1. 魔法師エレナ
凍てつく冬の朝、鳥のさえずりひとつない森に雪を踏みしめる音が響いていた。太陽が山の稜線から顔を出したのは数分前のことで、木漏れ日を乱反射した雪原がキラキラと輝いている。昨日の荒天が嘘のように澄み切った青空に息を吐くと、白いもやが真っ直ぐのぼっていく。見渡す限りの銀世界に終わりはなく、強まる孤独感が疲労と相まって体に重くのしかかる。もうこの世界に私は必要ないのかもしれない。そう考え始めると、全てをなげうって横になってしまいたかった。
心が弱った気持ちに侵食されている。首を横に振った私は冷たい空気を目一杯肺に吸い込む。優れた軍人ならばこの程度の感情は制御できなければならない。腰のベルトに吊り下げたシンタマニの柄を握ると、自然と心は落ち着いた。
昨日の吹雪で新雪が膝上まで積もった。その重量がブーツに加わって膝が悲鳴を上げる。それでも、進み続けるためには膝を腰の高さまで持ち上げて、足を前に出さなければならない。振り返ると大股な足跡が一直線に伸びていた。
後ろにもう用はない。そう自らを鼓舞した時、フィールドグレーの物体が曲がりくねった木々の間にちらつく。その瞬間、私は頭で考えるよりも早く顔から雪の中に倒れ込んでいた。こちらの動きに合わせてその物体も木陰に姿を隠したため野生動物ではない。思考を巡らせていると、答え合わせだと言わんばかりに甲高い笛の音が森中に響き渡った。
見つかった以上は隠れていても仕方がない。私は起き上がるなり右手にシンタマニを持ち、左手でその円筒部を回転させて魔法言語を呟く。すると、踏み出した足は雪に沈まなくなって、靴跡も雪面に残らなくなる。振り返ると追手と目が合う。私たちは同時に雪上を走り始めた。
ここは帝国西部、タラパカ自治区の最大都市バイロイトの郊外に広がる原生林である。バイロイトは反体制活動を行うアタパカ解放戦線、通称ラテノンの一大拠点で、ここまで逃げてきたのも彼らと接触するためだった。しかし、帝国軍もそう簡単には見逃してくれない。後方からは二人の魔法師が迫っている。ここ一週間まともな食事を取っていないこちらの方が体力面で分が悪かった。
「エレナ・ヘイカー!直ちに降伏しろ!」
そんな声が聞こえるや否や、背後でルサルカの濃度が高まる。察知した私もシンタマニを後方に突き出してルサルカを放つ。殺した感触は一人分だけだった。ただ、そんな失敗を悔やむ間もなく、右方向から新しい殺意が湧いて出てくる。やむなくこの場での排除を決断した。
「なぜ同志を殺す!?この裏切り者!」
立ち止って振り返ると中年の男にシンタマニを向けられる。胸元に刺繍されたエンブレムは佇む乙女をかたどっており、襟元のバッジと合わせてヴィルゴ家の国家警備魔法師だと分かった。同志と呼ばれたのは、エンブレムの形は違えど身に纏う服装が同じだからである。
側面の追手もじりじりと距離を詰めてくる。魔法師同士の戦いでは相手に心を読まれてはいけない。目の前の二人もそれを分かっているはずだが、震える手でシンタマニがカチャカチャと音を立てていた。
「赤の大広間の英雄がなぜ」
一人が悠長に話し始める。その隙をついて魔法を放つと、男は胸に手を当ててその場に崩れ落ちた。もう一人が慌ててルサルカの濃度を高めるが、その一挙手一投足が遅い。最後はこの男も故郷から遠く離れた地で命を落とした。
敵を排除して再び走り始めた私だったが、周囲の笛の音はその数を増していく。先の三人は斥候に過ぎず、今度は左手奥を流れる川からの攻撃だった。先程に比べて洗練された魔法が金色に輝く一粒のルサルカとなって飛来する。それを弾いてみせると間髪入れずに別のルサルカに襲われる。この魔法の型は知っている。息の合った攻撃は私に進路変更を強要した。
追手はクラウスとその弟子カタリナだった。二人ともヴィルゴ家直属の魔法師であり、特にクラウスとは同郷なため魔法の癖が似ている。負けたことは一度もないが、明日もそうあるためにはこちらが引くしかない。
再び右方向でルサルカの濃度が高まる。これが罠だとしても走り続けるしかなかった。筋肉はすでに悲鳴を上げていて、魔法でどうにか持ち堪えている。隠れる場所もなく、戦いの果てに生き残る確率は低い。それでも軍人としての自覚がある限り諦めはしない。
右側の圧力が強まって魔法で対処すると、その隙を狙ったクラウスの魔法に襲われる。それを掻い潜りながらさらに数人の敵を葬ったところ、突然目の前に開けた空間が現れた。左側を流れていた川が湾曲して森を横切っており、気付かない内にその上に出てしまったのだ。川には分厚い氷が張っているがほとんど積雪していない。走りやすくなったのは追手も同じでとうとう追い詰められた。
「手を出すな!」
馬に乗ったクラウスが対岸から回り込んでくる。自分が決着をつけると言わんばかりに他の魔法師を制止すると、乱暴な攻撃を繰り出してきた。一つ一つはルサルカの濃度が単に高いだけである。しかし、クラウスの顔は羨ましいほどに健康的で私は防戦を強いられる。
