怒りと『ご主人様』
僕は寝相が悪い方だ。気づいたベッドの反対側に移動してたり、ベッドにすら乗ってない時だってある。そのせいで良く寝れたと感じた事なんて滅多になかった。数秒単位で眠気と闘争していた理由の一つだ。
そんな僕でも体験した事の無い位、今日の朝は酷かった。周りは鉄臭いし、何よりベッドが滅茶苦茶固い。コンクリートの上にでも横になってる気分だ。
僕は最悪な朝を迎えながらゆっくりと俗世に視界を戻していった。すると、見知らぬレンガ色の天井や更に強くなった鉄..いや、血の匂いという現実が突き刺さってきた。
そうか..僕は奴隷になったんだった。
この血生臭い空間や、何もない寂しい牢屋、この麻痺した空腹感も、僕が奴隷である事を示す烙印そのものだった。その『烙印』を見せつけられた僕は仰向けになったまま静かにその瞳から涙を流た。
まだこの世界に来てから24時間も経ってないだろう、それなのに僕の心は粉々に砕け散ろうとしていた。僕は何の為にここにいるんだろう、何が目的で生きてるんだろう。そんな日本にいた頃には思いもしなかった暗澹たる思いが広がっていった。
これが鬱と言うやつなのだろうか..
僕はゆっくりと..逃げるようにして『烙印』を突きつけてきた己の瞳を閉じた。僕の視界に映るのは暗闇...とても居心地が良く、授業中よく好んでこちらの世界に来ていた。そんな世界でも今では絶望の色にしか見えなくなっていた。
この暗闇は以前とは対照的に、苦心する事を強要してきたのだ。
僕はこの暗闇の中で、起こって欲しくない最悪のケースをいくつも考えてしまう。それが齎す結果と..未来...
未来?僕にそんな物があるのか?ただの『奴隷』でしかない僕に...
『ねぇ水篠くん!どこの高校行くことにしたの。』
可憐で心地いい、さっきまで味わっていた己の絶念の声よりも遥かに繭に包まれたような..そんな声...
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「あぁ流川さん。僕は花ノ宮高校だよ家近いしね、流川さんは?」
僕の視界に見慣れた黒髪を揺らす少女が入る。少女は小学生だと言っても通用する様なその小さな体で僕に近づいてきた。僕がそう答えると彼女は満面の笑みを浮かべ、目をキラキラと輝かしていた。
「そうなの!?偶然ね、私も花ノ宮高校なのよ!そう家が近いから!!」
教室の一番後ろの窓際の席。多分一番人気があるであろうその席で、僕は襲い掛かる眠気と激戦を繰り広げながら彼女の輝いた瞳をじっと見つめる。
流川さんは何を言ってるのだろうか?家が近いと言う理由なら彼女の家の前にあるバス停から数駅進んだところに別の高校があるのに。
彼女の家から花ノ宮高校まで行くのにはわざわざ僕の家の近くにある別のバス停まで足を運ばなくてはならない。
それなのに家が近いからと言う理由で花ノ宮高校にした彼女が少し分からなかった。でも..そんな疑問点ばかりの彼女の言葉を聞きながらも、僕は何故かほのかな笑みを浮かべていた。自分でも何時からか分からない、ただ気付くと口角が上がっていたのだ。
「そうだ流川さん。これからファミレスでも寄っていかない?あいつらはもう行っちゃったし、二人で。」
僕は基本一人を好む性格だ。そんな僕が気が狂ったのか自分から人を誘った。そんな僕の行動原理は自分でも理解できなかったが、何故か僕は彼女と行きたい..と思ってしまった。
「ごめん...今日は柔道だから早く帰らないと...」
僕が彼女を誘った瞬間、彼女はさっきまで持っていた気力を一気に失い、何処か寂しそうな顔をしながら誤ってきた。それだけ言い残すと彼女は教室を後にした。そんな彼女の瞳は儚く..それでいて精一杯輝を保っていた。
僕は一人、教室の角で洸惚の吐息を洩らす。暫くすると早くなっていた自分の鼓動に気づき、少し落ち着きを戻してから教室を後にした。
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「レンちゃん!!早く起きるにゃぁ!!!あいつがくるニャンよ!!」
耳元から声が聞こえてくる。幼い少女の声だ。一番気持ちのいいタイミングで起こしてくるあたり、奏さんだろうか..
僕は声の持ち主であろう奏さんに心の中で文句を言いながらゆっくりと意識を戻していった。
すると段々と記憶がハッキリとしていった。魂に焼き付いた奴隷の烙印や、あの男の鎖の事。
そして思い出す。奏さんがもういない事や、さっき聞こえてきたケイさんの叫び声。
あいつがくる?奴隷である僕達に誰が何の用だよ...まさか...
考えられる人物はただ一人だった。あの男...姿こそ見たことないが、『奴隷』である僕にとって圧倒的に感じたあの男...恐らくは『ご主人様』という人物だろうか...
僕はこんな状況で吞気に寝ている己を恨みながら、勢い良く起き上がった。
すると聞こえてくる..あの足音が..
