3 0日目
キラキラキラ
シャンシャラリ
現実には聞こえるはずのない『高貴そのもの』を表現する音が、レイノルドが息をする空間を確かに満たしていた。
立派なお屋敷の内装にふさわしい、質が良く、手入れの行き届いた調度品の数々。
自身の顔が反射で見える程に磨かれた石張りの床、曇り一つないガラス窓。
視界に映り込む外庭には、丁寧に整えられた緑の植木がずらりと立ち並んでおり、ところどころ、季節の花が上品に彩を与えている。
計算された完璧な美しさに、レイノルドがほぅ、とため息を漏らしていると、その背筋を思わず伸ばしたくなるような、凛とした声で名を呼ばれる。
振り向いた先には、茶色のくせ毛を後ろに撫でつけ、その高身長と逞しい身体を余すことなく漆黒で覆った上司が、風格を感じさせる立ち姿でレイノルドを待っていた。
この屋敷で唯一の先輩執事である上司は非常に厳格な方だが、平民のレイノルドに対しても他と変わらぬ公正な評価を下してくれるような尊敬に値するお人だ。
その他にも、共に業務をこなす同僚たちは皆親しみやすく、同時に非常に有能な者揃いで、
やる気に溢れる彼らに影響されたレイノルドも、日々執事としての奉仕の感情を奮い立たせられていた。
―――そして、主人は。
いつの間にか向かい合っていた、彼の御方の赤い髪が揺れる。
「臨時で、なんて俺が馬鹿だった!! こんなにも主想いで優秀な執事、世界中に二人と居ない!!」
彼は興奮した手つきでおもむろに俺の手を掴み、両手で胸の高さにまで掲げると、
「レイノルド、どうか俺の執事になってくれないだろうか? 無論、今度は臨時などではなく…、
一生を、この俺に捧げると誓ってくれ。」
まだ出会ったばかりであるというのに、その琥珀色に煌めく瞳にレイノルドだけを映した主は、熱の籠った真摯な声で切願する。
そんなの、勿論答えは――、
「…しょうがないれすね…、フフ、そこまでいうなら……、……、……あ?」
目に映るのは、鮮烈な赤ではなく、目に優しい、まだ見慣れない白い天井。
寝起き特有の倦怠感と、僅かにカーテンから漏れる淡い光、チチチ、と優雅に歌う小鳥の囀りを聞いて、ようやくレイノルドは理解した。
「夢かよ…」
夢は深層心理の願望を見せるとも言うが、まぁ今回の夢に限って言えば、少し気恥ずかしくはあるがあながち間違っていないようにも思える。
レイノルドは、名残惜しさも感じさせない動きで素早くベッドシーツの中から抜け出ると、すぐさまこの使用人部屋に備え付けられているクローゼットを開いた。
そこには、まだ誰も袖を通していない新品の執事服が複数着、使用される日を今か今かと待ちながら仕舞われてある。
心の底からじんわりと湧き上がってくる高揚感に、思わずレイノルドの口元が緩み、そして数秒でキュッと引き締まった。
そう、俺はついに今日から、『執事』として雇われることになる。
臨時という、期間に制限があるのが残念なところだが、あの有名なルイス・マクレーン様のお屋敷で、一時的とはいえ執事として働いたという経験は無駄にはならないはず。
それにもし働きが認められれば、どこか次の就職先を紹介して下さる可能性も無きにしもあらずだ。
レイノルドはグッと両拳を握りしめ、鼻息荒く気合を入れなおす。
そして素早く窓を開け、新鮮な朝の空気を部屋に満たしながら、無駄の感じさせない動きでテキパキと身支度を済ませると、先日指示を受けていた集合場所へ向かって心なしか軽やかに歩みを進めた。
身にまとった白と黒の服が視界に入るたび、レイノルドの気分は上向く。
自分にとっての初めての主、初めての職場、そして初めての同僚。
子供のころから願ってやまなかった理想が、今現実になろうとしていることに、無意識に鼓動が弾む。
ああ、まるで夢のような―――、
