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10. 混乱

 太陽が山脈に隠れてまもなく、私たちはクレムスの郊外に到着した。街の中央まではまだ距離があり、私はくたくたの足を動かし続ける。とはいえ心配すべきは街の状況だった。いたるところから煙が上がり、中心部に近づくにつれて怒号や悲鳴が大きくなっていく。ステファンも初めての光景に驚いていた。

 大通りは混乱の真っ只中にあった。木材のバリケードが何列も設置され、小火がそこらじゅうで起こっている。原因は街の人々が手にする火炎瓶で、少し先で整列している帝国軍を狙っている。兵士は銃を携えて威嚇しているが、群衆を抑え込むには数が足りていなかった。

 「大変な時に来てしまった」

 「離れた方が良いんじゃない」

 「短時間で済ませよう。行きつけのところがあるんだ」

 ステファンは人の渦を避けて路地裏に入る。興奮した男たちで溢れていた大通りとは違い、ここには弱者が追いやられていた。怪我を負った老人や泣き叫ぶ子供が何人も縋りついてくる。また意味のないお節介が出るかもしれない。そんな心配をした私だったが、ステファンは視線を上げたまま歩みを止めなかった。

 別の大通りに出ると、そこには衝突の跡が生々しく残っていた。肉の焦げる臭いが充満していて、道端では放置された死体にカラスが群がっている。払いのけてもすぐに同じ状態に戻ってしまう。

 「軍は武力で制圧しようとしてるみたいだ」

 「ええ」

 「でも住民が抵抗して小休止ってところか」

 「こんな光景見たことない」

 「バイロイトと似てる」

 街が戦禍に巻き込まれるなど戦争の時代の話だと思っていた。私の心は経験したことのない不安に駆られる。そうこうしている内に怒号がこちらに近づいてきた。

 「ここだ。僕が話をする。エレナさんはフードを被って静かにしてて。もしかすると正体に気付かれるかもしれないから」

 目的地は通りに面した小さな雑貨屋だった。振り返ると住民が帝国軍の動きに合わせてこちらに近づいてきている。そうしてあっという間にもみくちゃにされてしまった。ステファンが声を張って店の奥に呼びかけると鉈を携えた屈強な男が出てきた。

 「おお、ステファン。こんな時にどうしたんだ」

 「知らなかったんだ。ヌート、一体何があった?」

 「これまでの乳繰り合いがとうとう燃えちまった。数日前に帝国軍にちょっかいかけた青年が撃たれて死んだんだ。それで歯止めが効かなくなった」

 「人が大勢死んでた」

 「実は軍との衝突だけじゃねえ。ラインホルトが死んで11年。帝国と手を取り合った方が街は発展すると考える奴もいてな。そいつらと反体制派の間でもひと悶着あった。そこに軍も入り乱れて滅茶苦茶よ」

 ヌートによって簡単に経緯が説明される。後方ではひっきりなしに火炎瓶が炸裂する音が響き、農具や角材など思い思いの武器を掲げた人々が叫び声を上げている。道の端に立っていても足を蹴られ、背中に肘が入る。私は催促の意味を込めてステファンの裾を引っ張った。