多くに見守られつつ、私は次第に川の中央へと後退させられる。クラウスを殺す切り札は幾つか持っている。しかし、それを実行に移す前にドスの効いた声が割り込んできた。
「クラウス、下がれ」
「グスタフ様、こいつは俺が」
「下がれ」
命令されたクラウスは露骨に舌打ちをしてカタリナの隣まで下がる。命を救われたと気付いていない様子から、あと数年は魔法師としての序列は変わらないだろう。しかし、それを喜んではいられない。暖かそうな毛皮のコートを羽織った大男に気持ちの悪い笑みを送られる。白髪が目立ち、顔に入るしわの数も増えたが、その強大な雰囲気は何一つ変わっていなかった。
「久しぶりだな、エレナ。なんだかやつれた顔をしている。王宮でいばり散らかしていた頃とは大違いだ。とはいえ、幼さが抜けて立派な魔法師の顔になった」
睨み合いが続く。グスタフはまだシンタマニを構えていないが、クラウスを相手取るのとは訳が違う。この男は名実ともにヴィルゴ家最強の魔法師であり、私であっても命を賭けなければ対等に戦うことができない。周囲の敵はどんどんと数を増やしている。そこにはグスタフの右腕と評されるリビオの姿もあった。
「お前たち、この女が赤の大広間の英雄だ。これまでに葬り去った魔法師は今日死んだ者を加えて50人は下らない。見かけによらず残虐非道な奴だが、とうとう追い詰めた」
「その一人に加えてあげようか」
「英雄と力比べ。面白そうだが、それは返事を聞いてからだ。何しろ寛大な皇帝陛下は逆賊となったお前を許してやってもいいと仰っている。どうだ?また王宮の出世街道に戻りたいだろう」
グスタフの言葉に周囲の魔法師がどよめく。特に感情を露わにしたのはクラウスだった。ただそれも無理はない。お互い、何ヶ月もかけて首都ライネからはるばるこんな西方まで死闘を繰り広げてきた。戦死したヴィルゴ家の魔法師は両手に収まりきらず、弔い合戦の様相を呈していたのだ。とはいえ、皇帝コールサックの言葉に文句をつけるなど誰にもできない。
「条件はある。そうなりたくばウタラトスの居場所を教えろ。不倫の末に生まれた醜い子供だと皇帝はお怒りだ」
「断る。私はウノカイア様の命に従う」
「これはハイドラ家の総意だ」
「では連れてこい。お前の言葉は耳障りなだけ」
「気品のない奴だ」
頬を吊り上げたグスタフがコートからシンタマニを取り出す。宝石で装飾されたそれは数えきれない命を吸って黒光りしていた。巻き込まれてはかなわないと周囲は下がっていく。向かい合った私たちはお互いに視線を重ねるだけで微動だにしない。今一度呼吸を整えた私は精神を統一させた。
高位な魔法師同士の決闘では、些細な心の揺れや気の迷いで勝敗が決する。基本的にルサルカの乱射は起こらず、より深く相手の心を読んだ者が最後まで立ち続けられる。こんな緊張感は滅多に味わえない。グスタフのような帝国の五大魔法師と戦うことは初めてで、今までになく死を意識した心は否応なしに踊った。
「エレナ、お前は特別だった。まるで魔法そのものが見えているかのようで、そのからくりを最後まで知ることができなかったのは残念だ」
グスタフが一歩踏み込む。その瞬間、品のないシンタマニからルサルカが飛び出てきた。金色に光る粒子は今までに見たどれよりも小さくて速い。それでも目で捉えることができた時点で私の勝ちだった。私の戦い方は教科書とは異なる。先に正確な魔法を繰り出した方が勝つのではなく、相手の魔法を観察し、最も適した対抗魔法を撃ち込むことに真髄がある。
グスタフが初撃で放ったルサルカは魔法として意味を持たない囮だった。目的はかく乱のようで、見切った私も魔法を組み立てる。さすがに躱す余裕は与えられなかったが、それでもグスタフの死を確信する。
そうして初撃を体に受けた瞬間のことだった。突然、全身の筋肉が言うことを聞かなくなり、私は地面に膝をつく。一方のグスタフは私のルサルカを受けてなお平然と立っていた。よく見てみるとシンタマニに装飾された宝石の一つが砕け散っている。
「英雄とはいつの世も孤独な死を遂げるものだ」
今度こそ殺傷性のルサルカを感じ取る。ただ、対抗しようにも体力が残っていなかった。グスタフの初撃には何か罠が仕掛けられていた。シンタマニにも小細工があったようで、それならばと私も切り札を使う。
この魔法は祖母に教えてもらってから初めて使う。しかし、私に限って失敗するはずがなく、魔法が発動すると同時にシンタマニが淡い光を放って大爆発を起こした。大きな音とともに結氷した川面に大穴があく。爆風にあおられて、私の体は氷の破片とともにその穴から仄暗い川の底に沈んだ。
大河にもかからわず濁った水の流れは速い。急速に体温が奪われる中でぼんやりと見えたのは、こんな環境でも流れに逆らって泳ぐ魚の群れだった。魔法で負けたのは師匠との決闘以来だろうか。落ちた穴から離れていくと光は届かなくなる。しばらくしないうちに私は意識を失った。