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何をやるにも必要以上に目立つ赤髪が、眼前でちらちらと揺れていた。
身にまとった外套が必要以上に広がらないよう、腹部あたりで左右の布をくしゃりと握りしめながら、その男は見たことも勿論通ったこともない道を、目的地も無いままにひたすら駆け抜ける。
普段からの運動不足が祟って、少し走るだけでぜえぜえと勝手に乱れる呼吸を忌々しく思いながら、咄嗟に目についた建物の陰に飛び込んだ。
すぐさま壁に背をつけ、必死に酸素を求めようとする身体を無理矢理押しとどめて、出来るだけ気配を察知されないように息を潜める。
自身の激しい心臓音だけが、耳にやかましく響き渡っていた。
横目で今しがた通ってきた道を観察していると、数十秒後に到底常人には出せないであろうスピードで通り過ぎていく4…、いや、5人の人影を確認できた。
彼らの姿が小さくなっていくのをしっかり見届けてから、詰めていた息を思い切り吐き出し、そして肺いっぱいに吸い込む。
「はぁっ、…はぁ、」
差し迫る命の危機からの緊張が解けた瞬間、どっと身に感じる疲労感に身体の力を抜かれ、背にある壁に全体重を預けた。
今のうちに、持ってきていた通信用の魔法道具で連絡を取ろうと、道具を仕舞っていた上着のポケットに手を差し入れる。
――がしかし、自身の手は何の障害物に触れることもなく、行き止まりにある布の底を這った。
「……、」
無い。
バッと勢いよく外套を捲り、ポケットの布地をやや乱暴に引っ張り出す。
間抜けに飛び出した布だけのそれをしばし凝視して、男は片手で髪をくしゃりと掴んで頭を抱えた。
信じたくはないが、まさか、落としたのか?
…だとしたら、先ほど通りで誰かとぶつかった時だろうか。
前々から物を良く落とす癖はあったが、こんな時にわざわざそれを発揮せずとも良いだろうと、ガックリ大きく肩を落とし、しかしそれからすぐさま次の行動に思考を巡らす。
奴らはあの道の先に自分が居ないと分かれば、必ず元来た道を戻って探すだろう。
よって、魔法道具を取りに戻るのはリスクが高すぎる。
それに既に誰かにかすめ取られている可能性も大いにある。
…それなら、どうする。
―――男が思考する、その視界の端で何かが動いた。
「…っっ!!」
考える前に足を動かしたのは正解だったようで、さっきまで立っていた場所が小さく抉れているのを認め、背筋がサッと冷える。
視線の先に見えたのは、恐らく手分けして自分を捜索していたのであろう、2人の刺客達だった。
「(戻ってくるのが早すぎるだろ!優秀だな!)」
心の中で、命がけの追いかけごっこをしている連中を嫌み交じりに称えていると、奴らは走り出した獲物を背後から撃ち抜こうと狙いを定めてくる。
比較的薄暗く、視界も、足場も悪い通路を意識的に選んで男は必死に走った。
手に持つ武器は見なくてもわかる。
無音で小さく凝縮した魔力弾が発射される、コンパクトな魔法道具だ。
外れた魔力丸が、ドシュ!ドシュ!と足元の地面や、近くの壁にぶつかる音だけが静かに響くが、それも自身が地を蹴る音と比べれば全く気にならない程に小さな音であった。
ああ、そうさ。
悔しいことに、その性能を自分が一番良く知っている。
バシュ!
