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今日も夫はいつもの時間に家を出た。彼が大慌てをして家を出て行く姿を一度も見たことがない。彼はいつも歩く時計か、と言いたくなる位に時間に正確だ。だから嬉しかった。彼が人間らしさを私に見せた。それはとても不器用な形でだったけど。弱さを私に見せてくれたことを。ああ彼は私に心開いてくれているんだ、そう思えた。無論、分かっていた。彼はとても不器用だけど底抜けに寛容な人だ。そして私を本当に愛している。だけど、それでも欲しがってしまう私もいることを、知っていた。だから今朝は嬉しかった。
彼は私が尋ねる前に吐露した。真面目な彼の事だから、妻に相談もせずに転職活動を進めていたことに罪悪感を感じていただろう。一家の大黒柱としての責任感もある。だからメガバンクのエリート銀行員という肩書きを自ら消すことに躊躇する思いもあったはずだ。そして今朝の彼は少し不安げに弱気に私にぞの事実を告げた。私はそれで充分だ。無論、彼の収入が減る可能性は否めないし、将来のことを考えれば不安が無い訳ではない。だけど、それにも勝るのは、彼が彼らしくいようと、きっとそう思った。その事実が嬉しい。メガバンクのエリート銀行員という彼にはちょっと荷が重い役から自ら降板することを決意した。それはある意味で彼の強さでもある、と思う。世間一般に言わせれば七恵は随分夫の行動を好意的に捉えすぎているのかもしれない。だけど、それでいいのだ。私だけが彼を本当に理解することができる。それが誇らしい。
私が生きて日々に意味を求めるとすれば、それは彼が心に背負った重荷を降ろしてあげること、だ。私が担当する作家は心に傷を負った主人公を描く小説で人気を得ている。私は彼の作品を一読者として心から待ち侘び救われている。だから彼の本が少しでも多くの読者に手に届くように様々に工夫を凝らし動き回る毎日に満たされている。そして何より嬉しいのは夫が私の仕事に関心を示してくれていること。もっと、いうと私が働いたことで世に出た作品を夫が自分の稼いだお金で購入し愛読してくれていることだ。妻がどんな仕事をしているかに関心を示してくれていることも嬉しい。それ以上に私の仕事を通じて彼の救いに少しでもなっているならそれは何にも代え難い幸せだ。彼の人生の重荷を少しでも下ろしてあげる一助になっているなら、私は日々汗水流し働いていることの『意味』って奴を感じられる。
それは私の勝手な思い込みなのかもしれない。実は彼はそこまで重く受け止めていなくて、ただ淡々と人生を歩んだ先に朝吐露した決断があり、私が隣にいる。それだけのことなのかもしれない。でも、それだっていい。彼はそれでも私と生きていくことを選んだ。誰かと一緒に生きていく、ことを選んだ。ごくありふれたことかもしれないけど。私にとってはそれが全てだ。少し重々しいかな。でもさ、そんな風にして生きることが出来ている私は幸せだよ。色々あるけどね。ああ、朝陽が綺麗だなとか、ふと見上げた夜空に光る星が綺麗だな。そんな風に思えるのは私の心の彩りじゃなくて、あなたが隣にいる、って思えるからなんだ。
私は自己陶酔しているだけなのかもしれない。でもそんなの構いやしない。駿君と出会い、共に歩む今に私は満足している。私は明日でも昨日でもなく今日を生きる人でいられるのだ。それは愛する人がいるから、こそだと思う。