12. 大鷲
丸二日の吹雪を耐え切った次の朝、目に飛び込んできたのは急斜面の先に広がる雄大な平野だった。もやがかかって見えにくいが、遠くには砂漠らしきものもある。昨日の夜、この場所に辿り着いたときは薄暮の時間帯で、目と鼻の先にこの過酷な雪山の終わりがあることに気付かなかった。いつものように先に寝袋から抜け出していた私は、初めてステファンをゆすり起こした。
「良かった。正直怖かったんだ。あの吹雪だと正しい方角に進んでる自信がなかった」
「私は考えないようにしてた」
「とにかく今日で下りきろう。食料もギリギリだ。体調は?」
「問題ない」
「山を下りるともしかしたら」
「分かってる」
ステファンは冬期のウルサ山脈縦断という大仕事を果たした。これで目的地のヘントに大きく近づいたわけだが、今度は寒さや食料不足とは違った新しい問題を心配しなければならなくなる。それは私の仕事だった。
簡易的な朝食を済ませると直ちに出発する。麓には村や街がいくつか見えているが、ひとまず最も近い集落に向かうことにする。今日も私はステファンの足跡を辿る。久しぶりの快晴で歩いている内に体温は上がっていった。
「足元に気を付けて。昨日の雪で歩きにくい」
「転げ落ちそう」
「ゆっくりでいい。だけど出来るだけ早くあの森まで行きたい」
「どうして?」
「雪崩が心配だ。こんなに新雪が積もってる上に気温が高い。巻き込まれたら転げ落ちるどころじゃないよ」
真っ白な斜面を覗き込むと下方に針葉樹林が見える。距離があり、直線的には下りられないため相当時間がかかりそうだ。足元では小さな雪玉が雪原に跡をつけながら転がり落ちている。あんな風に下りられたらどんなに楽だろうと意味のないことを考えてしまう。
「追手は来てると思う?」
「動きを読まれていたらあり得る」
「その可能性がどんなものか聞いてる」
「さあ。だけど、クレムスの街にクラウスは来てた」
「本当に?」
驚いたステファンが歩みを止める。私はその背中を押して先を急がせた。へニアのことがあって黙っていたが、追手の可能性を議論する上で隠し続けることに意味はない。
「クレムスから立ち去る時、クラウスの魔法を感じた。魔法師は他人の魔法を感じ取れるの」
「そんな。へニアは無事ラッサに戻れたかな」
「常識があれば大丈夫。王家魔法師と対決しようなんて思わなければ」
「さすがにそんなことはしないだろうけど」
やはりステファンはへニアが魔法師だと知らない。不安そうにしている反面、そんな馬鹿げたことをするはずがないと信頼していた。正面から戦いを申し込んだなど夢にも思っていない。
「追手の話に戻るけど、ウルス山脈を越える街道もあるんでしょ。だったら否定はできない」
「確かに街道は通ってる。けれど冬期はどれも険しいらしい。もちろん僕らが選んだ道ほどじゃないし、軍なら簡単に踏破できるのかもしれないけど」
「危ないってこと?」
「詳しくは知らないけど、そんな話を聞いたことがある。命を賭けたくなければ山脈を大きく迂回しないといけないって」
「へえ」
先にヘントで待っていると言われたため、簡単な道のりなのだろうと思い込んでいた。しかし、そんな危ない道にへニアは一人で踏み込むつもりだったらしい。ますます再会は難しそうだと安堵する。
「クラウスはいるかも。あいつ私が嫌いだから」
「でも同郷なんだろ?」
「だからよ。自分より年下の女が先に高位の魔法師になった。それを今も屈辱だと思ってる」
「激しい競争社会なんだな」
「ええ。嫉妬に走った暗殺だってある。罪に問われても五大家のどこかに能力を買われれば不問だから」
「酷い世界だ」
「これがライネの日常」
私も何度か命を狙われた。ただ、いずれも返り討ちにしただけでなく、赤の大広間事件以降はそんな挑戦をしてくる愚か者もいなくなった。それほどの魔法師のこの凋落を一体誰が想像できただろうか。今なお生き長らえていることが辛うじてその過去を証明している。
「とにかく魔法師の相手は私に任せればいい」
「エレナさんは強いからな」
「そうよ」
ここで会話が途切れる。またラッサでの出来事を思い出したらしい。人間はそう簡単に自己を形作る思想を変えられない。それでも拒絶感は以前ほど強くなく、私はこれを進展と捉えることにした。そういうこともあって私はさらに一歩踏み込む。
「それで、この前に話してたことだけど」
「この前?」
「魔法のこと。知りたいって言ってた」
「ああ、そうだったね」
「嫌ってることは分かってる。だけど知っておいた方が良いと思って」
言い出す時に少しだけ心臓が高鳴る。この感情は、過去にいたずらを祖母に白状した時と似ていた。ステファンが頷いてくれたため、ひとまずは胸を撫で下ろす。
「魔法って実は」
そう話し始めた時だった。近くで魔法が行使されたことを察知して、私はその場に立ち止まる。急に静かになったことでステファンが振り返る。私は腕を引いてその場にしゃがませた。
「誰かが魔法を使ってる」
「え?」
「かすかだけど間違いない」
状況を伝えて雪原を見渡すが人影一つ見当たらない。感じたルサルカは殺傷性の魔法を構築できないほど僅かなものだった。もしかすると近くの村に一般魔法師がいるのかもしれない。考えを色々と巡らせていたところ、ステファンが空を見上げて呟く。
「大鷲だ」
