14. エレナの怒り
陽の光を感じて目を覚ますと、ステファンの腕が腰に巻きついていた。頭だけを持ち上げて外を見てみると、作業着姿のマティアスがアハトを従えて羊に餌をやっている。大きくあくびをして、いつものようにステファンの腕を解いていく。すると擦れた声が響いた。
「何してんだ」
「こっちのセリフ。暑苦しい」
起きてしまったので乱暴に腕を放り投げる。起床後はルサルカの揺れを探すことを習慣としている。幸い、不審な魔法の痕跡はなかった。
「調子はどうだ」
「痣が痛いだけ。歩ける」
「じゃあできるだけ早くここを出発しよう。山から見ていた時、ここから西に小さな街があった。歩いて数時間ってところ。まずはそこを目指す」
「分かった」
疲労は完全に回復していないが、長居するとマティアスに迷惑がかかってしまう。荷造りをしているとマティアスが部屋に顔を出した。
「もう発たれるのですか」
「はい。お世話になりました」
「もし良ければ食事を取ってからにされませんか。丁度作ろうと思っていたところです」
マティアスにそんな提案をされて私とステファンは顔を見合わせる。断れるはずがなかった。
「ではお言葉に甘えて」
「用意ができましたら声をかけます。それまで部屋で待っていてください」
にっこりと笑ったマティアスは下がっていく。代わりにアハトが部屋に入ってきて私に飛びついた。雪の上を走っていたからか足が冷たい。私は両手で温めてやる。
アハトと戯れている間、ステファンはシンタマニを見てくれた。直せないと言っていた割に回らなくなった理由をすぐに明らかにしてくれる。
「軸が曲がってたんじゃなくて小石が詰まってただけだった。ほらもう回る」
ステファンが少し自慢げにシンタマニを回す。安物にもかかわらずその回転は以前に比べて滑らかになっているような気がした。シンタマニの回転と魔法の威力には何ら関係性はない。しかし、瞬時に魔法を繰り出す際には重要となる。
「ありがとう」
「やっぱり魔法師にとって大事な物なんだね」
「別になくたって魔法は使える。それに、これは適当な魔法師から盗んだもので私のじゃない。使いにくくて触り心地も悪い」
「エレナさんのは?」
「壊れた。グスタフから逃げる時に」
最近は夢に見なくなったあの日のことを思い出す。私のシンタマニは祖母から受け継いだ大切な物だった。そこに込められていたルサルカを爆発させたことで命からがら逃げられたわけだが、その代わりに私は繋がりを失ってしまった。
「お待たせしました」
マティアスに呼ばれて私たちはリビングに向かう。そこには湯気を立たせたスクランブルエッグとソーセージがあった。旅の英気を養うにはうってつけで、私は早速席についてフォークを握る。腹の虫がおさまらずソーセージにかぶりつこうとしたところ、突然外の羊たちが騒がしくなった。
マティアスが不思議そうに席を立つ。蹄の音が聞こえたのはそのすぐ後のことで、私は無意識に懐のシンタマニに触れる。ステファンはそんな私を目で牽制して窓に近寄る。マティアスも同じように来客の姿を確認した。
「帝国の兵士のようです」
「何の用だろう」
素っ気なく返答するステファンも最悪の事態を想定している。マティアスが呼んだわけではない。それは一緒に驚いている様子からすぐに分かった。
「たまに道を尋ねに来ることがあります。心配いりません。お二人は先に食べていてください。私が応対します」
マティアスは特に怖がる様子もなくコートを羽織って玄関に向かう。仕事に出掛けると勘違いしたアハトもそれについていく。扉が開くと冷たい空気が床を這って流れ込んでくる。蹄の数から兵士は五人と推測できた。私は直してもらったばかりのシンタマニを握り、会話を聞くために壁に寄って耳をつける。
「どうされましたか」
「お前が羊飼いのマティアスか」
「そうです」
もう一度外を窺うと、二人の兵士が柵の前で煙草をふかしていた。背中の銃とみすぼらしい風貌から一般兵だと分かる。ただし、玄関口は死角となっていてマティアスと話す兵士の姿は見えない。ステファンは万が一を考え、借りていた部屋に荷物を取りにいく。
「徴発令状だ。我が軍は現在、ウルス街道を西進している。そこでお前には我々に協力する義務が発生した」
「徴発?私に何を」
「羊だ。お前が飼っている羊はこれより全て軍の資産となった。この場に屠殺場を設置する。食料調達に協力しろ」
「待ってくれ!それは困る!生活ができなくなる」
マティアスが声を張って言い合う。何やら話がきな臭い。ステファンが戻ってくると隣に来るように合図した。
