213回目のタイムリープ
ぼくは手の中のペットボトルを見つめた。
呼吸が少しずつ速くなる。まだ自分の皮膚か熱で縮れ、真っ黒に焦げていく感覚が残っている気がする。
全身から汗が吹き出していた。
Tシャツがべっとりと肌に張り付く。
義父が不自然な笑みを浮かべた。
「ちょっと新聞をくくったくらいで、やけに汗だくじゃねーか。もっと日頃から運動しておけよ」
彼の目線はぼくの手元のペットボトルに集中している。
まるで、ぼくが飲むのか、飲まないのかが気になって仕方がないようだ。
いまさきほどのことは、夢だったのか?
動かなくなる身体に、廊下から忍び込んでくる真っ黒な煙、焼け爛れる気道。
ぼくの義父への嫌悪が見せた、瞬間的な白昼夢?
それとも、予知夢、あるいはーー。
確認するのは簡単だ。
ぼくはペットボトルをキッチンカウンターに置いた。
「いまは喉が渇いてない」
義父が顔をしかめた。
「はあ? そんなに大汗かいてるのにかよ」
「とにかく乾いてないんだ。これはあなたが呑んでよ」
「めんどくせえガキだな」
義父は舌打ちすると、飛びかかってきた。
ぼくを後ろ手に押さえつけ、引き抜いたベルトで両手を縛り上げる。さらに、新聞をくくるのに使った紐で、ぼくの両脚もぐるぐる巻きにした。
必死に抵抗したが、義父とは体格がまるで違う。ぼくは百六十五センチなのに対し、義父は百九十センチもあるのだ。おまけに、柔道と空手の段持ちだ。
誰か助けて!そう叫ぼうとしたが、声をあげるまえに口に新聞紙を丸めたものをつっこまされ、ガムテープで蓋をされた。鼻からしか息ができない。
「あー、くそ!」義父が頭をかく。ふけがバラバラ落ちた。「これ、大丈夫なのか?あとから外しても、ガムテのあとが、死体から見つかるとかねえのか?」
義父は部屋の隅に置いてあった肩掛け鞄を探ると、なかから注射器とガラス瓶を取り出した。瓶の中には無色の液体が入っている。
彼は床に瓶を置き、注射器で中身を吸い上げた。
「せっかく、ペットボトルに刺したのに、結局こいつにも刺さなくちゃいけねえのかよ。くそ、跡はちゃんと焼けて分からなくなるんだろうな」
首筋にちくりとした痛みが走った。
ぼくは必死にもがき続けたが、1分ほどしたところで急激に体から力が抜けた。前の時と同じだ。脳と体の接続を断たれた感覚。
脳は猛烈に回転しているのに、身体はまったく動かない。体がプラスチック製のマネキンになったかのようだ。
義父はぼくを掴むと、ずるずるとぼくの部屋へ引きずっていった。
前と同じようにベッドに放り投げる。
「それじゃあ、大人しく金になれよ」
それだけ言い残して扉を閉めた。
セリフは少し変わったか?
やがて、壁が暖かくなり、扉の隙間から煙が忍び込んできた。
ぼくの身体が激しくむせる。
爆発音。壊れる扉。吹き込んでくる焔。
窓の外で誰かが悲鳴を上げた。
さきほどと同じだ。
予知夢の通りになったのか? 馬鹿かぼくは? せっかく未来が見えていたのに、何もできないまま終わってしまった。
なぜ、ペットボトルを受け取った時、悠長に義父と会話などしたのか。「喉が渇いていないから、あなたが呑んでよ」?。そんなこという暇があるなら、逃げ出せばよかったのだ。
あのとき、ペットボトルを受け取った時にーー。
ーー気づいた時、ぼくはキッチンにいた。
目の前には薄ら笑いを浮かべた義父。
燃えたはずの新聞紙の束が積み重なり、灰皿にはティッシュの山。そしてぼくの手の中にはペットボトルがある。
どうなっているんだ?
さっきのは予知夢の予知夢だったのか?
それとも、今見ているこれも夢?
まさか、こんなにリアルな夢があるはずがない。
義父がいう。
「ちょっと新聞くくったくらいで、やけに汗だくじゃねーか。もっと日頃から運動しとけよ」
ともかくも、もう一度やり直しのチャンスを手にしたのだ。
ぼくはペットボトルを義父に投げつけると、踵を返して玄関に走った。
だが、義父は恐ろしく素早かった。
猫科の肉食獣のように、あっという間にぼくに追いつき、襟首を掴んだ。
馬鹿でかい拳がぼくの腹を叩く。
ぼくは胃液を撒き散らしながら、フローリングの上で悶絶した。
義父がカバンから注射器と薬を取り出し、またしてもぼくの首筋に注入する。
くそ!だめだ。ぼくは動かなくなった体の中で、ペットボトルを投げつけたことを後悔した。
あのときは、もっと別の行動をとるべきだったのだ。あのときぼくはすべきだったのはーー。
こうして、ぼくはまたしても、ペットボトルの水を飲む直前に戻った。
何が起きているのかは、よく分からないが、もう一度チャンスを得たのだ。
ぼくは、ペットボトルの蓋を捻り、中身をいったん口に入れた後、そのまま飲み込まずにペットボトル内に戻した。
義父からは飲んだようにしか見えなかったはずだ。
三十秒後、彼は効果が現れないことに業を煮やし、ぼくを殴りつけて注射器を使った。なんという短気だ。
ぼくは身体が動かなくなり、また戻ったーー。
今度は、ベランダからの脱出を図った。
が、義父が追いかけてきて、そのまま突き落とされてしまった。警察には、「助けようとしたが、うまくいかなかった」とでもいうのだろうか。
ぼくは地面に向かって真っ逆さま。
空気が激しく肌をなでる。
だが、衝撃が来る前に、再び戻ったーー。
次はキッチンに走った。包丁を手に義父を牽制する。義父は大笑いしながら、ダイニングチェアを持ち上げ、ぼくを叩きのめした。それから、例の注射ーー。
さらに次は、義父の鞄にとびついた。鞄を持ち上げ、床に叩きつける。これは最悪の選択だった。義父はぼくに馬乗りなるとぼくの意識がなくなるまで殴り続けた。いや、正確にはぼくはペットボトルを受け取った瞬間に戻るまでーーだ。
結局、ぼくは義父から逃れるまでに213回目もループする羽目になった。