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11. 雪山

 クレムスを後にして数日、未知の世界に足を踏み入れた私たちは雪深く険しい山道に悪戦苦闘していた。昨日までの吹雪が嘘のように空は青く澄みきっているが、積もった新雪のせいで非常に歩き辛い。当然、ウルス山脈を越えようとする者など他に一人もいない。森を進む間はサラに雪をかき分けてもらっていた。しかし、標高が高くなってくると切り立った山肌が目立つようになる。とうとうサラと別れる時だった。

 食料は十分にある。サラに預けていた荷物を二人で分担して、最後にステファンが馬具を取り外す。状況を分かっていないサラは、私に近づいていつものように頭を撫でてもらおうとする。殺して食べようと言ったこともあったが、こうなると寂しかった。

 「ごめんな。本当はこんなところに置いていきたくないんだけどお別れだ。お前は賢いからこの森でも暮らしていける」

 「あなたの背中は乗り心地良かったわ」

 それぞれが別れを告げる。そうして歩き始めてもサラはついてこようとした。ただ、足場が悪いせいで距離がどんどんと開いていく。ステファンはあえて振り返らず、岩場に手を当てて細い道を進む。右側は深い谷となっていて踏み外すと谷底まで真っ逆さまに落ちてしまう。足をすくませる私は風のない日で良かったと肯定的な思考に努めた。

 「怖くない?」

 「え?」

 私がステファンの背中を見つめて慎重に進んでいると、不意にそんな声が飛んでくる。心を読まれたのかと思ったがそうではなかった。

 「僕は少し怖い。魔法師に襲われてもどうってことなかったけれど、知らない世界に入ってサラと別れると、途端に」

 「情けない」

 「エレナは強いんだね」

 「当たり前。ライネからずっと知らない世界を歩いてきた。今は帝国の広大さに驚いてる」

 「それ、僕以外の前で言わない方がいいよ。アタパカは帝国じゃないって喧嘩になるから」

 ステファンはそう言って笑う。確かにその通りだった。魔法師として帝国に仕えてきた私だが、その原動力は愛国心ではない。どこまでが帝国の領土なのかという議論に興味はなく、無用な対立を避けるためにも気を付けることにする。

 「道は合ってる?知らない土地なんでしょ?」

 「うん。でも雪山に道を通す時には大抵決まりがある。比較的安全な地点を通りながら最短距離で。アタパカの方角は太陽の位置で分かるから、あとは道が通ってそうな場所を進むだけだ」

 「随分といい加減ね。迷えば死ぬと言ったのはあなただけど」

 「信じて。それなりにこういう道には詳しいから」

 「そう」

 根拠のない言葉に私は溜息をつく。その白い息は岩壁に吸い込まれるように消えていった。風が谷から吹き上がっている。足の指が悴み始めると恐怖は増大した。

 神経を使って進むこと数時間、私たちはようやく開けた場所に出た。ただ実際は、山の尾根に出たというだけで崖がもう片方にも増えただけである。到底休めるような場所ではないが、ステファンはそこで昼食を取ると言い出した。

 「まだ歩ける」

 「駄目だ。この先は当分同じような道が続く。ほら見て」

 ステファンが北の山々を示す。こういった山脈は一面銀世界なのかと思っていたが、実際は岩肌が剥き出しになっている場所も多い。それほど斜面が急だという証拠だった。まだ日は高いが、その光は私を温めてくれない。

 「森がなければ焚火もできない。だから休憩しておくんだ」

 「本当に酷い道。もし道を間違えていたら」

 「それは大丈夫だった。岩壁に顔料が定期的に塗られてただろ。あれは夏にウルス山脈を越える人のための目印だ。見てなかったの?」

 「え、ええ」

 背中ばかり見ていたとは言えない。バツが悪くなって視線を外すと奈落の底が目に映る。一方のステファンは鼻歌混じりに荷物から食材を取り出していく。干し肉と凍った野菜をパンで挟んだだけのいつものサンドイッチを作ろうとしていた。

 「私がしようか」

 そんな提案をしたのは手を動かしている方が気が紛れると思ったからだ。しかし、ステファンは顔を引き攣らせてなかなか食材をこちらに渡してくれない。私が首を傾げると、ステファンはぎこちない笑顔を見せた。

 「私には任せられない?」

 「そんなんじゃないけど」

 「だったら何?」

 「ほら、エレナさん。料理あまり上手じゃないから。何度か振る舞ってくれたことがあったけどさ」

 「失礼な人」

 腕を組んでステファンを睨みつける。パンに具材を挟んだだけでは料理と言わない。冷たいサンドイッチを手渡されるなり前歯で強引に噛み千切った。

 「じゃあ今だから言うよ。エレナさんの生活能力は全般的に高くなかった。そりゃ、ずっと良い暮らしをしてきたんだろうから無理ないと思うけど」

 「そうね。ライネでは大きな屋敷が与えられて、女中が何でもしてくれた。ラッサみたいな生活は初めてだった」

 「それでどうだった?」

 「どうって?」

 「楽しかった?」

 ステファンはサンドイッチを頬張りながら聞いてくる。失礼な質問の後に何だと思ったが、意図が分からなかったわけではない。ステファンは私を帝国に使い捨てられた哀れな存在だと思っている。ラッサでの単調な毎日の方が幸せだったと言ってほしかったのだ。