「…ぃっ!!」
右腕を軽く魔力弾が掠り、その焼け焦げるような熱さに思わず声が出た。
次第にジクジクと増す痛みを意識しないようにしながら、ただひたすらに足を前に動かす。
――段々狭く、細くなっていく通路が、自身が追い詰められていく様子を示しているようだった。
足を動かしているのに、頭の隅で積み重なっていく焦りからか、全く前進できていないような錯覚を起こす。
ずっと走っていたから、もう体力も限界だ。
通信機もどこかで落としてしまった。救助は見込めない。
刺客は背後の2人だけじゃない。挟み撃ちにされる可能性も大いにある。
このまま逃げきれなかったら、俺は――、
「―――む゛!?」
悲観的に陰る思考のままに建物の角を曲がった瞬間、突如真横から伸びてきた腕によって口を塞がれる。
そのまま、瞬く間に両腕ごと身体を固定されて、細い路地へと引きずり込まれた。
身の危険を感じ、反射的に身体をよじって抵抗しようとしたその時、すぐ背後の、未だ拘束を緩めない腕の主が耳元で囁く。
「貴方を害する者ではありません、静かに」
安心などではない、得体の知れなさに男が身を固くし、抵抗を一時的に辞めたことを見計らって、腕の主は何かにかけられている大きな分厚い布を引っ張り、二人分の身体を覆い隠した。
埃と土と、少しツンと饐えた匂いのそれに視界が遮られ、動揺して跳ねる身体を再度動かないように縫いとめられると同時、自身を狙う連中の足音が最も近づいたのがわかった。
最悪だ。
得体の知れない不審者に拘束されている状態で、もし今奴らに見つかってしまえば、確実に殺られる。
背後の存在にも、眼前に近づく脅威にも神経を最大限に尖らせて、男は身体を強張らせながら、ドクンドクンと心臓の鼓動を速めた。
呼吸を止め、唾液を飲み込む動作さえ出来ずに、乾いて張り付く喉をそのままにして、彼らの足音に耳を澄ませる。
徐々に遠ざかっていくそれに、自身よりも先に、背後からほっと安堵の息遣いが聞こえた。
それと同時に、両腕を巻き込んで腹部に回されていた腕と、口を塞いでいた手がゆっくりと外される。
拘束が解かれた瞬間、解放された身体を咄嗟に動かし、自身を覆っていた布を払って背後の人間から素早く距離を取った。
直近の脅威から物理的に離れたことで少しの安堵が心をかすめたのか、男は詰めていた息を思い切り吐き出し、己を拘束していた者の素性を確認しようと、警戒しつつ視線をそちらに向ける。
やや薄暗いが、はっきりした視界の中で対面したことで、男はその相手の正体をようやく把握することが出来た。
「手荒な真似をしてすみません。 これを、届けに来ました」
先ほどぶつかった相手であろう、襟付きの白いシャツに、グレーのベストを小綺麗に着こなしたどこか見覚えのある顔の青年は、見慣れた手のひらサイズの魔法道具を差し出して、
人好きのする顔で上品に微笑んでみせた。
***
追手から隠れるために拝借した、纏められた廃棄物の上に雨避けのためにかかっていた布を剥ぎ取って、外套姿の男はレイノルドから素早く距離を取った。
すぐにでも駆けて行きそうな彼に、内心慌てて魔法道具を差し出す。
表情は勿論、養成学校で散々練習・実践した執事然とした上品な笑顔だ。
うん。
口角の角度も完璧。
流石執事な俺。
これで、ゴミ溜めの上の汚い布を無理矢理上から被せたことを、何とかうやむやに出来るはずである。
出来ますよね?