「ルーイスー様ー! おはようございまーーっす!」
突如聞こえた思考を吹き飛ばす大声に、先ほどまでやや浮かれ調子でいたレイノルドの表情が、一瞬にして感情を削ぎ落としたものに変わる。
屋敷の外、朝露が煌めく庭にて、早朝に似つかわしくない大音声を出す男が一人。
牢獄かと言わんばかりに、鉄格子でがんじがらめに閉ざされた一室の窓に向かって叫ぶ彼は、腕まくりをしたワイシャツと黒のベストをだらしなく身に纏い、首に金属製だろうか、使用人の制服には全くもって似つかわしくない武骨な見た目の黒い首輪をつけていた。
「ぐー……」
今度は屋敷内から聞こえた音に、レイノルドが表情を変えないまま殊更ゆっくりと視線を向ける。
正に今向かおうとしていた廊下の先、いびきをかきながら堂々と床に仰向けになって眠っているのは、清潔感の無いくせ毛の寝乱れ髪をそのままにした高身長の男。
レイノルドは咄嗟に歩みを止めた。
「ランドルフさん、レイノルドさんが来る前に軽く机と床の埃を水で流しておきたいので、そこをどいて頂き、―――あああ!!」
使用人の集合場所に指定されていたキッチンから、水の入ったバケツをえっちらおっちらと重そうに抱えて顔を出したのは、金色のショートカットが眩いメイド服の佳人。
床に寝そべった男、ランドルフに声をかけようとかがんでバランスを崩したのか、バシャン!!と派手な音を立てて、そのまま男の身体全体にバケツ内の水をぶちまけてしまった。
「わあああ!! すみませんすみません! 今すぐ拭きまっ、」
―――ガッシャーーーン!!
慌てたメイドが、拭くものを持ってこようと急いで室内に戻ったが、廊下に居るレイノルドからは見えないそこでも何かあったようで、固いものが一斉に破壊される音と、それに重ねられた謝罪の言葉が屋敷内に響きわたる。
「ルイス様ぁーー!!」
「ぐーー…」
「あああーー!! すみませんーー!!」
飽きもせずに朝っぱらから屋外で主人の名を呼び続ける人に、頭から足先まで水を被っているにも関わらず、未だ深く眠り続ける人。床に水やら何やらを盛大にぶちまけ、どうしようも出来ずに涙目で謝罪を繰り返す人。
そうだ……、
今朝は思わず現実逃避してしまっていたけど、これがこの屋敷の実情だった。
混沌を極めた眼前の光景にレイノルドは遠い目をして、昨日の出来事に想いを馳せる。
―――ああ、俺の理想の執事生活、どこ行った?
***
ルイスから執事として雇っていただけるとの言葉を頂いたその日、てっきりレイノルドはこのまま屋敷へ向かわせてもらえるものと思っていたのだが、
ルイスの傍でレイノルドを静かに見つめていた執事の「諸々の準備が必要です」との提言により、翌日へと繰り越すこととなった。
そうしてあくる日の早朝、卒業時から随分世話になっていた宿泊先を出たレイノルドを待っていたのは、先日と変わらぬ出で立ちで立つ、件の執事。
と、その背後には、
――ルイス・マクレーンその人を代表する、偉大な発明品の内の1つ、自走する馬車として有名な最新鋭の魔法道具、『自動車』が、重厚な存在感を放って鎮座していた。
硬質でつるりとした黒塗りの鉄の身体は、誰をも圧倒させる近寄りがたい雰囲気を纏っていながら、それと同時に、どうやっても抗えぬ凄まじい魅力を有している。
レイノルドは心ここにあらずな様子で、光に惹きつけられる羽虫のごとくふらりふらりと車体に近づくと、その高潔な姿を瞬きひとつせずに凝視した。
自動車を見るのが人生初というわけではない。実際に、貴族の友人がたまに登校に利用していたものを彼の厚意で見せてもらったこともあった。しかし、その当時はあくまで鑑賞するのみで、自分には到底縁のない乗り物だという意識を強めることしか出来なかった……その、自動車が……、ここにあるということは…っ!?