 「ん、連れがいるなんて珍しい」

 「ああ。食料を買いに来た。いつものを二人分」

 「商売どころじゃねえんだがなあ。まあ昔からのよしみだ。500クルスでどうだ」

 「500クルス?」

 「言いてえことは分かるよ。でも見てみろ。こんなんじゃ次の仕入れなんて当分見込めねえ」

 ステファンが慌てて小銭を数え始める。どうやら値上げがあって手持ちが足りないらしい。一刻も早くこの場から立ち去りたかった私は仕方ないとシンタマニを握った。

 「いくら足りない」

 「女だったのか」

 「150クルス」

 「多分持ってる」

 そう伝えた私はコートをまさぐる素振りをして、握った硬貨をステファンに渡す。ステファンは一瞬眉をひそめたが、それと自分の手持ちを合わせてヌートに支払った。

 「これからどこ行くんだ?」

 「ラッサに戻るところ。どうか気をつけて」

 「ステファンこそな。街道は避けた方がいい。軍の増援がそろそろ到着するって噂だ。いきり立ってるだろうからな」

 「分かった。ありがとう」

 ステファンとヌートが握手を交わす。私も軽く会釈をしてから踵を返した。クレムスでの用事が済んだため、あとは山に戻るだけである。押しつぶされそうになりながら、どうにか人がまばらな通りに逃げ込む。その直後、ステファンから質問が飛んだ。

 「あの金、エレナさんのじゃないだろ」

 「これで集めた」

 私はコートの隙間からシンタマニの柄を見せる。ステファンは嘆息した。

 「盗んだのか」

 「一人分じゃ山を越えられない」

 「盗みなんて。いや、先を急ごう」

 ステファンは何かを言いかけてやめる。この場で道徳を説く無意味さを理解したらしい。私は逃亡生活の間、必要とあらば何度も盗みを働いた。ラッサでは単にその一面を見せなかっただけに過ぎない。そもそも私は善人ではない。こうした旅を続ける以上、ステファンにも慣れてもらう必要があった。

 「そこの旅のお方、すみません」

 言い合いを終えてすぐ、中年の男が目の前に飛び出してくる。みすぼらしい麻布の服を着ているが、発汗した体からは湯気が上っている。敵意は感じなかったものの、私はシンタマニに手を添えた。

 「赤の帽子に黒のコートの男の子を見ませんでしたか!?まだこのくらいで」

 男は細い腕で自分の腰ほどの高さを示す。気が動転しているのか目の焦点が合っていない。

 「いや、見てないな」

 「家に火をつけられて逃げる途中にはぐれたんだ。まだ上手く言葉も話せないのに」

 「そういえばあそこの路地裏にいたかも」

 「本当に!?」

 「ええ」

 ステファンが追い払おうとしないため、代わりに私が歩いてきた路地を示す。よほど心配なのだろう。深々と頭を下げた男は衝突の中心にもかかわらず、教えられた方向に全力疾走していった。再びステファンの視線が刺さる。無視していると、案の定不満げな声が漏れた。

 「本当に見たの?」

 「子供はいた」

 「赤い帽子の子供だ」

 「あのまま探すのを手伝えと言われたら困る」

 「そうか、合理的なんだな」

 半年以上一緒に居たことで、声の調子からステファンの感情を読めるようになった。こんな振る舞いでさえステファンの価値観とは相容れない。私はこれまで、借りてきた猫のように対立を避けてきた。しかし、運命共同体となった以上はそうもいかない。

 「優しさは美徳。でもそれは自分に余裕がある時だけ」

 「優しさじゃなく正しさで考えてほしいんだけどな」

 「正しさなんて人それぞれ。私の正しさを知れば、あなたはきっと一緒に居たくなくなる」

 「だろうね。少なくとも僕には人を殺せない」

 ステファンが吐き捨てるように反論する。死んだ五人の魔法師を思い出したのだろう。それではあの死線をどのようにくぐり抜けるつもりだったのか。そんな言葉が喉から出かかってなんとか飲み込む。

 多くの人間を殺してきた私でさえ殺人が正義に基づかないことは理解している。私の考える正しさとはつまり、軍人が持つべき思想だった。それを農夫のステファンに当てはめようとしても意味がない。価値観の相違はそんな単純な理由で引き起こされている。

 ここまで来て溝を深めてしまうことは想定外だった。雪山では勝手に距離が近づいたつもりでいた。しかし、本心ではずっと人殺しだと思われていたのかもしれない。そんな想像は胸やけに変わる。

 後方の喧騒は大きくなり続けている。振り返ると住民と軍の本格的な衝突が始まっていた。通りに佇む人々は故郷の行く末を不安そうに見つめている。一体誰が彼らに手を差し伸べるというのか。そんな考え事の最中、先を歩いていたステファンが立ち止まった。

