初めてのリープ
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はじめて時を超えたのは、義父に焼き殺されたときだった。
そのとき、ぼくは自室のベットの上で大の字に横たわっていた。
すでに、扉の隙間から黒い煙が侵入しつつあるのに、手足がまったく動かない。
開きっぱなしの窓の外から、義父が「らいす!らいさす!」と叫ぶのが聞こえた。別に米が欲しいわけじゃない。来寿、ぼくの名前だ。
義父が迫真の演技で吠える。
「誰か!助けてくれ!あそこに俺の息子がいるんだ!」
キッチンの方で轟音が響き、マンションが揺れた。
外から女性たちの悲鳴が聞こえる。
また義父の声。
「来寿!くそ!どうなってるだ!消防車が来ない!なんでだ!たしかに911にかけたのに!」
消防車が来ないのは当然だ。義父は消防に連絡などしていないのだから。
彼は、リビングでぼくに筋弛緩剤入りのミネラルウォーターを飲ませ、ぼくが崩れ落ちると、ほくの目の前で、時限発火装置を組み立てた。
装置といっても、灰皿にティッシュを何枚かかぶせ、周りに古新聞の束を置いただけだ。
奴は床に倒れているぼくを見て笑った。
タバコの染みで真っ黄色の歯がのぞく。
「こんなんでいいのかって思うだろ? へへ、どっこいこれがいいんだよ。教わったんだ。火事ってのは、ようは意図的に起こされたんでなければいいんだよ。俺が雑な性格だってのはみんな知ってる。俺が灰皿にティッシュを何枚か置いてたって、不思議じゃないさ。俺はこの通り、学がないからな。近くに溜め込んでた新聞があるのも、俺らしいだろ? あとは、火のついたタバコを置くだけよ。で、消防に連絡したふりをしながら、外でゆっくり待つのさ」
なんだそのバカな計画は。
ぼくはそういいたかったが、口が動かなかった。
手も足も、指一本動かない。
一方で、頭だけはやたらと冴えてよく回る。
いったいどんな薬をもられたんだ?
義父は臭い息を吐きながら、ぼくを引きずり、ぼくの部屋のベッドにやすやすと放り投げた。いつもながら、たいした怪力だ。
「じゃ、無事に金になってくれよ」
彼はそういうと扉を閉めて出て行った。
5分後には、壁が熱を発し始め、煙が漂ってきた。
で、キッチンの爆発にいたる。
流れ込んでくる煙の量が一気に増した。
口から煙が入り込み、身体が激しく咳き込んだ。
汗が全身から滲み出す。
熱い。とんでもない熱さだ。
身体はまだ動かない。
意思を総動員しても、何もできない。
また爆発。
今度は部屋の扉が内側に吹き飛んだ。炎が入り込み、天井を激しく舐める。壁紙が見る間に黒焦げになり、はらはらと舞い落ちる。
ぼくの脳は激しく回転した。
思い出が次々に甦る。
記憶のなかから、脱出の術を探しているのだ。
これは、いわゆる走馬灯というやつか。
もともと記憶力がいいこともあり、あらゆる思い出が一挙に解放される。
両親が離婚し、母に引きずられるようにして家を出た日のこと。
その母親が身を持ち崩し、のちに義父となる男がタバコをくゆらせながらアパートに入ってきた日のこと。
母が僕を置いて逃げ出した日のこと。
そして、義父が今朝方、ぼくに新聞の梱包を手伝わせた後、薬物入りのペットボトルを投げてよこしたこと。
ぼくは促されるままに、無警戒で口をつけた。
馬鹿だ。あの男がそんな労いの気持ちなど持っているはずがないのに。
煙が部屋を覆い尽くし、もう何も見えない。
熱気がぼくの喉と気管を激しく焼く。
信じられないほどの苦痛がぼくを襲う。
あのペットボトル。
なぜあれの蓋をあけてしまったのか。
今思えば怪しいにもほどがある。
なぜ、あの水色の蓋をひねったのかーー。
そのとき、ふいに熱気が消えた。
「え」ぼくは思わずつぶやいていた。
いまのいままで火に焼かれていたはずのぼくは、突然、リビングに転移していたのだ。あたりは乱雑に散らかっているものの、火の気配はまったくない。
ぼくの目の前には義父が立ち、ぼくの手の中には、あのペットボトルがあった。
義父が汚らしい笑みを浮かべていった。
「手伝ってくれてありがとうよ。飲んどけ」