北欧の春 感傷の左手
*本作は銘尾 友朗さま企画 「春センチメンタル企画」参加作品です。
焦げ茶色の窓枠から見える景色は白い。
ここから見える深い緑葉の樅の木も、だんだんと白銀に染まっていく。
北欧の春はまばらだ。
春と冬が混ざり合い、日ごとに変わる。
こと、と飲み終えた厚いマグカップを窓辺に置くと、僕は蓋を開けたままにしておいたスタンウェイに向かった。
シベリウスの〝樹の組曲〟に惹かれてこの地までやってきた。
冒頭の旋律を上手く弾くことが出来ない。
どうしても硬くなる。
無骨なこの指がいけないのか、と、演奏をやめて、右手を左手で握った。
****
フィンランドに行きたいと言った時、彼女は腰だけにかけるエプロンを付けたまま、ふっと笑った。
煮込んでいたラタトゥイユの鍋の火を止めて、静かにエプロンを外すと、僕の座っているソファの隣に座り、先程からずっと動かし続けている僕の左手をそっと包む。
「相変わらず嘘のつけない左手ね。そんなに不安にならなくてもいいのに」
かつて、僕と彼女は恋人だった。
昔一度、別れた事がある。
その時は、鞄職人を目指していた彼女が夢を追って、イタリアに行ってしまった。僕は追いかける事も出来ずに、別れた。
僕は彼女を諦めて、幾人かの女性と付き合ったが、長くは続かなかった。
僕の右手はいつも彼女の左手を探していた。彼女の細い指を、必ずゆっくりと握ってくれるその感触を。
そして、その感触の違いの苛立ちと不安に、左手はいつも音楽を奏でていた。
現実から逃れる為に。
僕はため息をついて過去の感傷から現実に意識を戻すと、左手を包んでくれている彼女の細い指を撫でた。
「この指と離れるのが辛い」
「指だけなの?」
「あ、いや……」
また失言をしたと首をすくめると、あの頃は長かった黒髪を肩で切り揃えた彼女が、ゆっくりと微笑んで僕を見た。
「あの頃とは、あなたも私も違う。時間を重ねて積み上げてきたから、あなたも言い出せたのでしょう?」
「ああ」
ああ、と言いながら動き出そうとする左手を握って堪えた。
あの頃の僕は、ショパンに囚われていた。
その名を冠に持つコンクールの一次審査を控えていて、彼女がイタリアに行く、と告げた時、僕はコンクールがある、としか、言えなかった。
課題曲〝革命〟の、技巧に飛ぶ左手が、どうしても上手く弾けなかった。
狂おしく動く指の覚えが不安で、僕の左手はいつもショパンが奏でられていた。
彼女は口元だけはにかんで、知っているわ、と言った。
じゃあ、と言って踵を返した彼女の左手に、手を伸ばそうとして、届かなかった。
僕の心はピアノにしかなく、ピアニストとしての将来を潰すわけにはいかない、という打算が邪魔をした。
僕は、彼女よりもピアノを取った。
そしてそれは、彼女も同じだった。
お互い、夢を選択した。
数年後、送り名のない絵葉書が届いた。
朝焼けの空の下、ドーム型の教会が写っている。左側には川の上にかかる建物と同化した橋。
そして、裏側の、何も語られていないその左側の空欄に、僕は居ても立っても居られずに飛んだ。
葉書の場所へ。
フィレンツェのミケランジェロ広場へ。
投函された日付から十日は経っていた。
彼女がそこにいる確証など無く、だが、僕は真っ直ぐに広場へ向かった。
ただ、会いたかった。
僕の右手は、彼女の左手だけを求めていた。もう、他の手を握りたくはなかった。
空虚に奏でられる左手のショパンを、僕はもう、弾きたくはなかった。
ああ あの左手が 居た
あの細い 左手が
僕はすがるように握った。
驚いた彼女は僕を見て、顔を歪ませ、一度だけ僕の頬を張った。
僕はその張り詰めた右手も捉え、巻き込み、抱きしめた。
なぜ来たの、という問いに