わざとらしく鳴り響くその足音からは男の怒りの念が嫌といういう程伝わってきた。
「おい!ちんたらしてんじゃねーぞ!!もうそこまで来てんぞ!!!」
僕が恐怖のあまり体を動かせないでいると、ロットが鋭い目つきでこちらを睨み、手を伸ばしているのが見えた。
僕は咄嗟にその手を掴み、急ぎ柵の前で頭を下げる..もとい、土下座の準備をした。ロットは僕の隣で同じ様な動作を取り、後の二人は確認する暇がなかった。
額を赤く染まった地面につけると、男の足音が止まったのが分かった。
昨日と同じ、固い何かが僕の頭を直撃した。それはコロコロと床を転がり、僕のすぐ隣で止まった。
僕は頭を直撃した何かを尻目で確認すると、それは案の定...あの固パンだった。
嘘でしょ..これじゃぁ一日に必要な栄養素の10分の1も摂取出来ない...もし、こんな食事が続いたらその内死人が出る..
僕は一人、そう考えると居ても立っても居られなくなってしまった。まだ出会って1日程度しか経ってないが、皆悪い奴じゃなさそうだし。同居人が死ぬなんて耐えられない...
「あの..」
僕は意を決し、恐る恐る地面に付けていた頭を持ち上げた。すると、そこにはこの世界に来て初めて見るきちんとした服装の..いや、それ以上の服装を着た男が目に入った。その男は予想通り30代後半位の顔立ちでかなり太っていた。不健康そうなその肉体を覆う様にして飾れた金色に輝くベルトやその他のアクセサリーは長い間暗闇の中にいた僕に取っては眩し過ぎるものだった。
でも僕は目をそむく訳にはいかなかった。ここで諦めればまたいつ来るか分からないし、このまま放っておいたら栄養失調で誰かが死ぬ...
そう思いながら男と目を合わせると、そこには怒りを露わにした男の姿があった。眉間にしわが寄り、歯ぎしりをしている男の姿が...
僕は一瞬そんな男に怯んでしまった。再び覚悟を決め男に目を向けようとすると、横にいたロットが蒼白な顔をこちらに向けているが分かった。
だが僕はそんな事は気にしなかった。というか想定内だ。
「このままじゃ栄養失調になって皆...」
僕が最後まで言い終える前に、誰かに頭を地面に押し付けられてしまった。一瞬あの男かと思ったが、柵は開いていないし、その手段をあいつは持っていない。だとすると残された可能性は一つ..
「すみません!こいつ、ここに来たばっかで!何もわかってなくて!!俺がきちんと見てやれなくて!!」
後ろからロットの叫び声が聞こえてくる。その声は震えており、何時も強気なイメージがあるロットからは信じられない様な叫びだった。
「貴様ァァ!奴隷の分際で我にその汚らしい顔を向けるとは!!!どういう事か分かっているのか!!!」
「はい!!すいません!!仕置きは俺が受けます!!こいつは後で俺が教育しておきます!!」
男の憤懣遣る方無く苛立ってるような叫び声が響き渡る。しかし、ロットはそれに屈する事無く、その声に続いて抵抗する。
僕には彼らが何の話をしているのか全く理解できなかった。いや、この状況は容易に想像する事ができたはずだ..通る度に苛立ちを露わにするような奴に口を開いたんだ。『奴隷』という身分で。
それも相当金持ってそうな奴だ、外でも相当な権力を持ってるんだろう。
「貴様がここの責任者か!!出てこい!!貴様の体に『奴隷』というものを刻み込んでやる!」
そんな男の声と共に、柵が一気に動かされる音が響き渡った。すると、さっきまで感じていた..僕を守る様に包み込んでいた気配が少しずつ無くなっていくのが分かった。
スタスタと小さな足音が耳元で響き、遠ざかっていく。
すると、再び柵が勢い良く動かされる様な音が聞こえ、鍵がかけられるような音もした。
僕は地面に額をつけたまま、動くことすらできなかった。恐怖を感じた...というより感覚が麻痺していたのかもしれない。自分でも良く分からない。何しろ冷静に自分も感情を分析してる暇なんて今の僕にはなかったからだ。
わざとらしく響き渡る男の不機嫌そうな足音が再び鳴り響き、時間が経つに連れて遠ざかってく。
男の足音は完全に聞こえなくなり、辺りは静まり返っていた。それでも僕は地面に額を付けていた。上げられなかったのだ。少し落ち着き、冷静に考えてみると、さっきの会話や物音からロットがあの男につれていかれた事は容易に想像出来た。
ロットはどうなってしまったのか。僕はそもそもなんであんな無茶な事をしてしまったのだろうか。この結果が予想できなかったのか!?
「責任者は私になのに...ロット..なんで...」
横から震えたレニアさんの声が聞こえてきた。
そう言えばあの男が言っていた...『責任者は貴様なのか』と、多分各牢に決められた責任者がいて、何かあった時はその人が仕置きとやらを受ける事になってるんだろう。
ただどうやらその『責任者』はロットでなくレニアさんだったらしい。
僕は顔を上げ、彼女の方に目を向けると、手を地面に付け、ぽろりと涙を流すレニアさんの姿が見えた。
「ごめん...僕が余計な事したばかりに...ロットが..!」
僕はそんなレニアさんの姿を見て途端に罪悪感に溺れてしまった。僕が余計な事をしなければ最低でも今までの様な生活は送れただろう。でも今ではそれすら叶わなくなってしまったかもしれない。
そう考えると僕は子供の様に顔を歪め、泣いてしまった。
「レン...ニャァ」
ケイさんの声も震えていた。きっとケイさんも泣きたいんだろう。それでも彼女は決して涙を見せることはなかった。優しく僕の体を両手で包み、頭を撫でてくれた。