実験開始
213回目、ぼくは手の中のペットボルトを蓋を開けると、中身を足元の床にぶちまけた。
義父がドスの効いた声でいった。
「てめぇ、人がくれてやったものを。俺に喧嘩売ってんのか?あぁ?」
「そうだよ。喧嘩を売ってるんだ」
ぼくは両手でボクサーのようなファイティングスタイルをとった。
「アホかお前。素手で俺に勝てると思ってんのかよ?」
違う。素手というのがたいせつなのだ。
ぼくの失敗のうち45回は武器になるものを持ったことだった。義父はぼくが見上げるほどの大男だが、毎回、ぼくが得物を手にした瞬間に〝本気〟になった。逆をいえば、こちらが素手ならば、義父はぼくをなめてかかってくる。
「あんたはぼくに勝てない」
義父は過去17回と同じように、左手でぼくの襟首を掴もうとした。狙いは柔道技の払い腰だ。ぼくは14回吹っ飛ばされてうち10回は肋骨と腕の骨を折った。
だが、ぼくは襟を掴みに来ると知っている。
右の肘で義父の手を逸らし、左手で軽くジャブを放つ。ごつんと骨に衝撃が走った。
「おっ」義父がうなり、ぼくと同じようにファイティングポーズをとる。
が、繰り出してきたのはパンチではなく前蹴りだ。
命中すれば、睾丸が一撃で潰れるほどの威力だが、ぼくは前蹴りが来ることを知っている。
冷静に一歩下がってかわし、即座に踏み込んでジャブ。
今度は義父の鼻に命中した。
「てめ」と義父。
彼は両腕を広げ、ぼくを掴もうと踏み込んできた。
ぼくは手を広げると、腰を入れて力の入った右ストレートを放った。
義父の鼻から血が吹き出す。
「ごのやろ」義父が右手でフックを繰り出した。
ぼくは頭を下げてかわすと、またジャブを打った。
ローキックを避けてジャブ。
アッパーを避けてジャブ。
ストレートに避けてジャブ。
二十三発目で義父は崩れ落ち、ぼくは死から逃れた。
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
義父の鞄から財布を抜き取ると、ぼくはマンションを出た。
8月の太陽がじりじりと首筋を焦がす。
アブラゼミの大合唱に混ざって、近所の高校のグラウンドから金属バットの快音が聞こえて来る。
腫れ上がった左拳をさすりながら、駅前まで歩き、ドトールに入る。
カウンターでアイスティーを注文し、二階席の窓際に腰を落ち着けた。
人気は少ない。
ぼく以外の客は、一つ開けた席でパソコンを叩いている女子大生に、隅のソファ席でテーブルにつっぷして居眠りしているOL風の女性だけだ。
エアコンの風が吹き出した汗を冷やし、ぼくはぶるりと震えた。
頭の中で思考がぐるぐる回っていた。
いまの一連の体験は、いったい何なのか。
ぼくは死んだ。
いや、死の淵まで追い込まれ、何度も〝やり直した〟。
アニメや映画でよくある〝ループ〟とか〝リピート〟というやつか?
はたまた、単純なタイムスリップ?
それとも、予知能力?
あるいは、すべては死を間際にした夢に過ぎない?
現実の僕は自室で焼け焦げ、死の淵に追い込まれた脳が超速度で回転し、ドトールにいるという妄想を見せているのか。
自己を保つには、確認しなければならない。
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
ぼくは首を回して、壁のアナログ時計を確認した。
十四時二十三分。
ぼくは手の中のグラスをひっくり返した。
アイスコーヒーがどはどばとズボンを濡らす。
近くに座っていた女子大生が、目を丸くして僕を見つめた。
頭がおかしいのか? といわんばかりだ。
彼女の視線から逃れるには〝戻る〟しかない。
ついさきほどまでの、まっすぐにグラスを持っていた自分にーー。
⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
時間は戻らなかった。
グラスからはポタポタとアイスコーヒーの残り汁が垂れ、足元の床を汚し続ける。
急激に恥ずかしさが込み上げた。
「あー、手がすべって」
わざとらしくいいながら立ち上がる。
早足でフロアの真ん中にあるトレー台に向かい、紙ナプキンをとって、濡れたズボンに押し当てた。
どうやら、任意の時間に戻れるわけじゃないらしい。
我ながらバカみたいな真似をしたものだ。
なにも、アイスコーヒーをこぼす必要はなかったのに。
隣の女子大生の、あの目つき。
じわじわと足に広がる冷たい感覚と、沸き起こる羞恥ーー。
気づけば、ぼくは先ほど立ったはずの椅子に座り、逆さにしたカップを握って、呆然としていた。