26. ピア
スミロの村を出て一週間後、私たちは一度も帝国軍と鉢合わせることなくピアに到着した。この街は古くからアタカマの中心地として歴史の表舞台にたびたび登場し、ヘントさえもかすんで見えるほどの大都市として発展してきた。内地に近いことでバイロイト紛争以前より帝国から強い影響を受けてきたことも関係している。帝国軍の駐屯のみならず帝国にルーツを持つ住民の入植が進み、巨万の富が先住民の自由を代償に流入した。街のどこからでも一望できる時計塔はまさにその象徴だった。
そんな雄大な街並みも外れの丘から眺めている時が最も美しい。いざ街を歩くと幻想はたちまち消え去り、ここがアタパカだということを思い知らされる。貧困はここにも深く根付いている。路上暮らしのほとんどがアタパカ人で、街の規模に応じてその数も多い。それでいて帝国軍の警らが厳しく、住民が連行される光景は日常の一部となっていた。いずれも反体制派と疑われ、収容所に送られるという話だ。
到着した日はすぐに休息し、次の日、太陽がまだ地平線に隠れている内に出発する。ピアは工業都市としての顔も持ち合わせている。早朝から金属を打つ甲高い音が響き、働く職人のためにパン屋の煙突からは大量の煙が上がっていた。
雪はほとんど積もっていない。それでも朝方の冷え込みは厳しく、目が開ききっていないリディアは私に身を寄せながら歩いていた。出発が早かったためまだ朝食を取っていない。途中で焼きたてのパンを買ってやるとようやく表情に活気が出て、私はそんなリディアの頭を撫でた。
年齢だけを考えればリディアは妹に近い。それでもピアに来る途中、ステファンは最近の私をまるで母親のようだと評した。私はそれでも良かったが、大切なことはリディア本人がどう思っているかである。リディアの柔らかい髪を触りながらそんなことを考えていると、目的地に到着する。
ひまわりは朱色のレンガ造りで、そのデザインは趣のある帝国調だった。面する通りは石畳で舗装されていて、二本の轍が薄く入っている。道幅は小さな馬車がどうにか通れるほどで、張り出した看板が余計に視界を悪くしていた。空を見上げると雲一つない青が赤とコントラストを作り出している。
私とステファンは窓越しにひまわりの中を覗く。内装はよくある宿屋と変わりない。受付には紺のロングスカートと白のブラウスを着た若い女性が立っていて、その雰囲気はどこかニーナと似ていた。
「おはようございます」
目配せで意思疎通を図り、ステファンから扉を押し開けて中に入っていく。受付は三台のソファーが置かれた待合室と隣接していて、そこには二人のアタパカ人の男が座っていた。受付の女性はステファンに笑顔を振る舞い、のちに私とリディアに気付いてわずかに眉をひそめる。ソファーに座る初老の男は白い髭を櫛で整えていて、もう一人の若い男は手元の本に視線を落としている。明らかに私たちを意識していたため、私はリディアを引き寄せた。
「ひまわりはここですか」
「はい。お泊りですか?」
「いえ、少し尋ねたいことがあって」
ステファンが受付に話しかけると、初老の男が小さく指を動かす。それが合図だったのか、若い男は本を閉じるなり廊下の奥に消えた。
「単刀直入に聞きます。僕たちはラテノンと関わる人を探してここに来ました。ここで反体制派を集めているというのは本当ですか」
「あの、何のことでしょう?」
ステファンによる直球の質問に受付の女性は首を傾げる。何かを誤魔化された。私の目はすぐに気付いたが、この街では当然の対応だった。
「ヤン・ラトケと会わせてください。ヘントでアントン・マルティンに起こった出来事を伝えたいんです」
ステファンの交渉に小細工は一切ない。その方が思いもよらぬ反応を引き出せることもあるが、今回は受付の女性に苦々しく笑われるだけだった。あくまでもしらを切り通すつもりらしい。
