18. アントン・マルティン
「ここだ」
案内されたのは廊下の突き当りにある部屋だった。ここがアントンの書斎らしく、古めかしい鍵が差し込まれると建付けの悪い扉が軋みながら開く。そんな時、小さい人影が廊下の奥からやってきた。
「お父さん。どうしたの」
「リディア。お母さんと部屋にいなさいと言っただろう」
「でもお母さん、出て行っちゃったから」
「こんにちは。びっくりさせてごめんね」
ステファンが膝に手をついてリディアと目の高さを合わせる。幼さの残る話し方をするリディアはステファンの顔をまじまじと見つめた後、アントンの陰に隠れた。
「お父さんのお友達?」
「そうだ。今から大切な話がある。だから部屋に戻ってなさい」
アントンが言い聞かせると、大きく頷いたリディアはスカートの裾を絨毯に擦らせながら廊下を戻っていく。見届けるアントンに自然と笑みが零れた。
「娘のリディアだ。もう12になるというのに幼さが抜けなくてね。同世代の友達を作れなかったせいかもしれない」
「笑ってる余裕なんてあるの。ここには軍が迫ってる」
「分かっている。もしもの時は妻に託して逃がすことになるだろう。妻のクラウディアはヴィルゴ家出身なんだ」
部屋に入ると深緑色のソファーに案内される。壁にはアタカマの古い地図や大昔の剣、絵画が飾られていて、ステファンはそれらを興味深そうに眺める。はじめはお互いの自己紹介もかねて雑談から始まった。私はその間も敵の襲来を警戒し続ける。しかし、女中がお茶を運んできた以外に動きはなかった。
「本題に入ろう。君たちがここに来た理由を教えてほしい」
「ラテノンとの取次ぎを求めて。軍に追われてる」
「そういった人はたくさんいる。帝国に命を狙われたからといって全てを助けることはできない」
「私にはウタラトス様を守る義務がある」
「彼は?」
「私の仲間。命の恩人」
アントンは髭を触って、視線を私とステファンに行き来させる。貴族と呼ばれる階級と接したことのないステファンはしきりに拳を握り直して落ち着かない様子だった。
「ウタラトス様のことは聞いている。ウルサ家として感謝している」
「それがウノカイアの命令だったとしても?」
「当然だ。ハルコス様が命を賭して守った。私たちはその意思を引き継がねばならない」
アントンがウルサ家直系の人間でないことは名前から分かる。また、ライネから遠く離れた土地に住んでいることがクラウディアとの結婚と関係していることも間違いない。それでも悲劇の死を遂げたハルコスに想いを寄せているのは、ウルサ家として団結する意識が強いからだろう。ラテノンとの仲介役を務めているのも、それが理由かもしれなかった。
「エレナ、ラテノンと合流して何を望む」
「ステファンの安全とウタラトスの護衛。それだけ」
「アタパカの自由と平和を守るために手を貸すつもりはないか」
「ない」
「しかし、それがラテノンの使命だ」
アントンはカップを手に取って茶を飲み、溜息をつく。これは私の返事に対してではない。窓の外ではいつの間にか雪が降り始めていた。
「ラテノンは近々、帝国に戦争を仕掛けるつもりだ」
「それはヘントで、ということですか?」
「いいや、アタパカ全域でだ。帝国支配から脱することを目的に大きな変化を引き起こそうとしている」
「バイロイト紛争のようなことが起きると」
「違う。戦争だ。上層部は帝国との激しい衝突を望んでいる」
その言葉にステファンは息を飲む。私はバイロイト紛争がどれだけ凄惨だったのかよく知らない。帝国の歴史では結果のみが重視され、死んだ人間の数など気にも留められないからだ。しかし、ステファンは実際にそれを経験している。
「指導者ヴィーラントに軍部のネルンスト。彼らにはアタパカの現状がまるで分かっていない」
「クラムシーでは悲惨な光景が広がっていました」
「クラムシーだけではない。多くの街で帝国軍との衝突が激しさを増している。ラテノンがそう仕組んでいるんだ。そして死んでいくのは罪のない人々ばかり」