レイノルドがやけにキリリとした神妙な顔のまま背後の執事を振り返ると、彼は若干引き気味の目を隠そうともせず、静かにレイノルドを見返した。
しかし今はそんなことを気にしていられるような精神状態ではない。この胸を占める昂りが、期待感が、真実の物か否かそれだけを確かめたくて仕方がなかった。
「今、コレ、のる」
恐れ多くも、小刻みに震えるひとさし指で前方の乗り物を指し示しながら、レイノルドの興奮をそのまま表したような、文章の形など成さない単語の羅列のみが口を付いて出る。
ともすれば何か法外な薬に手を出しているようにも見えるそんな危ない人間に対して、眼前の執事は冷静に一度頷くと、おもむろに助手席の扉を開け、レイノルドの乗車を促した。
正直に言って、そこから屋敷に到着するまでの詳細な記憶は、俺には無い。
ただ、初めて乗り込んだその車内は外の風を全く感じず非常に快適で、それなのにもかかわらず、人間が走る何倍ものスピードで周囲の景色が通り過ぎて行くという事実に衝撃を受けたこと。
初めての体験に身体を強張らせるレイノルドとは対照的に、淡々と運転をこなすくせ毛の執事の横姿が、昨日出会った時から腕っぷしが強くて既に格好良いと思っていたのに、更にその上限を超えて、もはや後光が差しているようにすら見えてきたこと。
自分も自動車の運転が出来たら絶対に格好いいな、とあり得るかもしれない未来を想像して悦に浸ったこと。
そんな幸福まみれの断片的な記憶だけを残したまま、気が付けば結構な距離を進んでいたようで――。
時刻は昼前。
いつの間にやら自動車は屋敷内の駐車スペースに止められており、レイノルドの足は再び固い土の地面に戻ってきてしまっていた。
レイノルドの心情を慮る様子も暇もないと言った風な、長い足故の大きな歩幅で颯爽と前へ進む執事に置いて行かれないように、レイノルドはまだ余韻が抜けきらずにふわふわとする自身の足元を無理矢理動かした。
*
王都の賑わいから随分離れた辺境に、大きく、やや古風な出で立ちのその屋敷はあった。
車を名残惜し気に何度も振り返り、別れを告げていたレイノルドは、くせ毛の執事の先導の元、恐らく客室だろうか、向かい合わせの革のソファーが2つと、その間にローテーブルが置かれている落ち着いた内装の部屋へと案内される。
促されるまま、底なし沼のように柔らかいソファーに腰かけたレイノルドは、此処で待っていればルイス様がいらっしゃるのかな、と緊張感にかすかに身体を居心地悪くさせながら、何やらテーブル上で小包程はある四角い物体を弄る執事を見つめていた。
そうして、
「ルイス様」
彼がその四角い物体に向かって言葉を投げかけたかと思うと、
『――ザザ――――ああ、来たか』
聞き慣れた声がこの一室に響きわたった。
驚きと同時に、レイノルドは部屋の出入り口を即座に確認するが、かの御方の姿を確認することは出来ない。
ルイス様は目の前に居ないのに、声だけははっきり聞こえるという今の状況に理解が追いつかず、レイノルドは助けを求めるように四角い箱のすぐ傍に控えている執事に視線を向けた。
「あの…、」
「遠隔での通話を可能にする魔法道具です。 そのまま声を出していただければ、自室にいらっしゃるルイス様との対話が可能です」
「な、なるほど…」
流石稀代の発明家、ルイス・マクレーン様のお屋敷!