許してくださいお願いします。
男は、ピクリと一瞬反応した後、しばらくの間酷く警戒した様子で自称完璧な執事スマイルのレイノルドを見やっていたかと思うと、ようやく口を開いた。
「いくらだ」
「え?」
「届け物の対価にいくら欲しいんだと聞いている。 さっさと金額を言え。」
「い、いえ、え?そんなつもりではありません! 無料で!」
不機嫌そうな声色で告げられた男の言葉に、意表を突かれたレイノルドの執事スマイルは形を無くし、目を見開いて首を振るしかなかった。
そうして彼に少し近づき、半ば押し付けるようにして魔法道具を渡すと、男はややぎこちなくそれを受け取ってから再び俊敏に一定の距離を取られる。
この場所が日陰で薄暗い事と、頭を深く覆っているフードの陰により表情はあまり読み取れないが、こちらの一挙一動を意識するようにじっと窺った後、何やらその四角い棒を操作してから、自身の服に再度しまい込んだようだった。
やはり彼の私物で間違いは無かったようだ。
心臓に悪いので、今度はどうか衝撃で落ちないところにしまってくださいね…、とお節介じみた言葉を心の中で漏らしていると、路地の入口をチラリと確認した男がレイノルドに向かって素っ気なく言い放つ。
「…早く行け。 見ての通り俺は追われている。巻き込まれるぞ」
「命を狙われているんですか?」
「知らん。
………おい」
男は、動かないレイノルドを咎めるように睨んだ(ように感じた)が、レイノルドにはそれよりも気になることがあった。
一部だけ破れた外套の奥、赤く染まったその腕の傷はまだ新しく、血の量からして嘘でもかすり傷とは言えない状態だ。
レイノルドが傷を見ていることに気付いた男は、咄嗟に反対の手でその部分を隠したが、もう遅い。
「応急処置だけさせてください」
「いらん。」
「血が出ているままでは、逃げる際何かと不便です。 10秒で終わりますから」
知らず知らずのうちに血が滴り落ちて、地面に血痕が残るかもしれない。
思ったより傷が深くて、失血で動けなくなるかもしれない。
血の匂いで居場所がばれてしまうかもしれない。
生憎、高度な治癒魔法なんてものは使えるはずもないので、主に止血と消毒ぐらいしか出来ないのだが、何もやらずに血液を流し続けるよりは絶対に良い。
様々な不都合要素を並べ立てると、男は一瞬たじろいだように息を詰まらせる。
そうして少し考えた後、何かを探すように視線をレイノルドの身体全体に向けた。
「…だがお前、何も持ってな、い――」
男が言葉を言い切る前に、了承の返事を察したレイノルドは携帯していた応急処置用医療キットを出して彼へと近づく。
子供の頭一つ分程の大きさがあるそのキットが、レイノルドのタイトなベスト内からヌルリと出てくる様子は、外部から見るととてつもなく違和感を覚える光景であった。
「っは? おま、今どこから、」
「執事たるもの、簡易医療キットぐらい携帯しているものです」
「いや、それにしては体積が、……執事?」
ギョッとして後退った男に、後退った分だけさらに近づいて「失礼します」とその腕を掴む。
了承を得たとなれば早急に動かなければ。
何せ『応急処置』なので。
男の身体が固く強張ったものの、何をされるか分かっているからか、腕にかかる部分の外套を捲っても特に抵抗されることは無かった。
それどころか、不思議そうにレイノルドの身体と簡易医療キットを交互に見ることに忙しそうである。
執事たるもの、外から見えないよう服の中に様々な道具を携帯することは基本だ。
この基本とは、もれなく「俺の中の」という枕詞が付くものなのであしからず。
だって、一見何も持ってなさそうなスマートな見た目でありながら、いざという時の備えは万全な執事とか、格好いいだろう。
そういう理由で必死に練習したスキルであったため、素直に驚いた反応をもらえたことに、レイノルドは密かに得意げな顔をしたまま、男の服の裾部分を丁寧に折り曲げた。
そしてそんないい気分に任せて、彼の問にも馬鹿正直に口を滑らせてしまう。
「正しくは執事希望の無職です」
「無職」
「あ…、」
自分で言ったにもかかわらず、無職という言葉を復唱されて若干心にグサリと痛みを感じたレイノルドだったが、ぴったり10秒で消毒と止血、そして包帯を完璧に巻き終えることが出来た達成感で、意識的に暗い気分を払拭する。
そしてテキパキと道具を片付けると、応急処置の済んだ自身の右腕を呆然と見つめる男から元と同じくらいに距離を取った。
ふふん。
惚れ惚れするほど均等に巻かれているでしょう。
もっと見つめていて良いんですよ!
