17. ヘント
へニアの情報は正しく、半日ほどかけて進んだ森の奥では大量の貨物が馬車でピストン輸送されていた。私たちは穀物で満杯の荷車に忍び込み、二日間の辛抱の末にヘントに辿り着いた。
ヘントはかつて帝国とエイノットに交易があった時代に中継地として栄えた街で、その異国情緒溢れる街並みに私の目は奪われた。ほとんどがコンクリート造りのライネとは趣が大きく異なり、背の低いレンガと土壁の建物群からは古い歴史が感じられる。無秩序に立ち並ぶ家々も紛争の度に破壊されているライネでは見られない光景だった。ところどころに建っている大聖堂は人々と結びついた宗教の存在を示している。まだ取り壊されていないことから、帝国の影響力が限定的だということが分かった。
人々の生活にも興味が湧く。大通りを露店が埋め尽くす風景はどこにでもあるが、売られている食べ物や衣料品はどれも馴染みがない。回転する大きな肉の塊を火にかけているのは黒を基調としたドレスを身に纏った女性で、注文が入るとナイフで肉をそぎ落として大きな葉に包む。見たところ男性は少ない。露店の数に対して歩いている人の数も釣り合っていないように見えた。
「アントン・マルティンの屋敷は内地の人間が多く住む貴族の区画にある。ここから歩いて一時間くらい」
へニアはステファンだけに話しかける。ここでもフードを被って顔を隠さなければならない私はそんな二人の影を歩いた。ラテノンや反体制派の姿はないが、帝国軍の増援を前に街の空気は張り詰めている。追い出された帝国軍はトネル砂漠に構えているという。私のような内地の人間も追放の対象かもしれなかった。
「協力してもらえるかな」
「それはこの女の仕事」
ステファンが今後を心配すると、へニアが忌々しそうに私を意識する。都合の良い時だけ利用されている。そんなことを癪に感じるも、三人の顔ぶれを考えれば当然だった。アタパカの片田舎に住んでいた男女がウルサ家の貴族と対等な話し合いなどできるはずがない。王家直属魔法師であり、ウタラトスをラテノンに引き渡した私ならば交渉を有利に進められる自信があった。
「今更あなたの邪魔はしない。私が交渉する」
「それはどうも。だけどそれ以前に問題がいくつかあるんだ」
「問題?」
「アントンの屋敷は軍に監視されてる。手配犯がのこのこ出ていけば魔法師を引き寄せてしまう」
「じゃあ先にそいつらを殺せばいい」
「これだから乱暴な女は。騒ぎを起こせば協力を引き出せないだろ」
「だったら策を教えて。考えなしにステファンをここに連れてはこないはず」
ヘニアのほくそ笑む顔は見ていられない。わざわざ私に突っかかったのも自分に役割があることを示すためだった。
「アントンにはリディアという一人娘がいる。ほとんど屋敷に引きこもってて、二人のガヴァネスが毎日指導してる」
「ガヴァネス?」
「家庭教師のこと」
私が教えてあげるとステファンは二度頷いてから首を傾げる。へニアは私を指差した。
「こいつがその一人に成りすまして屋敷に入る。それで交渉してこい」
「エレナさん一人で?」
「当たり前だろ?交渉できるのはこいつだけなんだ」
「僕も行くよ」
「馬鹿だな。ガヴァネスは女。ステファンじゃ代わりはできない。私はステファンと一緒に居ないといけないし」
へニアが勝手に話を進め、止められなかったステファンは心配そうに私を見つめる。この浅はかな考えの目的はある程度理解できる。問題はへニアにどれだけ正気が残っているかだった。
「やっぱり駄目だよ。エレナさんだけに負担させるなんて」
「私は構わない。裏切らないと約束するなら」
「裏切り?何のことだ」
「へニア、エレナさんと協力する気はないの」
「ない」
「なら僕も行く。ちょっとの間、女装すればいいだけだ」
私は一人でも行くつもりだった。二人のどちらかを連れていったところで、所詮それは裏切りの予防にしかならず、交渉に何ら影響を与えない。それでもステファンの言葉は嬉しかった。仲間という感覚は合理性を損なわせる。それを肌で感じることができたからだ。
「じゃあお願い」
「待て。ライネの魔法師は賢いんだろ。よく考えろ」
ステファンに言うことを聞かせられなかったへニアは少し慌てる。ステファンはへニアを宥めて理解を求めている。私はここぞとばかりに言い返した。
「ガヴァネスが複数いる場合、大抵は一緒に出勤する。子供の都合で習い事の順番が決まるから。そうでしょ?」
「脅迫すれば片方は黙ってるはず」
「乱暴な女ね。あなたは安全なところで待っていればいい。行けない理由があるみたいだし」
「行けない理由?」
私が挑発するとヘニアの顔が想い人の前とは思えないほど歪む。ただ、これ以上反発してくることはなく、唸り声の末に渋々引き下がった。
