ギリギリの跳躍
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ぼくは朝食を取ったシティホテルの玄関口に立ち、ぶるりと震えた。
真夏だというのに、全身に鳥肌が立っている。
死を身近に感じたのは久しぶりだ。
いまのはかなり危なかった。
後頭部に手を当て、髪の毛とその下の皮膚、頭蓋骨を感じる。骨は割れておらず、中身はちゃんとおさまっている。
あの衝撃と強烈な眠気、間違いなく脳に大ダメージを喰らったはずだ。脳の〝復元〟を担っている部分が機能したのは不幸中の幸いだった。
復元ポイントへの跳躍が、もう数秒遅れていたら、死んでいただろう。
ぼくは二の腕の鳥肌をさすりながら、街に踏み出した。
時を戻る力がある限り、即死さえ免れれば、ぼくは死ぬことがない。
あとは、あの女の子が飛び降りたビルの下を避ければいい。
お気に入りの銀座ルノアールの窓際席で、学習塾のオープン時間まで、カミュの『異邦人』の続きを読もう。電車で中山競馬場に行ってもいいし、戸田競艇場に足を伸ばすのも悪くない。自宅に帰るのもありだし、今出てきたホテルに部屋をとってゴロゴロしたっていい。
ところが、ぼくの足はさきほどと同じ道のり辿った。
理性では、あの場所には近づかない方がいいとわかっているのに、足が半ば無意識に動くのだ。
なぜ、ぼくは無用な危険を冒そうとしているのか。
ゴミ収集車が排煙を噴き出しながら、ぼくの隣をゆっくりと通り過ぎて行く。
足は早足に、そして全力疾走になった。
なぜ、こんなに頑張って走るのか。
やがて、さきほど死にかけた歩道に差し掛かった。
彼女が落下してきた雑居ビルの非常階段を駆け上がり、錆びついた鉄扉を押しあけて屋上に踏み込む。
屋上には、ボロボロのビジネスデスクが二つ、それに朽ちかけたソファと吸い殻だらけの灰皿が転がっていた。
彼女はぼくの正面、落下防止柵の向こう側にいた。驚いた表情でぼくを見つめている。