彼が果たして包帯の巻き目を見て感動するような人間かどうかはさておき、レイノルドの心の中では、彼は今綺麗な包帯に見惚れているという設定である。
その方が幸せなので、そう思わせていて欲しい。
「助かる見込みはありますか?」
「……魔法道具で助けを呼んだ。問題ない。」
「やっぱりあの落とし物が魔法道具だったんですね。初めて見る形でした。最近購入されたんですか?どんな機能を持ったものなんでしょうか?」
「……」
矢継ぎ早に独り言ともとれる質問を重ねたレイノルドに、魔法道具を狙っているとでも思われたのか、男が半歩後退するのに気づき、一気に我に帰る。
「失礼しました。…ええと、俺、魔法道具が好きで…、あ、自分で購入したりしたことは無いんですが、執事の養成学校にいくつか設置されていて、そこで初めて見たんです。魔法道具。 俺、当時凄く感動して…」
部屋の明かりや、浄水装置により綺麗な水が出てくる蛇口、料理用のコンロ、友人が登校に使用していた、馬に引っ張られなくても動く荷台車など、あげればキリがない。
平民として暮らしているだけでは到底経験することのできなかった、本来魔法使用でしか受けられない恩恵を簡易に使用できるという現実に、当時のレイノルドはいたく心を動かされたのだった。
勿論それは今も同じなのだが。
「俺はあまり魔力量が多くないので、既に魔力が充填された魔法道具には凄く助けられました。 クラスメイトの中には、そのような魔法道具を地位の低いものが使用することを嫌悪する方もいましたが…。」
魔力量が多い者というのは、ほとんどの確率で地位の高い人である。
学生時代、魔法道具が富裕層で急激に普及しつつある現代で、今まで彼らの専売特許であった魔法を平民が利用しているということを気に食わなく思う者も多かった。
しかしそもそも魔法道具は、極論でいえば、魔法の使える人には必要が無い。
勿論、魔力の消費が無くて済むだとか、娯楽のためだとか、他にもいろいろなメリットがあるが、それは別として、だ。
彼らは魔法道具が出来ることは大抵自分だけの力でできるし、魔法でやらなくとも、下の人間に任せれば良いだけなのだ。
そこに何か不便があるはずもない。
それでも魔法道具というものは生み出された。
それは――、
「俺は、魔力の少ない人でも平等に魔法の恩恵を受けられることは、素晴らしい事だと思います。
それに、きっと魔法道具を考案している人は、利益を抜きにして、本当に人の暮らしが豊かになることだけを考えている方だと思うので、凄く好感が持てるんです。」
「……人の暮らしが、豊かに…」
男の、誰に向けるでもない静かなつぶやきがポツリと漂った。
そしてそれきり何も言葉を発さなくなった彼に、まずい…、しなくてもいい、相手が興味もないであろう自分語りをしてしまった…、もしや不快にさせてしまったか、とレイノルドが焦りを浮かべる。
目の前の人物がどれほど高貴な身分の方か把握できず、レイノルドの口調も簡易な丁寧語で収まってしまっている現状だが、(恐らく)最新の魔法道具を所持しているくらいだ。
相当なお金持ちに違いはない。
そして確かに今のレイノルドの発言は、身分の高い方に対する批判のように聞こえる部分もあった。
「お、俺の勝手な想像でしかないんですけど! 実際は高価で、平民には手が届きませんし!」
「……お前、さっき執事希望の無職だと言ったな」
「は、い…」
ははは!と笑ってごまかそうとするレイノルドの言葉をまるっと無視し、男は問う。
それほど時間を空けずに再度聞かされることになった自身の現実を示す言葉が、レイノルドの心を容赦なくグサリと刺激した。
「理由は。無能なのか」
「へっ?……い、いえ!!いいえ!!有能です!!自分でいうのも何ですが、本当に何ですが!執事職認定試験での現歴代最高点保持者は俺です!