「決まったことだ」
「せめて半分残してほしい」
「しつこい!」
兵士の一人が怒鳴り、マティアスが殴られてその場に倒れた音が聞こえる。その直後、アハトが吠え始めた。扉越しに響くマティアスの息遣いはくぐもっている。
「この通りです。息子の結婚祝いだけは残しておきたい」
「時間がない。お前たち」
兵士はもはやマティアスの言葉に耳を傾けようとしない。アハトはマティアスを庇って吠え続ける。そんな時、金属が擦れる嫌な音がかすかに聞こえた。乾いた破裂音が響くと、鳥が森の中から飛び立った。
甲高い断末魔を最後にアハトの声が消える。ステファンがあっと声を漏らし、その時には私の体は動き始めていた。しかし、二度目を止めることは叶わない。勢いよく扉を開け放つと、地面に膝をついたマティアスが頭を撃ち抜かれていた。隣では血だまりの中でアハトが死んでいる。
「この人でなし!」
殺意が全身からたぎり、血液が沸騰を起こして制御がきかなくなる。銃を構えた二人の兵士がマティアスとアハトを殺したのだと分かると、怒りを魔法に変えるべくシンタマニにルサルカを集中させた。心臓の血管を千切る程度では生ぬるい。今なら無尽蔵に魔法が使えそうだと頭が錯覚を起こす。
「エレナ!駄目だ!」
魔法を撃ち込む寸前、ステファンの声が耳に届く。兵士は三人して邪悪な顔をしている。どれも生きるに値しない悪魔どもだ。しかし、こんな時に限って死んだ人間の視線が背中に突き刺さった。無視することもできた。それでも、命の恩人に顔向けできない人間にはなりたくなかった。
急遽自制を働かせてルサルカの濃度を下げる。痛みに顔を歪ませた三人はその場に崩れ落ちた。
「魔法師だ!」
離れて立っていた二人が異変に気付いて銃を構える。この二人も何ら理解できていない。そう思った私はあえて魔法の発動を遅らせて発砲を許す。弾丸はルサルカの壁に当たって鼻先で弾けた。苦痛を与えられないのであれば、せめて恐怖を植え付けようと考える。兵士が次弾を装填しようとしたため、銃身を折り曲げて使い物にならなくする。体力の消耗を感じたが、打つ手をなくした兵士は両手を上げて命乞いを始めた。
「助けてくれ!俺たちは命令されてここに来ただけだ!誰も殺してない」
「妻と子供がいる!どうか命だけは」
「彼にも家族がいた」
「こうなったのは残念だ。なぜ命令に従わなかったんだ」
「あんたが殺したあいつらにも家族はいた。同じことだろう」
「同じこと」
シンタマニを握る力が限界に達して軋んだ音が出る。こいつ等は自分の行為を理屈づける正義も思想も持っていない。兵士として命令に従い、漠然と人を殺している。まさに私と同じだった。
「エレナ!もういい!」
「生かしておくつもり?」
「相手は丸腰だ。怒りを抑えて」
縄を持ったステファンが二人の後ろに回り込み、私の魔法が暴発する前に両手足を縛る。妙な動きがあればすぐに殺すつもりでいた。しかし、腰抜けの兵士は価値のない命に必死にしがみつこうとする。拘束し終えるとステファンは私を連れてマティアスの方へと戻った。
「生かしておくと私たちのことが軍に伝わる」
「考えてる。でも今は他にすべきことがある」
「魔法を使った。近くに軍の魔法師がいたらすぐにでもやって来る」
「分かってる。でも、マティアスさんをこんな状態で放っておくつもり?アハトだって。命の恩人だろ」
ステファンはまた余計な情けを帝国兵にかけようとしている。そう思って苛立ちを募らせていた私だったが、横たわるマティアスを見て我に返る。怒りで人を殺したのは初めてだった。
「復讐だけが人の弔い方じゃない」
「だとしても罰は受けさせる」
「どうやって」
「墓を掘らせる。嫌がられないことを祈ってて」
ステファンから是非を聞く前に兵士のもとへ戻る。時間を多く取れないため、二人で一つの墓穴を掘らせることにした。幸か不幸か兵士は即座に了承する。作業を監視している間、私はマティアスが作ってくれた食事を取った。食欲はなかったが、これからの旅には体力が必要なのだ。その傍らでステファンはこの状況を説明する置手紙を作っている。
埋葬は私とステファンで行った。本当の名前を教えることさえできなかった。そんなあっけない別れに心は虚無感を覚える。兵士には簡易的な食事を取らせた後、家から少し離れた森の木にくくりつけて放置した。これで軍は私たちの動きを知るだろう。ただ、そのことでもう言い争いはしない。ステファンは仕方ないと呟くだけだった。