 よそ見をしていたせいでその背中に追突した私は、またステファンが良からぬ善意を持ったのではないかと前方に回り込む。見境のない情けが出てこようものなら強引にでも押し戻すつもりだった。ステファンは暗闇の先を注視している。目を凝らすとぼんやりと人影が見えた。

 「ステファンだ」

 「え、へニア?」

 「やっと会えた。おかしいな。山から下りてくるところを待ってたはずなのに」

 「どうして?どうしてへニアがここに?」

 近づいてきて顔がはっきりと見える。そこには虚ろな目をしたへニアが立っていた。ステファンに笑いかけているが怒りが滲み出ている。私には一瞥もくれようとしない。

 「突然いなくなって驚いた。前にも言っただろ。私にはステファンしかいないって」

 「ごめん。でも帝国軍が来て」

 「分かってる。その女は逃亡者。山に逃げるしかなくて案内役を買って出たんだ。ステファンは優しいから」

 声が上擦っているのは再会に興奮しているからだろう。私は一歩下がった場所で聞いているだけにする。この獰猛な人間を手懐けられるのはステファンしかいない。

 「命を狙われてた。逃げないと殺されてたかもしれなくて」

 「エレナ・ヘイカーは危険な魔法師だ。人を何人も殺してる。ステファンの優しいところは好き。でもそんなことも分からないようじゃ困るな」

 語気を強めたへニアが私を指差す。睨まれると睨み返さずにはいられない。そんな応酬にステファンが割って入る。

 「でも助けた。それで僕も追われる身になったけど後悔はしてないよ。へニアはどうしてここに?僕らが来るって分かってたの?」

 「山帰りのステファンから聞く土産話はいつも北の土地のことだった。だから賭けたんだ。二日待ちぼうけをくらって少し心配だったけど、やっぱり来た」

 「ここは危険だ。ラッサに戻るべきだよ」

 「嫌だ。一緒に居る」

 「駄目だ」

 ステファンは近寄ってきたへニアを牽制する。すると、へニアは悲痛に顔を歪ませて肩を落とした。さすがのステファンもこの揺さぶりには惑わされない。ただ、油断は禁物だった。ラッサへ戻ることを約束させる代わりに次の行き先を漏らすのではないかと心配する。へニアの執着は尋常でない。行き先を知れば諦めるはずがない。

 「すぐには戻れないかもしれないけど、ラッサで待っててほしい。でないとトニーも心配するだろうから」

 「村長は死んだ。あの日、帝国軍に殺された」

 「え?」

 へニアはどうでも良いといった雰囲気で淡々と話し、それを聞いたステファンは言葉を失う。

 「半年もそこの女をラッサに住まわせた責任があるって」

 「軍が殺した?」

 「ええ。二人が山に入った日の夜、広場で処刑された」

 「なんて奴らだ!ニーナは?」

 「私が出るときにはまだ。でもラッサには軍が駐屯することになった。今頃どうなっていることか」

 どうもへニアに嘘をついている様子はない。ステファンはというと唇を噛んで拳を握りしめていた。まさか自分が戻ればニーナを助けられると思っているのではないか。へニアの言葉がステファンの弱点に強く突き刺さっていく。

 「私たちは先に進む。それしかない」

 「黙れ!誰のせいだと思ってる!?全部お前が悪いんだ!」

 「へニア、落ち着いて」

 「帝国の奴らは嫌いだ。ここの惨状も見ただろ?何も思わないのか?」

 「へニア!」

 興奮するへニアが肉薄してくる。ステファンが仲裁に入っても瞳孔が開ききった目は私を糾弾し続けた。トニーの話が本当ならば残念だ。クレムスでも多くの人が死に、何の罪もない親子が引き裂かれている。そんな世界を地獄というのだろう。しかし、引き金に触れていたのは私ではない。覚える必要のない罪悪感は心の負担にならなかった。