……です、けど…、え、と………平民の、出で…」
「へぇ」
「……」
アピール出来るときはアピールしておきましょう、との就職活動時(現在進行形)の反射で、思わず簡潔な自己アピールと、自虐混じりの事実を告げる。
ドキドキと反応を待つレイノルドに向けて帰ってきた声は、感心したようにも、驚いたようにも、興味が無いようにもとれた。
――執事になるために、やれるだけの努力はしてきた。
それで得た自身の技術力を信じているし、これからより学んで行こうとする意欲もある。
しかし能力ではないのだ。
レイノルドの未来を阻んでいるのは、努力だけではどうにもならない部分だった。
「…で?」
「っえ?」
焦れたようにかけられた男の催促の声に、気付かぬうちに下へ下へとと落ちていたレイノルドの視線が一瞬で弾き上げられる。
「他の理由は。 人道に反することが好きとか、性癖が歪んでいるとか、殺人の経験があるとか」
「あ、ありません…!いやいや、平民出なんですよ?」
「それはさっき聞いた」
「へ、平民出で、執事になりたいんです!」
「だろうな」
「…そ、それだけ?」
同じことを何度も言われて、面倒くさそうな態度を隠さない、投げやりな返答が返ってくる。
想像していた何十倍も呆気ないその反応に、レイノルドはすっかり拍子抜けしてしまった。
そして男は、丁寧語でもなんでもない思わずこぼれたといった風なレイノルドの言葉に、「こっちの台詞だが?」と、何故か不機嫌そうに言うのだ。
「……あ、はは…」
じわじわと、胸に何かが温かく広がっていく心地がして、無意識に上から手で抑える。
身体中が酷くくすぐったくなって、口元をむずむずと上向きに動かした。
そうして次の瞬間、
レイノルドは覚悟を決めたように、胸にあてた手をグッと握りしめると、唾液を大きく飲み込んでから、目の前の男に向かって口を開く。
「あの、さっき、落とし物の対価は不要だと言ったんですけど…、――、」
ふいに、目の前の男の顔にかかるフードの影が、一層濃くなった。
それは彼の背後、路地の片側の光の通り道が塞がれたことを示していて――、
レイノルドは弾かれるように手を伸ばし、向かい合っていた男の腕を強引に引いて走り出す。
咄嗟の動作にも拘らず、レイノルドが掴んだのは勿論、怪我をしていない左腕だ。
「逃げますよ!」
「っ、おい!お前は――」
「どうせ顔を見られてるので、今俺だけ逃げても流石に部外者認定してくれないと思います!」
「…っ、チッ、」
予想した通り、路地の入口を身体で塞いでいたのは、先ほどまで男を追いかけていた者達だったようで、逃げるレイノルド達の方へと素早く迫ってくる。
走りぬける際に、あたりに置かれている廃棄物を足で倒し、追走の邪魔をしようと画策するが、彼らが動きを少しも鈍らせる様子はなかった。
人数は二人、片方は魔法道具の銃を発砲し、もう片方は鋭く光る暗器を投げ、こちらの命を狙おうとしているようである。
隣を走る男に向かって飛んできた暗器を、レイノルドがギリギリのところで掴むと、そのまま片手で反転させ、背後に向かって投げ返す。
それは、視界の悪い中にも拘らず、寸分の狂い無く刺客の銃口を貫いた。
うん。完璧。格好良い。
言ってる場合ではないが。
そんなレイノルドの動きを見た隣の男が、あんぐりと口を開けるのが見える。
「なっ、っ!」
「執事たるもの、的当てぐらい完璧にこなせます」
「的、当て…!?」
銃は潰した。
後は――、
レイノルドは懐から、細長い長方形の入れ物を取り出したかと思うと、ケースの中で等間隔に並ぶフォークとスプーンをそれぞれ投げる。
それはキンッと甲高い音を立てて追手が投擲する暗器とぶつかり合い、その勢いを相殺した。
「…何投げた」
「不測の事態に備えて携帯しているカトラリーセットです。 執事――、」
「執事たるもの!カトラリーセットぐらい持つし投げる!そして当てる!もう何でもありか!」
「はい!」
手持ちの道具で何とか相手の攻撃を捌きながら、ひたすら狭い路地の隙間を縫って駆ける。
しかし、このままではらちが明かない。
どうにか、逃げ切る方法を考え―――、
その時、向かっていた通路の終わりに、体格のいい刺客のひとりが立ち塞がり、
外套の男に向かって、まっすぐに銃を突きつけているのが見えた。
咄嗟に彼の身体を押しのけて、レイノルドは前へと身体を乗り出す。
「待っ…!!」
男の制止の声を背後に聞きながら、せめて盾に、と目いっぱい腕を広げた。
しかし、予想した衝撃がレイノルドに襲い掛かる前に、
ドカッ!!
