈目というわけでもない。これまで暴言には魔法で対処してきたため、言い返そうにも言葉が思いつかない。無視して作業を続けていたところ、ニーナが家から出てくる直前にへニアは姿を消した。

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