 「もう一度言うよ。ラッサに戻るんだ」

 「一人で生きろって言うんだ?ステファンの無事を祈りながら軍に怯えて暮らせと」

 「ニーナが心配だ。仲良くなかったかもだけど支えてあげてほしい。悪い奴じゃなかったはず。いつも優しく手助けしてくれただろ?僕が戻るまでの間だけでいいから」

 「そんな言葉信じられない」

 「信じて」

 ステファンがへニアの両手を強く握る。するとその一瞬だけお互いの表情が柔らかくなった。目に涙を浮かばせたへニアはステファンに抱きつく。この気持ちだけは嘘偽りない。引き離すようなことをすれば余計に執着が酷くなると考え、私は静かに腕を組んで待った。

 後方でルサルカの揺れを感じたのは二人が惜しみながら離れた直後のことだった。厄介な魔法師がクレムスにやって来た。時間がないことを伝えようとしたところ、ステファンに甘えていたへニアが目の色を変える。

 「ここでステファンを困らせたって意味ないもんな」

 「ありがとう」

 「早く行って。別れが辛くなる前に」

 「へニアは大丈夫なの?」

 「大丈夫。ラッサにはすぐ戻れる。それより早く」

 「分かった」

 ステファンはもう一度へニアと抱擁してから歩き始める。その後に続いたところ小声で呼び止められる。私たちは足を止めて横目で睨み合った。

 「ヘントに行くんだろ。ラテノンと合流するつもりだな」

 「さあ」

 「ラッサと同じ奴らだ。私が時間を稼ぐ」

 「あの時、助けてくれたのはあなただったのね」

 「私はステファンを助けたんだ。お前のためじゃない」

 「何してるの?」

 私がついてきていないことに気付いて、ステファンが振り返る。先に行っているように合図すると、へニアは舌打ちした。

 「あの日のお礼に助言する。あいつとは戦わない方がいい」

 「ステファンのためなら戦う」

 「相手はヴィルゴ家直属の魔法師。命が惜しくないの?」

 「大切な人を奪われる痛みをお前は知らない。ステファンのためなら命なんて」

 「そう。ご勝手に」

 へニアがどのように命を消費したとしても私には関係ない。本人がそうすると言うなら止める道理はなく、その方が私にとっても都合が良かった。感じた魔法はクラウスのもの。へニアの力量を正確には知らないが、まともに戦えば死ぬだろう。

 もう話すことはないとステファンを追いかける。すると何を思ったのか、へニアが突然私の左手首に掴みかかってきた。お互いにシンタマニを構えて一触即発となる。

 「ヘントで待ってる。街道を使えば私の方が早い」

 「嘘をつくのね」

 「お前には任せられない。そこで返せ」

 「私の方が強い」

 「ステファンに手を出してみろ。この手で切り刻んで殺してやる」

 こんな時でもへニアの言葉は恫喝だった。腕を離された私は足早に立ち去り、へニアは雪原に残った二人分の足跡を魔法で消していく。確かにその型はラッサで介入してきた者の魔法と一致していた。

 「何を話してたの?」

 合流するとやつれた顔のステファンから質問される。本来ならばへニアの言葉を伝えるべきなのかもしれない。ステファンはへニアが魔法師だと気付いていない上に、死を覚悟してクラウスの足止めに向かったことさえ知らないのだ。ただ、最後は自らの正しさを優先する。

 「ステファンに手を出したら殺すって言われた。それだけ」

 「そっか。へニアらしいや」

 ステファンの声に少しだけ力が戻る。どうやらへニアが約束を守ってくれると確信したらしい。この時ばかりは私でさえへニアを憐れんだ。

 サラのもとまで戻った頃、雪が降り始めた。ここからでも大規模な魔法の行使をルサルカ越しに感じ取ることができる。それはへニアとクラウスによる激しい魔法の応酬だった。

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