「私たちにそんなこと聞かせてどういうつもり?」
「知っていてほしかった。取り次ぎは約束しよう。だが、エレナが期待しているラテノンは正気を失いつつある」
アントンの言葉は私には響かない。アタパカがどうなろうと関係ないばかりか、自分のあずかり知らない場所で命を落とす人間に心を寄せることも難しい。しかし、ステファンは終始深刻そうにしている。
「アタパカの苦しみは取り除かれなければいけない。だが、それが戦争という形であっていいはずがないんだ」
「はい。争いは起こさない方がいいです」
綺麗事を並べるアントンにステファンは取り込まれつつある。ならばどんな対案があるというのか。武力ほど単純な解決方法はない。まずはそのことを問いただす必要がある。
そう思って私がソファーで前傾姿勢になった時だった。突然部屋の扉が開け放たれ、リディアが転びそうになりながら飛び込んでくる。アントンに構ってもらいに来たのかと思ったが様子が変だった。
「お父さん!大変!」
「リディア、仕事中は駄目だと言っただろう」
「お母さんが変な人たくさん連れてきた!」
「なに?」
アントンの足に抱きついたリディアは廊下から遠ざかろうとする。その直後、開け放たれていた扉から銃口が顔を覗かせた。甲高い発砲音と同時にアントンがその場に崩れ、リディアが巻き込まれる。私は咄嗟に魔法で防壁を作る。立てこもりを図って扉を閉じようとしたが、私ではない誰かがルサルカの揺らした。
「魔法師がいる」
言ったそばから魔法による攻撃が始まり、私一人では支えきれなくなる。それにもかかわらず、ステファンは無謀にも防壁の外に飛び出し、アントンを助けに向かった。ステファンの勝手に苛立ちが湧き上がるが、無防備な三人を守るために廊下の敵と向かい合う。
「隣の部屋へ」
アントンが一つの扉を指差す。頷いたステファンは右腕でリディアを抱え、左手でアントンを引きずって移動する。生々しい血の跡が絨毯の模様を塗り替えていく。
「エレナ!」
名前を呼ばれて私も後退する。部屋に入ると扉を閉めて本棚で押さえた。
「お父さん!お父さん!」
「弾は貫通してます。止血しましょう」
アントンの服を脱がせると腹部に二つの銃創が現れる。耐えず血を吹き出していて、ステファンが布で強く押さえても血の海が広がるだけだった。魔法で傷口を塞ぐことはできる。しかし、私が防御をやめればたちどころに全員殺されてしまう。
「構うな。リディアと逃げろ」
「嫌だ!お父さん!」
扉の奥から再び銃撃が始まる。木製の扉に穴が空いて銃口がこちらを向く。その兵士を殺してアントンに迫った。
「どうやって逃げる!」
「暖炉の横に、隠し扉がある。降りれば、庭に」
「ステファン!行って!」
「お父さん!」
ステファンは唇を噛みしめながらアントンにしがみつくリディアを引きはがし、本棚の形をした扉を引いてその先の暗闇に吸い込まれていく。敵を食い止めていた扉が蹴破られると魔法師から突入してきた。数人を殺した程度では勢いは止まらない。中には知った顔もあり、グスタフの右腕として名を馳せていたリビオもその内の一人だった。私は横たわるアントンを跨いで後ずさる。
「流石の強さだ」
「あなたは連れていけない」
「あの子を頼む。こんな世界から、遠ざけてくれ」
その言葉を最後にアントンから力が抜ける。一人になった私にリビオは叫んだ。
「とうとう見つけたぞ!」
「年寄りの方か。クラウスじゃなくて良かった」
「生意気は変わってないな。そんな年寄りの手で殺してやる」
挑発されたリビオが眉間にしわを寄せる。その後方では多くの魔法師が構えていた。経験の浅い魔法師ばかりのようで、私との間合いを見極めるリビオの背後から乱雑な魔法を放ってくる。