今にも引き金を引こうとしていた刺客が、横からの鋭い飛び蹴りによって地面に激しく倒れ込む。
場所を入れ替わるようにして現れた加害者は、柔らかそうにうねったこげ茶色のくせ毛の下、気だるげな視線を覗かせる背の高い男だった。
しかし、レイノルドが最も目を引かれたのは彼の整った容姿でも、纏う雰囲気でもない。
暗闇に同化する漆黒のタキシードに、清潔な白いシャツ、そして髪色に良く似合う赤茶のベスト。
凄まじい力が蓄えられた筋肉を全て覆い隠し、長い足をよりスラリとスタイル良く見せるスラックス。
唯一の隙と言えるであろう激しい動きに緩められたタイは、血管の浮き出た逞しく太い首を際立たせ、彼をより一層魅力的に見せている。
――そう、その男は、『執事服』を完璧に着こなしていた。
どちらかというと一般人に紛れるような目立たない服装の刺客達とは違い、その整然とした姿はこの薄暗く湿った場所において、強い違和感を伝えてくる。
腕っぷしの強そうな、正体不明のその男をレイノルドが警戒していると、
「…、ランドルフ…」
背後から、恐らく執事服の男の名を呼ぶ声が聞こえてきて、そこで漸く、味方だったかと軽く力を抜く。
件の男は、先ほど蹴り飛ばした刺客が起き上がらないのをすばやく確認してから、チラリと両手を広げるレイノルドとその後ろの外套姿の男を見た。
そして次の瞬間、風圧を感じる程のスピードでレイノルドの真横スレスレを通り抜け、反対側、つまりレイノルド達の背後に居た刺客達にその身一つで殴りかかっていく。
ほぼ一方的に進む蹂躙に冷汗を浮かべながら、執事服の彼が最初に出てきた方向を見ると、飛び蹴りを受けた人間以外に二人倒れており、もしかせずとも残りの刺客全員を既に一人で倒してしまったようであった。
あっという間に二人の敵も問題なく昏睡させた男は、こちらに駆け寄り、レイノルドの横で恭しく頭を下げる。
「遅くなり、申し訳ございませんでした。ご無事ですか」
「…ああ」
「衛兵を呼びましたのでじきに到着するでしょう。奴らの処理は任せて、早急に帰りましょう。ここはまだ危険です。」
外套姿の男の背に、ギリギリ触れないように手を添えた執事は、レイノルドの存在を無いものとして、淡々と男の移動を促す。
一瞬だけ、男が立ち去る前にこちらに顔を向けた気がしたが、結局彼は何も言葉を発しないままゆっくりと背を向けて歩き出した。
行ってしまう。
今別れれば、もう二度と会えないだろうことは、誰に言われずとも直感で理解していた。
行って、しまう。
今いる路地より明るく、光の射す曲がり角に彼らが差し掛かったところで、レイノルドは強く地面を蹴った。
接近する靴音にいち早く気付いた執事――ランドルフは、振り向きかけた男を隠すように背で庇う。
その反応を、二人の主従関係を素晴らしくも少々羨ましく思いながら、あまり警戒させないよう距離を取った場所で
勢いよく 頭を下げた。
固く拳を握りしめ、大きく息を吸ったレイノルドは、刺客が襲ってくる前に男に言いかけたことを再度喉から絞り出す。
「あの!さっき、対価はいらないって言ったんですけど…!
