13. 命の恩人
雪崩に巻き込まれたという事情を話すと老爺は気前よく私たちに部屋を貸してくれた。アハトはここの飼い犬で、今は私が横になっているベッドのそばで毛布にくるまっている。ステファンは椅子に座ってぐったりとしていた。
「お待たせしました。温かいスープです。昨日の残りで申し訳ないですが」
「ありがとうございます。ヘレン、飲めるか?」
寄ってきたステファンが上体を起こすのを手伝ってくれる。ヘレンという名前には咄嗟に反応できなかった。ただ、手配されている身であるため、偽名を使う対応は間違っていない。
「着替えもどうぞ。男物ばかりでヘレンさんのお気に召すかどうか」
「大丈夫です。本当にありがとうございます」
マティアスが持ってきたのは中肉中背の男が着る庶民服だった。雪崩で荷物を失っていた私にとって男物かどうかはこの際どうでも良い。
「しかし災難でしたね。この時期の雪崩は珍しいのですが。山脈を越えてここまで?」
「はい。アハトには感謝してもしきれません。雪崩の後、どこからともなく走ってきて妻の居場所を教えてくれた」
どうやら夫婦というていで話を通すらしい。私はそんな設定を覚えながらスープに口を付ける。久しぶりの温かい食事に感激し、思わず涙が出そうになった。
「アハトには羊を追わせていたのですが、突然いなくなってどうしたのかと思っていました。まさか人助けをしていたなんて。自己紹介がまだでしたね、マティアスと言います」
マティアスの手が差し出され、ステファンは握手を交わす。年齢は60歳ほどで、髪だけでなく眉毛や髭まで白い。歩く姿から腰を悪くしていることも分かった。
「カールです。こちらは妻のヘレン。二人でクレムスから」
「クレムスですか。大変ではなかったですか?」
「ええ。ですが、軍との衝突で街はとても暮らせる状態になくなってしまって」
「そんなことが」
驚くマティアスの足元にアハトがすり寄る。窓の外ではちょうど最後の夕陽が輝いていた。家のすぐ隣には木製の柵で閉じられた空間があり、沢山の羊がその中を歩いている。
「アタカマでも最近同じような話を耳にします。これからどこへ向かわれるのですか」
「ヘントの方へ。親戚が住んでいるので」
「それは良かった。ヘントではまだそういった話を聞いたことはありません。軍の往来は激しくなっていますが」
「そうですか。良かったです」
「すみません、話しすぎましたね。私はそろそろ夕食を作ってきます。お二人はゆっくりしていてください」
私たちを気遣ったマティアスがアハトの頭を撫でてから部屋を出ていく。扉が閉まるとアハトは再び毛布の上で丸くなった。ステファンは大きく息をついてからスープに口を付ける。
「話し過ぎ」
「マティアスさんは大丈夫。それよりごめん、夫婦ってことにして。咄嗟に思いつかなかった」
「別にいい」
体が温まってくると倦怠感が消えていく。確かにマティアスから危険な雰囲気は感じなかった。私はベッドの中で握っていたシンタマニを毛布の上に出す。円頭部を回そうとすると軋んだ音が出る。
「雪崩で回らなくなった。軸が歪んだかもしれない。直せる?」
「僕が?シンタマニなんて触ったことない」
「中を触らなければただの木工品。あなたの方が器用そうだから」
「無理だと思うけどなあ。でも後で見てみるよ。それよりスープ飲んだならちゃんと横になって」
ステファンはシンタマニを預かると鞄にしまう。言われた通り横になった後も目を合わせ続けていると首を傾げられる。
「また助けてもらった。ありがとう」
「だからそれは僕じゃなくてアハトに」
「放っておけばあなたは新しい英雄になれた」
「英雄?なんだそれ。エレナさんは旅の仲間だろ」
「あんなに価値観が違っていても?」
「そうだ」
ステファンは面倒くさそうに答えて椅子に戻っていく。仲間という響きは新鮮だった。これまでそんな関係を必要としていなかったが、呼ばれてみると不思議な安心感がある。その理由をしばらく一人で考えていたところ、マティアスが料理の載った皿を持ってやってくる。
用意してくれたのは羊肉入りの野菜炒めとトーストしたパンだった。ステファンがお願いをしたことでマティアスも一緒に食事を取ることになる。
「ここはどんな村なんですか?」
「メルクは寂れた村です。住民のほとんどが高齢者で希望がない。私の息子もここには仕事がないからと三年前の春にピアへ出稼ぎに行ってしまいました」