 「別に普通。育てたクバを食べられれば文句はなかったけど」

 「なんだ、結構気に入ってたんじゃないか」

 「誰がそう言った?」

 息を大きく吸ってからサンドイッチを全て口の中に詰め込む。過去に固執しても意味はない。逃亡生活は、こうしてまた始まってしまったのだ。違いがあるとすれば今回は一人ではないということ。ステファンがいなければ乗り越えられなかった危機は幾つもあった。借りを作ってばかりの状況も初めてだった。

 「気分紛れただろ?」

 「ふん」

 先に食べ終えた私は余計なお世話だと鼻を鳴らす。立ち上がって荷物を背負い直すと風が強くなっていることに気付いた。西の空からゆっくりと黒い雲が流れてきている。ステファンも食べ終えて手を払う。

 「今夜はまた荒れそうだな」

 「標高も高いし寒くなりそう」

 「風さえしのげれば晴れた日に比べて冷え込みはマシ。寒くてどうしようもないなんてことなかったから何とかなる」

 夜な夜な人に抱きついているのだから当然だろう。私はそう言いかけてやめる。平気でこんなことを言うのだから少なくとも罪悪感は持っていないらしい。文句の代わりに白い目を向けると気付かれてしまった。

 「何、その目」

 「別に」

 「まさか僕が寝ている間に何か変なこと」

 「それはあなたでしょ!」

 何の冗談か私の方があらぬ疑いをかけられる。ステファンが何食わぬ顔で歩き始めたため、私は後ろから糾弾した。

 「寝静まったと思ったら一体何のつもり?」

 「何のこと」

 「抱きつき癖。気付いてない?」

 「ああ、やっぱりね」

 「やっぱり?」

 どんな顔でそんな言い方ができるのか。回り込んで拝んでやろうと思ったが幅の狭い尾根を歩いているため叶わない。代わりにステファンの右足を軽く蹴りつけた。

 「その癖は自分でも知ってる。でも聞けないだろ?寝てる間に変なことしてないかなんて」

 「そうだけど」

 「エレナさんのことだからいつか言ってくると思ってた。それか起きたら痣があるとか」

 「そこまで暴力的じゃない」

 「知ってるよ」

 ステファンの問題を話していたはずが、いつの間にか私が追及を受けているような格好となる。どうにかして非を認めさせたいが、上手い文句が思い浮かばない。何でも魔法で解決してきた私に、話し合いで相手を追い詰めた経験は一度もなかった。

 「変なところ触ったら関節を外すつもりだった。暖かかったから許してただけ」

 「じゃあいいじゃん」

 「本当に癖?実は起きてたんじゃ」

 「誓うよ。癖なんだ」

 「でもずっと一人で暮らしてたんでしょ」

 「まあね」

 ステファンが言い淀む。その時、一つの冷酷な顔がふと脳裏によぎった。こんなに美しい世界を歩いている時に思い出したくはないが、ステファンの態度を見て確信に変わる。

 「へニアね」

 「どうしてそう思う?」

 「違う?」

 「いや、そうなんだけど」

 「どういう訳か聞かせて」

 「なんで?」

 今度ばかりはステファンが眉間にしわを寄せて振り返ってくる。私は当たり前でしょうと肩をすくめた。

 「へニアは許すだろうけど私は不安。あなたたちの愛情表現に巻き込まれるのは嫌よ」

 「そんなのじゃない」

 「なら話して」

 「分かったよ。あいつと軍にいた頃、雪山訓練中に遭難したことがあるんだ。低体温症になった僕はペアだったへニアに一人で麓に下りるよう言った。だけどへニアは頑なに言うことを聞かなくて、最後は僕の命を助けてくれた。その時、抱き合って暖を取ったらしいんだ」

 「ふうん」

 「正直な話、僕には記憶が残ってなくて後からそう聞かされただけだけど、きっかけはそこだ。それ以来、眠る時に誰かが横にいると抱きつく癖ができた。相手が男でも女でも関係なく」

 「迷惑な話」

 二人にそんな過去があったのか。抱きつき癖については納得がいったが、同時に新しい疑問が浮かぶ。ステファンが命の恩人のへニアに執着するようになったのであればまだ理解できる。しかし、実際に執着しているのはへニアの方なのだ。

 「だから執着されても断れない」

 「まあね。軍で出会った頃からやけに粘着してくると思ってたけど、あれが決定的だった。あいつは運命がどうとしか言ってくれないけどさ」

 「運命ねえ」

 へニアは運命などといった曖昧な理由で行動する人間ではない。あの人間性は理解できないが、その思考には一貫性があるからだ。何かを隠していることは簡単に想像がついた。

 「とにかく嫌なんだったら対処するよ。親指同士を縛っておくとかやりようはある」

 「さっきも言った。下心がなければ構わない」

 「それはどうも」

 「いいえ」

 クレムスの街で顕在化した不和は今のところ見当たらない。ウルス山脈に入って分かったことは、二人きりでは価値観の相違が表面化しないということだった。人間としての在り方や命への向き合い方が違うために衝突が起こる。ラッサで生活している時に大きな衝突がなかったのもそのせいだ。

 火種から遠ざかれば平和に過ごせる。当たり前のことだが、それはいつ破裂するか分からない爆弾を抱えているに等しい。ウルス山脈を下りれば衝突の時はまた訪れる。大切なことは怖がらずに向き合うことだった。

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