2. ラッサ村
雪山の春は遅れてやってくる。故郷が初夏の日差しを浴びているであろう頃になって、ラッサ村の人々は本格的な農期を前に慌ただしくしていた。役場もその例外ではない。臨時で設けられた一室では出稼ぎに来た男たちが採用の時を今か今かと待っている。そんな集団の隅で、私は窓から差し込む柔らかい日の光を堪能していた。
農業は力仕事なため、屈強な男から声が掛かっていく。当然、私の名前が呼ばれることはなく、注がれる視線も物珍しさによるところが大きい。窓口で手続きをする時も厄介扱いされた。一番の理由は人種が違っていることだろう。何にしても、今日中に居場所を見つけられなければこの村も諦めるしかない。
窓口を眺めていると、少し離れた場所から私を噂する声が聞こえてくる。どうやら未成年ではないかと疑われているようだった。私は面倒事を避けるべく髪で顔を隠す。不審者だと軍に通報されてはかなわない。会話をしても私の話術では疑いを晴らせないと分かっていた。
それに、私の胃袋は昨日の朝から空の状態が続いている。この体になってから何度も空腹による気絶を経験していて、無駄な会話に割く余力など残っていなかった。まさに呪いと言って差し支えない。そのおかげで頭を働かせるためにも多くの体力が必要だと学んだ。
最後の男が連れていかれたのは部屋が赤く染まった夕方のことだった。私以外の全員が採用されたわけではなく、諦めて部屋を出ていった者も多い。行く当てのない私は最後まで居座り続ける。窓口の男は困った顔を隠そうとしない。声を掛けてこないのは私が何度も会話を拒絶したからだ。低い空に一番星が見えた頃、男は受付終了の立て札を机に置いた。
「カール!待ってくれ」
そんな時、一人の男が叫びながら部屋に飛び込んでくる。息を整えつつ部屋を見回した後、汗を拭いながらカールと呼ばれた窓口の男に近づいた。
「もう終わった?」
「ステファン、遅かったじゃないか。格好からしてまた山に入ってたな?」
「まあね」
「最後の一人は少し前にマットの爺さんが連れてったよ」
「そっか」
ステファンは机に手をついて肩を大きく上下させる。この男は厚底の靴を履いていて、ところどころ穴のあいた藪避けの腰布を身に纏っている。そういえば表彰を受けにライネを訪れていた軍の山岳部隊もこんな格好をしていた。決して大柄な男ではないが、その体つきは農夫に相応しい。自分より若干年上に見え、まだ見習いなのかもしれなかった。
「で、あの子は?」
「朝からずっとそこに座ってる。一応出稼ぎの応募者だよ。書類は作ったけど声を掛けても全然返事をしてくれない。訳ありじゃないかって噂になってた」
私が記入した応募書類がステファンに手渡される。ステファンは銀髪で顔を隠す私を一瞥してから目を通し始めた。
「読み書きはできるみたい。それも綺麗な字で」
「雇っていいんだぞ。時間だからとあんな子を追い出すのは気が引ける」
カールはそんなことを言いながらも閉店業務を続ける。半ば強引に厄介事を押し付けられたステファンは私を訝しげに観察する。正しい反応ではあるが、仕事を貰えなければ再び過酷な放浪生活に身を投じなければならない。媚びる意味も込めて顔を上げると、ステファンはギョッとした顔で一歩退いた。
「内地の人か。それにまだ未成年なんじゃないか?」
「年は21だそうだ。名前はえっと」
「ヘレンだろう。ヘレン・シュミットさん?」
名前を呼ばれて小さく頷く。本名を使えないためこんな偽名を名乗っているが慣れそうにない。外見から推測できる年齢は偽っても意味がないと正直に書いたが、どうやらここでは幼く見えるらしかった。
ステファンは再び手元の書類に視線を落として思案する。他にいないのかと聞かないあたり、私に気を遣っているのだろう。
「どうして出稼ぎに?それも女性一人でこんな辺境の村に」
「働きたい」
「へえ、君ちゃんと喋れたのか」