「頭の硬いお前だけだと心配だからな。それに誰かが外で見張ってないといけない」
「よろしく」
話を強引に纏めた私は再び景色に興味を移す。戦禍が迫っていても時間の流れ方は等しい。残る問題は衝突の前に交渉をまとめられるかだった。
ガヴァネスは既にへニアによって特定済みであり、出勤中の二人を攫うことは簡単だった。ガヴァネスから服を剥ぎ取り、背の高い方の服をステファンに着せる。ここらの女性は髪を纏めて帽子にしまうことが多いため、そこから男女の区別はつかない。顔は帽子のつばで隠す。ただ、ステファンの歩き方には品格の欠片もなく、私がかつて王宮で学んだ作法を付け焼き刃で叩き込んだ。
「ステファンこっち見て。凄く可愛い」
「うるさい」
先程まで頭に血を上らせていたへニアが頬を赤らめてステファンの格好を目に焼き付ける。私がコルセットを締め付けて調整すると、ステファンから汚い声が漏れた。
「時間がない。行くよ」
「この靴、痛すぎる」
「早く」
私が見本となって前を歩く。気品のある靴に歩きやすさは重視されない。へニアは二人を見送った後、屋敷を一望できる場所へ移動した。
アントンの屋敷はレンガの塀に囲まれていて、他とは少し雰囲気が違っていた。庭園が備わっており、その奥に鎮座する邸宅はライネでは小さい部類に入るがここでは大きい。閉じられた門の隣には守衛小屋があり、女性の門番が座っていた。私たちが歩いていくと女性は通用門を開けてくれる。不審者だと気付いたのはその後だった。
「叫ぶな。一緒に来て」
私がシンタマニで脅迫すると、門番は怯えた声を漏らして何度も頷く。その後はシンタマニを背中に押し当てながら屋敷に案内させた。
春になると色とりどりの花が咲き乱れているであろう庭園にはうっすらと雪が積もっている。寂れた雰囲気に行く末を重ねていると、日差しが雲で遮られて辺りは暗くなった。
「開けろ」
玄関を開けさせると、白と黒の給仕服を来た女中が迎えてくれる。ただ、すぐ異変に気付いて体をのけ反らせた。玄関を閉めた後、狼狽える女中にシンタマニを向ける。
「動くな。アントン・マルティンはどこだ」
「帝国軍よ!」
指示に従わず叫び声を上げた女中が廊下の奥に逃げようとする。私はその腕を掴んで引きずり戻し、二人の人質を取った上でもう一度声を張った。
「アントン・マルティン」
声量を上げると広い空間で反響する。ステファンはその間に靴を履き替え、乱雑にコルセットのひもを緩めていく。相当苦しかったようで、脱皮するように服を脱ぎ捨てると大きく深呼吸していた。
「何事だ」
男の声が返ってきたのはしばらくしてからだった。見上げると三階まで繋がる吹き抜けの一番先で誰かがこちらを覗き込んでいる。外見から内地の人間だとすぐに分かり、これがアントンだろうと推測した。
「降りてこい」
「乱暴はよせ」
「早くしろ」
「エレナ」
口調を強めるとステファンに耳元で囁かれる。心配されずとも人質に危害を加えるつもりはない。とはいえ、アントンの協力を悠長に待つわけにもいかなかった。
「誰だ。名を名乗りなさい」
男は手すりを掴みながらゆっくりと階段を下りてくる。ヘントのような辺境に住んでいるためか、身なりは知っている貴族と比べて質素だった。屋敷の装飾もそこまで派手ではない。しかし、こんな状況でも威厳は保ち続けている。
「私がアントンだ。君は?」
「ハイドラ家直属魔法師、エレナ・ヘイカー」
「エレナ?」
私はシンタマニを腰に戻し、人質を解放する。後はアントンとの交渉に専念するだけである。先程まで蔑むような目をしていたアントンの態度が変わる。
「どう証明する?バッジはどこだ」
「今は持ってない」
「赤の大広間のエレナか」
「そうよ」
「どこでウタラトス様を預けた?」
「タラパカのエムデン」
淡々と答える私を前にアントンは難しい顔で考え込む。沈黙が数秒続いた後、私たちは手招きされた。
「来なさい。リリ、騒ぎはなかったと連絡するんだ。それとお茶を用意してくれ」
指示を出したアントンは階段を上り始める。ステファンが人質にした二人に謝罪した後、私たちもそれについていく。
「ガヴァネスはどこに」
「無事よ」
「そうか。あまり無茶なことはしてくれるな。それで、そちらの君は誰だい。魔法師じゃないだろう」
「ステファン・ポラックといいます。かつてはラッサの農夫でしたが、今はエレナと旅をしてます」
「ラテノンの人間でさえなかったのか」
「はい。でも、まさにその話をするために来たんです」
三階まで上る間に私も動きにくい服を脱ぎ捨てていく。中に着ていた服はコルセットのせいでしわくちゃになっていた。