「お帰りください。そんな言いがかりをつけられても困ります」
「え、あれ」
不快感を示されたステファンが頬を掻く。一方、この宿がラテノンに関与していることを確信した私は、今になってスミロを信頼した。その時、ソファーに座る初老の男と目が合う。
「ステファン、後ろ」
「後ろ?」
「この老人が何か知ってるみたい」
「老人とはいささか失礼じゃないかね」
「さっさと教えた方が身のためよ。私に隠し事は通じない」
「そうだろう。魔法師は読心に長けているという」
「ええ」
会話を続けながら私の手はシンタマニに向かう。ただ触れる直前、リディアに手首を握られてしまった。私の交渉はこちらが格上だと相手に理解させることから始まる。その性質上どうしても摩擦を生じるものだが、リディアはその緊張感を怖がっていた。
「リディアちゃん。ドンおじさんのこと覚えてないかい?昔、君が一人で歩けるようになった頃、お屋敷で会ったことがあるんだけど」
突然、初老の男がリディアに話しかける。敵意があったわけではないが、リディアはその視線から逃げるように私の背中に隠れた。私が威圧すると手を差し出される。
「ドン・ウィーナーだ。エレナだね。噂はかねがね」
「馴れ合いはいらない」
「そちらの彼は?」
「ステファン・ポラックです。ラッサ村で農夫をしていました。今は二人と旅をしています」
「そうか。君たちのことは聞いていた。帝国軍に潜入している仲間がすばしっこく逃げていると言っていたよ。ここに来るかもしれないとは思っていたが、まさかリディアちゃんを連れてくるとは。アントンに何があった。ヘントでは随分と緊張が高まっていると聞いている」
ドンは私たちの逃避行を把握していたが、アントンについては何も知らないらしい。回答を求められた私は先に確認する。
「さっき出ていった男は?歓迎の準備をしているのなら構わないけど」
「さすがの嗅覚をしている」
「リディアに凄惨な光景を見せたくないだけよ」
「エレナ・ヘイカーとアントンの娘が来たことを伝えに向かった。後のことはヤンが決める」
少なくともドンは好意的に接しようとしている。受付の女性が温かい手拭きを持ってきて、私たちはソファーに座るよう提案される。少し考えた後、リディアをドンから最も離れた場所に座らせた。
「信じていいのか分からないわね」
「仕方ないだろう。君はハイドラ家の魔法師。長年、敵同士だったのだ。随分と多くの仲間が君の前で斃れていった。だが、ウタラトス様の命を救ったことで評価は変わりつつある。だからアントンもリディアを君に任せてここに寄越したのだろう」
「ここに来たのはアントンの差し金ではありません。アントンは亡くなりました。ヘントの屋敷に帝国軍が急襲してきて」
「まさか」
ステファンの説明を受けて、声を張ったドンが俯くリディアを注視する。真偽を問いただしたかったのだろうが、傷を抉らせまいと私はその間に体を割り込ませた。
「取次ぎ役が戻ってきた」
先ほど席を立った男が現れる。耳打ちで何かを伝えられたドンは膝に手を当てて立ち上がった。
「こちらへ。ヤンのもとへ案内しよう」
「待て」
「何だ」
「外に構えてる奴らが誰か説明しろ。私が気付かないとでも思った?」
少し前から表に不審な人影が目立つようになっていた。身軽な格好をしている者は魔法師の可能性がある。
「心配ない。ただの護衛だ。ヤンはラテノンでも指導部に近い。ピアで活動するには細心の注意を払わなければならないのだ」
「エレナ、今は信じよう。もうここまで来てしまったんだ」
ステファンに宥められて仕方なく肩から力を抜く。ただ、仲間の安全に責任を負っている私は気楽に構えられなかった。ラテノンはかつての敵で、ドンが言った通り因縁がある。ウタラトスの件は融和に働いたかもしれない。しかし、協力が約束されたわけではない。赤の大広間の敵討ちだといつ背中から斬りかかられてもおかしくなかった。