食事中、私から適当な話題をマティアスに振る。完全に信頼できたわけではなく、人となりを調べる必要があったからだ。話してくれたのは家族のことだった。ピアはアタカマの最大都市だと聞いたことがある。
「それからはずっと一人で」
「はい。息子はしばらく音信不通だったのですが、この秋に手紙が届きました。知らないうちにピアで結婚して子供ができたらしく、次の春には顔を見せに行くと」
「それは良い知らせですね」
「ええ。最近はアハトとその日を待ち侘びる毎日です」
やはりマティアスからはステファンと同じ匂いがする。ライネを発ってから一番の心温まる話を聞いて私は警戒を解く。ベッドに座っているとアハトが足元にじゃれついてくる。あまり動物を愛でたことはないが、アハトは命の恩人。グスタフへの復讐の機会を残してくれたことに感謝して、全身を撫でてやった。
食事が終わった後は、旅の疲れもあるだろうからとマティアスはアハトを連れて早々に下がっていった。二人残された部屋でまずはそれぞれ着替えを済ませる。その後、ステファンはおもむろに寝袋を床に敷き始めた。
「何してるの」
「僕が下で寝る。怪我人がベッドじゃないと」
「そうじゃない。あなたもこっちで寝るの」
「どうして」
私の要求に、ステファンは腰に手を当てて怪訝そうな顔をする。それでも私は毛布を広げてこっちに来るように催促した。
「私たちは夫婦。夫を床に寝かせる妻はいない」
「そうかもだけど」
「ちゃんと考えて」
私はそう言った後、寝返りを打ってステファンに背を向ける。へニアが知れば烈火の如く怒るだろう。しかし、今までの仕返しだと思うと良い気分だった。外は既に暗闇に包まれていて星明り一つない。近くにルサルカの痕跡がないか調べてみたが問題なかった。
「いつまで休んでられるだろう」
「追手なら大丈夫」
「どうしてそう思う?」
ステファンはベッドに腰掛け、私の背中に問いかける。窓に映ったステファンと目が合って私は仰向けになる。目に入るようになった前髪を払ってから口を開いた。
「あの大鷲は手が回らない場所を見張ってたんだと思う。きっと今頃、私たちが山脈を越えたことを知って慌ててるはず」
「でも知られた」
「魔法は万能じゃない。居場所が分かっても瞬間移動はできないし、空を飛ぶことも現実的には難しい。必死に馬を走らせて来るだろうけど、今度は山脈が私たちの味方になってくれる」
「意外と制約があるんだね。魔法って」
「魔法はこの世の理に従う。日暮れを遅らせることはできないし、風を止めることもできない。想像できても方法が分からない限りはね」
魔法とはルサルカという物質が自分の手の代わりに仕事をしているだけに過ぎない。従って、自分の手でできないことはルサルカでもできないというのが魔法の原則だった。だからこそ魔法師は一つでも多く知識を身につけようとする。そうして自らの手でできることが増えれば、その分だけ使える魔法の範囲も広がるからだ。
「じゃあ手を触れずに人を殺すのはどういう原理なんだ」
「魔法という名の第三の手が伸びて、敵の血管を引きちぎってる。あなたに見えてないだけ」
「魔法師にしか見えないモノがあるってわけか」
「私たちにも見えてない。でも感じることができる。それは魔法言語を与えることで初めて魔法として機能する」
私は魔法に関する幾つかの核心的な情報を隠して説明する。案の定、ステファンは理解できずに首を傾げていた。実のところ、魔法の正体を知っている者はほとんどいない。人間が太陽の正体を理解しないままその恩恵を受けているように、魔法師も正体不明の力と割り切って魔法を使っているのだ。それがルサルカという物質だと知っているのはヘイカー家の魔法師だけである。
「よく分からないけど、エレナさんがそう言うのなら信じるよ。今日はゆっくり眠れそうだ」
考えることを諦めたステファンは机のオイルランプを消してベッドに横になる。毛布は一枚しかないため一緒に肩まで持ち上げた。
「こっち来ないでよ」
「寝袋より広いから大丈夫」
ステファンはそんないい加減なことを呟いてすぐに寝息を立ててしまう。マティアスはまだ何か作業をしているようで、壁越しに音が聞こえる。それが落ち着くまでは起きていようと思ったものの、よほど疲れていたのか次の瞬間には私も眠りに落ちていた。