小さな黒い点が太陽の近くを動いている。逆光で見えにくい。しかし、その物体がどんどんと大きくなっていることに気付いた。鳥にしては翼に対して胴体が太い。そんな観察の最中、もう一度ルサルカの揺れが起こる。間違いなくあの大鷲からだった。
「追手よ!」
私はそう叫んでステファンを押す。自分は斜面を横切るように走り始めた。
「エレナさん!」
「逃げて!狙いは私!」
大鷲は翼を折り畳んで急降下してくる。やはり目標は私だった。魔法師に使役されているのだろう。魔法には動物を自在に操るものもある。
ステファンから十分離れるとシンタマニを持った右腕を大鷲に向けて伸ばす。動物の対処は人間に比べて易しい。必要最小限の魔法を放つと片翼が砕け散った。バランスを崩した大鷲は弧を描いて墜落していき、私たちから遠ざかっていく。
しかし、落ちていく途中で大鷲の胴体から黒い物体が分離した。明らかにルサルカの作用を受けたそれは私に向かって一直線に落ちてくる。再度魔法で軌道の変更を試みる。ただ、質量を見誤ったことで想定より近い場所への落下を許してしまった。鈍い音とともに数メートル先の雪原に穴があく。積もった雪が舞い上がって私は身を伏せた。
「エレナさん!大丈夫!?」
ステファンが遠くで手を振っている。私は寝そべったまま問題ないと合図し、周囲に魔法の残渣がないか調べた。安全だと判断してゆっくり立ち上がった矢先、爆発音が轟いた。
衝撃波に襲われて振り返ると、物体が落ちた場所で雪の塊が垂直に吹き上がっていた。距離が近かった私は尻もちをついてしまう。雪の中での爆発だったため威力はそれほどだった。幸い怪我もしておらず、状況が落ち着くのを待ってからステファンとの合流を図る。
「逃げろ!」
「え?」
ステファンが叫んでいる。その意味を理解するよりも前に足元の雪原に亀裂が入った。慌てて姿勢を保とうとしたものの、背中衝撃を受けた私はシンタマニを手放してしまう。その後はまるで蹴り飛ばされた小石になった気分だった。体が前後左右に激しく揺さぶられ、唐突に視界から光が消える。方向感覚を失うともはや出来ることはなかった。
動きが止まったのはしばらくしてからだった。雪が顔中に纏わりついて呼吸ができない。どんなにもがいても、全身は縄で縛られたようにびくとも動かなかった。魔法で解決しようにも体の向きさえ分からず、どんな魔法が適切か判断できない。そうこうしている内に意識は遠のいていった。
「エレナ!エレナ!」
死後の世界が存在しないことは知っている。虚無に佇んでいた私を引っ張り出してくれたのはうるさい声だった。目を開くと必死に叫ぶステファンの顔が映る。私の肩を強く揺さぶっていて、隣には知らない大型犬が一匹座っていた。
「エレナさん分かる?」
息をすると胸が痛い。心配されていると分かって返事をしようとしても声が出なかった。理由は体力ではない。頭はぼんやりとして、体は浮遊感に包まれている。
「苦しい?」
私は頷く。筋肉に力が入らず、ステファンに腕を持ち上げられてもその感覚がない。グスタフから逃げおおせた時も同じだった。こんな状態になっても生きている。自分の悪運の強さに驚いてしまう。
「30分は雪に埋まってた。まだ動かない方が良いだろうけど、斜面に崩れ残った雪があってまた襲われるかもしれない。寝袋をそりにして移動するから一度持ち上げるよ」
ステファンは私に声をかけ続けながら寝袋を広げる。見知らぬ犬は白と黒の模様をしていて私の手をずっと舐めていた。次第にこそばゆく感じて、鼻先を撫でてやるとどこかに走り去っていく。
「辛かったら言って」
ステファンは私を抱き上げて寝袋の上に寝かせる。ロープを持ち手にした簡易的なそりが作られると、ステファンは早速それを引っ張って斜面を下り始めた。いつの間にか周囲の勾配はなだらかになっている。遠くにあったはずの森がすぐそばにあった。
「雪崩」
「そう。僕は巻き込まれなかったけどエレナさんは数百メートル押し流された。正直見つけられないと思ったよ」
「ありがとう」
「さっきの犬のおかげだ。雪崩の後、どこからともなく走ってきて雪を掘り始めたんだ。信じて一緒に掘り進めたらエレナさんが逆立ちの状態で見つかった。奇跡だ」
森に入るとステファンの歩みが遅くなる。緑を見ていると頭にかかっていた霧が徐々に晴れていく。両手が動くようになって自分の体を触ってみる。打撲はあれど骨折はしてなさそうだった。
「荷物は?」
「全部失った。でも命は助かった」
「シンタマニが」
「今は考えなくていい。エレナさんは幸運だ。本当に良かった」
私は目を閉じて拳を握る。ステファンの言う通りだった。そのまま何も考えないでいると、後方から雪上を駆ける足音が聞こえてくる。呼吸音がすぐ隣で止まって目を開くと、先程の犬がこちらを見ていた。その口には失くしたシンタマニが咥えられている。無意識に使役させてしまったかと思ったが、その痕跡はない。褒めてほしいのか、犬は私の手元に頭を擦り寄せてきた。
「近くの村の牧羊犬だろう。賢い犬だ」
「アハト。ありがとう」
「名前?」
「首輪に」
動かせる範囲でアハトの頭を撫でる。柔らかい体毛が肌に触れるとチクチクとするが、そう感じられるのもアハトのおかげである。犬に命を救われたのは初めてだった。
その後、私はステファンの引きずる寝袋の上で安静にしていた。一時、村への方角が分からなくなったものの、アハトの先導で進んでいくと日没までに一つの家に辿り着く。ここに主人がいるのか、アハトは玄関の前で二度吠える。すると、年を取った男性が飛び出してきた。