お茶出しのごとく軽率に出てくる魔法道具に内心度肝を抜かれながらも、レイノルドは納得を示す返事を返した。
ふと、遠い場所からの連絡というのならわかるが、何故自室からわざわざこんな魔法道具を…?との疑問が頭をよぎったが、それを追求するのは今じゃないだろう。
レイノルドは、実際に主人を前にした時のように腰かけていたソファーから立ち上がり、一つ咳ばらいをした後恭しく腰を折った。
この前は結構砕けた話し方をしてしまったからな。
本格的な雇い主になるんだったら、言葉遣いも丁寧に――、
「改めまして、レイノルドと申します。 この度は――」
『そういうのはいい。 早速本題に入りたい』
最初が肝心と思ったが故の気合の籠った挨拶を、淡々とした声に遮られてしまい、レイノルドは出鼻をくじかれたように動きを止めざるを得ない。
どうやらルイス様は、礼儀よりも効率を重要視される方みたいだ。
『お前には、今から10日後の来客対応をして欲しい。 俺からの要求はそれだけだ。 足りないものがあれば用意させるし、勿論その間の給料も払う。 とりあえず、相手方に失礼のない対応が出来るように準備を進めろ。 それ以外は勝手にしてくれていい』
「承知いたしました。 一点、質問を許していただけますか」
『何だ』
「お客様の人数などは、」
『1人だ』
「かしこまりました。 精一杯お役目を果たさせていただきます」
10日か…、思ってたより短いけど、執事として雇ってもらえるだけありがたい。それに、来客応対ならそんなに特別なことじゃない。俺でも問題なくこなせる仕事だろう。
――でも、何故そんな珍しくも無い業務内容でわざわざ新しい人間を雇うんだ?
執事が居ないというわけでもないし、来客も1人と少ない。十分何とかなりそうなものだけど…?
思考の途中で聞こえた、『他に質問は?』というルイス様の問いに否を返すと、
『ランドルフ、屋敷の案内をしてやれ』
「かしこまりました」
くせ毛の執事相手にルイス様が一言残した後、プツリと呆気なく通話が切れた。
はあ~、近くに居ない誰かと会話できるなんて不思議な感じだ。
物言わぬ箱に戻った魔法道具を、レイノルドが感心しながらしげしげと眺めていると、既に出入り口の扉を開けて待機する執事に室外へと促される。
速足でそちらに向かうと、レイノルドは高揚に胸の鼓動を速めながら彼に向かって丁寧に頭を下げた。
「あの、レイノルドです。 短い間ですが、ご指導の程よろしくお願いいたします」
昨日も今日も、俺が見る限りではこの人が最も主人に近い場所に居る執事だ。
ほぼ確実に、この屋敷内で上位の立場の方だろう。
――ということは、きっと俺の、初めての上司だ。
「…ルイス様のお屋敷の執事を任されている、ランドルフ・テイラーです。こちらこそ、…お世話になります」
「?」
執事――ランドルフは、出会った時と変わらない、どこか男の色気を感じさせる物憂げな表情でレイノルドを見やり、緩慢な動作で軽くお辞儀を返した。
お世話になるのは、どちらかと言えば俺の方では?
すこし引っかかる言い方にレイノルドは頭をひねったが、「屋敷の案内の前に他の使用人を紹介します」と移動を始めたランドルフに、些細なことかとその思考をかき消す。
そして、スーツで着痩せし、スラリと一見細身に見える彼の背中を見ながら、レイノルドは昨日から今日までの『ランドルフ・テイラー』という人のことを少しだけ振り返った。
武器の一つも無しに、危なげなく悪漢を一掃できるほどの身体能力と戦闘センス。力任せなだけかと思えばそうではなく、冷静な挙動と洗練された動きを節々から感じ取ることが出来る。それにあの完璧な自動車捌き!!
少し接しただけでも、彼が物凄く有能な方であるということは理解できた。
一緒に働ける時間は多くないが、出来るだけ学ばせてもらおう。
レイノルドは自然に弧を描く口元をそのままに、今から対面する同僚はどんな人だろうか、と更に期待を募らせる。
――ひとつ、思うことがあるとするなら、此処が、どうにも静かすぎるということくらいだろうか。
客室にたどり着くまでも、そこから出て歩いている今も、当然だがレイノルド相手に出迎えなどあるはずが無く、1人としてランドルフ以外の使用人の姿を見かけることは無かった。
聞けば、この屋敷に住んでいるのはルイス様ただ一人らしいし、それならば使用人の数が少ないのにも納得なのだが…。
自分と、前を歩くランドルフの足音のみが響く静寂な空間に、それだけでは説明できない空虚さを感じたのが
ただの俺の気にしすぎであればいいと、そう思った。