私の声を聞いてカールが驚く。ほんの一瞬目が合ったステファンの眉にはしわが寄っていた。太陽はとっくに山の影に隠れてしまった。気温がどんどん下がっていて私は震えを抑えられなくなる。
「出身はエムデンってあるけど本当?」
私は頷く。ステファンが嘘に気付く可能性は十分ある。その時の対処方法はすでに決めてあった。
「ここを選んだのはどうして?出稼ぎを集めてる村は他にもたくさんある。それこそ、君の故郷に近いところにだって」
「街に近いと差別がある。ここまで来ればないと思ったけど」
私は用意していた言い訳を伝える。実際にそう思っているわけではない。アタパカの奥に行くほど帝国に対する感情が悪化することは分かっていた。だからこそ潜伏に適していると考えたわけだが、今はそれと矛盾した無理な言い分で押し通そうとする。顔を見合わせたステファンとカールはお互いに肩をすくめた。
「それはきっとラッサでも変わらない。帝国への憎悪は君が思っている以上に根深いものだから」
「そう」
「それでもここで働きたいと思う?」
「え?」
客観的に見てもこの交渉は絶望的だった。しかし、ステファンが思いのほか私を好意的に捉えていると分かって驚く。ステファンも何か事情を隠しているのか。そう思って目を合わせると小さな違和を感じる。ただ、選択の余地はなかった。
「お願いします」
私は足を正して頭を下げる。屈辱的な行為だからとこれまで嫌がってきたが今はそんなことどうでもいい。ステファンは分かったと呟いて、書類の最後の行に署名をする。カールは目を丸くして驚いていた。
「いいのか?素性の知れない奴だぞ?」
「働いてくれれば誰でもいい。夜逃げは怖いけど」
「女だ」
「僕の農場はそんなに大きくない。どうにかなるよ」
ステファンは呑気に笑っている。少なくとも私が同じ立場なら、こんな不躾な人間を雇いはしないだろう。夜逃げで済めばいいが、全てを奪われた挙句、殺される可能性もあるのだ。ステファンは明らかに私に同情していた。優しさを取り柄とする弱い人間の典型だった。
とはいえ、私にとっては好都合である。頭の中では早速、弱りきった女を演じることでどれほどの待遇を引き出せるか皮算用が始まる。
手続きを終えると、ステファンから一緒に来るように指示される。荷物は街で盗んだリュック一つで、それを肩に背負った私はフラフラとあとを追いかけた。
「僕の家はここから少し遠くて、山道を登った先なんだ。歩いて一時間くらいかな」
ステファンは軽快な足取りで歩き始める。私は思わずため息をついてしまった。出会って間もない男に弱みを知られたくはないが、歩調を合わせられずにステファンと距離が開く。
「疲れてる?エムデンから来たのなら無理もないか。荷物貸して」
ステファンはそう言うなり私の荷物をひょいと取る。中には適当な魔法師から奪ったシンタマニと軍の装備が入っていて、見られると口封じの必要が出てくる。ただ、ステファンの興味が鞄の中に向くことはなかった。
「良い村だろう?畑に緑が広がるともっと綺麗になっていくんだ」
「そう」
「僕の家の周りも絶景なんだ。だけど、着いた頃には真っ暗だろうから紹介は明日にするよ」
間を持たせるためか、他愛のない話が持ち掛けられる。私が無言を貫いているとステファンは意思疎通を諦めた。
ラッサには帝国の影はおろかラテノンの影響さえ感じられない。人々は長閑な村で争いとは無縁の生活を送っていた。潜伏に適しているどうかはこれから数日をかけて判断する。次の目標を決められるのはその後だった。
「ここが我が家だ。ようこそヘレンさん」
家に着いた頃には薄暮も終わり、頭上には満点の星空が広がっていた。役場からは遠くに見えていた山脈が今では迫力のある黒い物体となって目の前に迫っている。水音が聞こえるのはどこかに滝があるからだろう。
新しい土地では真っ先に周囲の安全確認を行わなければならない。それが魔法師の鉄則であったが、今にも倒れそうだった私はステファンに言われるがまま家に入る。そして数ヵ月振りの休息に歓喜した。