葉書が来たから、と答えた。
ピアノは、という問いには
ここで弾く、と答えた。
僕はピアノがあれば
どこでも弾けるんだ、と。
僕は彼女と共にフィレンツェを拠点に活動をした。彼女は鞄職人として、ドゥオモというドーム型の教会の近くに居を構えた工房の一角を任され、僕は、時にウィーンへ時にベルリンへと往き交いながらも、ゆっくりとイタリアに根を張った。
僕は時間を見つけては作曲家の生家、国を回った。作曲家の生まれた土地に行き、その空気、空間を感じると、ピアノの音はより深くなる。
肌で感じたものが、その街の喧騒が、窓から見える景色が、僕の脳を刺激し、腕へと伝わっていく。
そして、鍵盤に吸い付くような音を奏で出すのだ。
やがて僕は、以前からいつも心の片隅にあったシベリウスと向き合う。
僕は
僕は、また
囚われていく
シベリウスの生まれた国は、フィンランドだった。そして今度は、僕は生涯をかけてシベリウスに向き合いたくなってしまった。
シベリウスの〝樹の組曲〟が、僕を捉えて離さない。
荘厳な交響詩〝フィンランディア〟を作曲したシベリウスが、ピアノ曲では語りかけるような柔らかい旋律を謳わせる。
フィレンツェの街の匂いでは、この途切れそうで途切れない自然な音の流れが、歌えなかった。
ここには白樺の木々が無い。
眠らぬ空の青白い光が無い。
肌を凍らせる寒さが。
街を離れる時、僕は、彼女の細い指に合う指輪を贈った。
こんなことしなくて、いいのに、と彼女はまた、顔を歪ませた。
僕は、もう一つの心を彼女の側に置く意味も込めて、指輪に託した。
僕の愛した左手に、証を残す。
「会いに、行ってもいい?」
「ああ」
「私もあなたの右手が、恋しいの……知ってた?」
「……いや」
彼女は僕の右手を愛おしそうに握った。ピアニストに似合わない節のある、ごつごつとした太い指を優しく撫でた。
「また、絵葉書を送るわ」
「今度は、左側を書いてくれないか。君の事が分かるから」
彼女は俯いて言った。
「……書かないわ」
僕は、頷いた。
「じゃあまた、会いに行く」
彼女は僕の答えに顔を上げて笑った。
潤んだ目に浮かんだ雫を、その細い指で、自分で拭って。
僕と彼女は、しばらく抱き合って、やがて駅で別れた。
****
窓の外は降り続いていた雪が、いつの間にか止んでいた。少しだけ日が差し込み、部屋へ、柔らかな光彩が揺らぎながら入ってくる。
その二筋の光に導かれて、僕はまた、鍵盤に触れる。
彼女の左手を思い浮かべながら、フィンランドの春と向き合う。
あまり、歌いすぎないようにしなければならない。感傷的過ぎても、この曲には似合わない。
彼女の滑らかな左手のように、少しだけ匂い立つ花の香りのように。
僕は鍵盤に指を置いた。
煌きながらも滑り出す音色に
少しだけ、頷いた。
fin
お読み下さりありがとうございました。
主人公が奏でている曲をご紹介させて下さい。
ジャン・シベリウス作曲
作品75〝樹の組曲〟より
第一曲「ピヒラヤの花咲くとき」です。
シベリウスはフィンランドの作曲家です。
作中にも出しました「フィンランディア」等、帝国ロシアの圧政に苦しめられていた国民の愛国心を沸き起こさせる壮大な曲を作る一方、このピアノ曲のように、北欧の自然の恵みを涼やかに落とし込むロマンティストな作曲家でもありました。
〝樹の組曲〟は五曲からなるピアノ曲で、その中で一番有名なのは、
第五曲「樅の木」だと思います。
ピヒラヤも樅の木もどちらも素敵な曲です。お時間がありましたら、休日のひと時にでも聴いてみて下さい。
銘尾 友朗さまの「春センチメンタル企画」は、この他にもたくさんの良質な物語があります。
こちらもぜひゆっくりとお巡り下さい。
ありがとうございました。