ルサルカは普通の魔法師の目には映らないものの、身近な物質と同様に質量を持ち、力の干渉を受ける。また、魔法言語によって形作られた場合にのみ魔法として機能するが、その拘束が解かれると再びルサルカの塊に戻る性質がある。この性質を利用して敵のルサルカを乗っ取ることは私の十八番だった。
飛来する全ての魔法を見切った私は対抗魔法を繰り出し、一瞬のうちに魔法言語を書き換えてしまう。雪山でのお返しも兼ねて爆発を食らわせることにした。
リビオはそれに合わせて反撃してくる。対処の簡単な魔法ではあったが、あの日の失敗が脳裏をよぎって回避を選ぶ。爆発は後方の魔法師を焼き払い、咄嗟に防壁を形成したリビオの右腕も吹き飛ばす。場を支配していたのは私だったが、止めを差す前に体力が限界を迎えた。
混乱に乗じて隠し扉からダクトを通じて脱出すると、前方にリディアを抱えて走るステファンがいた。門から逃げようとしていたが、待ち伏せる魔法師の気配を感じた私はステファンに追いついて裏庭へ誘導する。すると、その先にシンタマニを握ったへニアが現れた。
「あなたの仕業?」
「殺されたいか。急に湧いてきたんだ。誰だその子供?」
「お前たちのせいだ!お前たちのせいでお父さんが!」
「暴れないで」
ステファンの腕の中では泣き叫ぶリディアが手足を暴れさせている。へニアは躊躇なく魔法で気絶させた。
「また来た。あいつらだ」
振り返ると数人の魔法師の姿があった。舌打ちをする私の横で、へニアはなぜか嬉しそうな表情を浮かべている。へニアにつられてステファンまで足を止めてしまったため、私はシンタマニを握り直した。
「エレナ、こんなところで何してる」
「クラウス」
「また会えたな。お前の相手は私だ」
私を凝視するクラウスは憎たらしい笑みを浮かべている。しかし、へニアが一歩前に出るとため息をついた。
「またお前か。カタリナ、相手しろ」
「はい」
「まとめてかかって来い。殺してやる」
「黙れ。この野良魔法師風情が」
暴言を吐くクラウスだが仕掛けてはこない。私の前で無茶をすれば死が待っていると理解しているだけでなく、へニアの実力を認めているようだった。
「お前、戦えるか」
「こんな時に人の心配?敵は王家魔法師二人と雑魚がたくさん」
「お前の体のことは知ってる。呪いだ」
へニアが一度こちらを見る。その目は据わっていて、まさに覚悟が決まった人間の顔だった。全ては隣に立つステファンのためである。
「ステファンと行け」
「何言ってるの。へニアも一緒に」
「嬉しいよ。だけど戦えない人間は邪魔なんだ。ステファンもお前も」
「やるのか!大人しく殺されるのか!どっちだ!」
叫ぶクラウスがにじり寄ってくる。怒鳴られながらへニアに借りを作るなど気分が良くない。そう思った私はシンタマニを振り上げた。この魔法は私が英雄になるきっかけとなったもの。へニアへのささやかな餞別だった。
ルサルカが空気に干渉した瞬間、突風が吹く。クラウスとカタリナは防壁を張って踏ん張ったが、それでも全身に傷を受けて血を流す。その後方ではより凄惨な光景が広がった。私は急激な体力の消耗に膝をつく。
「後は任せる」
「へニア!」
「必ず会いに行く。それまで絶対死なないで」
今回ばかりはへニアの宣言を軽視できない。私は立ちすくむステファンを引っ張って逃げることを優先した。
「また逃げるのか!」
「今日こそ殺してやる」
「なんなんだお前!付きまといやがって鬱陶しい」
「お前らは私の逆鱗に触れたんだよ」
クラウスとカタリナの実力は王家直属魔法師として十分である。だからこそ、へニアという人間の異常さが顕著に目立つ。へニアの魔法は稚拙ながら強力で、私たちが屋敷を脱出するまでにクラウスが再び姿を現すことはなかった。
「へニアは」
「今は逃げるの。あいつの覚悟が無駄になる」
「でも」
「その子を巻き込みたい?」
私たちは複雑に入り組んだ路地裏に逃げ込む。ステファンは涙の跡をつけて眠るリディアを見つめ、小さく悪態をついた。アントンの死によってラテノンとの合流は頓挫した。今は行く当てもなくただ逃げるしかなかった。