――っ俺、執事になりたいんです! もし、紹介先があれば、俺のことをどなたかに紹介して頂けませんか!?」
学生時代、友人に『努力の仕方を間違えている』と言われたことがある。
『平民出の君が磨くべきは執事としての技術ではなく、誰かに媚びへつらい、人へうまく取り入る方法だろう』と。
心底不思議そうな顔で。
俺はその時確か、心の奥底では『確かにそうかもしれない』と思いながらも、俺がなりたい執事は格好良いものだからと、よく考えもせずに彼の意見を跳ね除けたのだ。
しかし今やっていることは、あの時の自分の返答とは真逆のことだった。
これは、所謂コネというやつである。
純粋に執事としての技術だけを評価されることとはまた違うもので、以前の俺が格好良くないと思っていたことでもあった。
しかし、今までのやり方では、ことごとく雇用を断られてきたし、おそらくこれからもそれは変わらないだろう。
夢を、身分を告げた時の『彼』の反応に、少しだけ背中を押された気がしたんだ。
そんなことでお前は行き詰っているのかと、それすら乗り越えられないお前は超絶格好悪いしそもそも格好いいだとか何だとかでえり好みできる立場じゃないぞ平民!…と、そんなことを言われた気がして…。
うん、絶対に言われてないんだけど。
10割9分俺のあふれ出る想像力の賜物なんだけど。
まあでも、それなら、まだやっていないことは沢山あると思ったのだ。
もしかすると、最初から執事職として雇用してもらうより、いっそ使用人として雇ってもらって優秀さを見せつけ、執事に成り上がる方がよほど現実的かもしれない。とか。
なんせ俺は無視できないくらい優秀で有能だ。
そして今のこの懇願も、そのやっていないことの1つというだけのこと。
指を綺麗に閉じた手を腿につけ、お願いします! と垂直に近い角度で深く頭を下げる、
そんなレイノルドの視界に、男が近寄ることによって翻った質の良い外套の端が見えた。
「……何で、さっき、見ず知らずの俺を庇った」
静かな問いかけに、ゆっくりと頭を上げる。
彼の立っている場所がこちらより明るいからか、今まで見えなかったフードの下の表情が少しだけ読み取れるようになっていた。
俯き加減な赤髪の隙間から、どこか怒ったような、そして悲し気なような、複雑な心情の籠った瞳を揺らしている。
「――、庇うに値する方だと思ったからです。」
レイノルドはその言葉を、例えば昼間は明るくて、夜は暗いといった、そんな当たり前のことを言うような表情で答えた。
その回答以外を考えたところで、特に明確な理由はない。
なぜなら、考えるよりも先に、身体が勝手に動いたのだから。
ギュ、と眉間の皺を深めた男は、一度ため息を吐いてから、小さく「そういうのは嫌いだ。二度とするな」と呟く。
そして背後に控える長身の執事に首だけで振り向いたかと思うと、次の瞬間、驚くべき台詞を吐いた。
「ランドルフ、こいつを連れて帰る」
「「え」」
図らずも、ランドルフと声が重なる。
連れて帰る……って、え?雇ってくれるってこと??
想像もしていなかった言葉に唖然とするレイノルドを尻目に、彼は憮然とした態度でなお続けた。
「名前は」
「……レ、レイノルド、ただのレイノルドです」
「俺はルイス。 ルイス・マクレーン」
男はそう名を告げてから、深く被っていた外套のフードをぐいっと豪快に取り払った。
窮屈な暗闇から解放され、一斉に呼吸をするように散らばったのは、目も覚めるような、赤。
側面から差し込む光に照らされたその髪は、より一層鮮やかに存在を主張し、レイノルドの視線を掴んで離さない。
そして、その赤糸の隙間から覗く、強い意志を感じさせる切れ長の瞳が、
差し込む光と眼前の赤を余すことなく吸い込んで、パチリと火花を散らした。
瞬く間にレイノルドの心臓に燃え移ったそれは、じりじりと導線を伝って胸を焦がしていく。
「レイノルド、臨時だが、俺の執事になれ。やってほしいことがある。」
『ルイス・マクレーン』
それは、今現在この国で最も名を轟かせているといっても過言ではない魔法道具の発明家、そしてかの有名なマクレーンブランドを手掛けるただ一人の人物名だ。
なるほど。彼を見れば、例の赤い意匠文字にこれ以上ない程の意味を見いだせる。
そんな方の執事を、たとえ臨時だったとしても俺が務められるなんて――
昂る気持ちと共に、喉をせり上がってくる歓喜を止めることが出来ず、レイノルドはその感情のままに大きく身を乗り出し、頷いた。
「――っはい!」
了承の言葉が、やや湿っぽい路地裏に響いてこだまする。
レイノルドは今この瞬間、夢へと繋がる大きな一歩を踏み出したのだ。