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人生、時々春  作者: 神山亮輔
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 片桐駿は小さい頃からストレスを感じやすく、毎日歯軋りをしてしまう。そしてそのストレスが強いときは奥歯を強くかみ締める様な歯軋りになる。朝起き抜けの首や肩の状態で分かる。ああ最近は奥歯をかみ締めながら寝ている。ここ最近は七恵より先に起きることが多い。

 今日は青葉に入社の意志を伝えなければ。七恵に事後報告はさすがにまずいな、と思うから共にする朝ごはんの限られた時間の間に伝えよう。

 今朝は温かい紅茶と食パンとヨーグルトと簡単な朝食だ。七恵が動き出した音を聞いて、準備を始める。

 「なあ、僕仕事を変えようと思う」

 「そう、決めたのね」

 「分かっていたのか?」

 「うん、なんとなくだけどね」

 「構わないのか」 

 「駿君が決めたことなら私は構わない。応援する」

 「そっか、ありがと。今日相手方に入社の意思を伝えようと思う」

 「うん」

 とても短いやり取りだった。七恵は別に不機嫌でも上機嫌でもなくいつもと変わらない様子だった。とりあえず次の仕事はどんな仕事なのか?だとかあれこれと聞かれることもなく、必要最低限の会話で済むところを気に入っていた。

 いつもと変わらない時間に家を出て会社に向かう。不思議と感慨といったものもなく、いつもと変わらない心持だった。

「おはようございます」

 始業一時間前だというのにフロアには既にポツポツとまばらにだが人がいる。多くは年のいった社員で若手の出社は大概遅い。それはそうだ。毎日終電で帰れば朝くらいは少しでも多く寝たいはずだ。

 だが片桐は仕事がどんなに立て込んでも、朝は早く目覚めてしまうのだ。だからいつも決まった時間に起きて決まった時間に家を出て、同じ時間に会社に着く。そんな生活を片桐は気に入っていた。

 隣の青景のデスクは積み重なれた書類でいっぱいだった。一方、片桐のデスクの上は物一つない。新卒の時から退社時にはデスクの上を空にして帰る。どんなに忙しいときでも今みたいに暇なときもその習慣は変わらない。

 だけど青景のように傍から見て繁閑が分かり易いのは上司からすればとても扱いやすいのだろう、と思った。だけど俺は青景とは正反対の性格だ。彼のように生きることはきっとこの先もずっと出来ないだろう。

 片桐は今までの人生で今いる場所への帰属意識だとか愛着といった感情を持ったことがなかった。だけど七恵だけはそういった感情を少しばかりだけど持つことができた。

 そんな感じでもいいのかもしれない。世の中にはそういった『程々』の感じで生きていく者もそれなりにいるのだ。これから片桐の新たな居場所になる場所はきっとそうした人間が大勢を占める環境だろう。

 だが『程々』を維持しながら生きていく、のは以外に至難の業だ。それを片桐は身を以って知っている。時に自分の許容量以上に力を入れすぎて。肉体と精神の許容量を前借して負債を抱えながら生きる。そんな時も人生にはあった。

 だけど極力、一定であることが片桐には重要なのだ。だから人生を安穏と過ごし、それなりの幸せをかみ締めながら生きていくためには、『程々』を維持するための意識と努力を必要とする。手に入れたいものがあれば、相応の負担を求められるのは世の摂理だ。だから片桐は何かが爆発してしまうことのないよう、そのバランスが崩れないように平衡状態が維持されるように生きていく。そのことを常に意識して生きてきた。

 今日も課長は言葉少なに席に着き、世間話をするでもなく課の様子を一瞥して自らの仕事を開始した。片桐は課長のこの干渉が過ぎないスタイルを好ましく思っていた。恐らく彼は常に冷静に周囲を観察している。けして部下に報連相の重要性を説いたりすることもなく淡々と過ごしている。不思議なことか人間の摂理か、そんな人間に情報はちゃんと集まっていく。課長は恐らくその事を心得ている。だから部下の危険信号にもある段階で認知し、予防策を張れる。そして課の成績は中の上、といったところを常に維持し続ける。『程々』の結果を出し続けることは一番難しい。片桐は数年の職務経験でも痛いほどその事実を理解した。だから第三課は大きく目立った存在ではないもののきちんと評価を受けている。

 だから今の場所には不満はない。少しだけ課長に退職の意思を告げるのは後ろめたさを感じる。そんな気がする。

 午前十時、お手洗いに行く振りをして席を外し青葉に連絡を入れる。

 「片桐です。先日はお世話になりました。御社で働きたいと思っております。宜しくお願い致します」

 「良かったです。片桐様からの連絡を心待ちにしていました。では来月から宜しくお願いします」

 青景は口では心待ちにしていた、と言ったが恐らく片桐からの連絡があることを予め分かっていたように淡々と話した。

 さあ、人生の舞台がまだ変わる。そのことを片桐は改めて意識した。

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