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前後篇の前です。



挿絵(By みてみん)

「や、金岡さん、おはようございます」


 朝のゴミ出しに来ていた金岡(かねおか)さんに挨拶をする。旦那さんも俺と同じく会社員だけど、会社が遠いらしくて俺よりももっと早い時間に出てってるらしいな。

 笑顔が眩しい、30代とは思えないくらい若々しい旦那さんだよ。。

 

 ここらで、俺の自己紹介をしようか。


 俺の名前は押田(おしだ)兼文(かねふみ)。 しがないサラリーマンをしてる。歳は……アラフィフって奴だ。

 ここ裏野ハイツの101号室に住んでる。 自惚れじゃなければ、それなりに他の住人と仲良くできてると思うよ。


 元々住んでたトコの会社でちょっと失敗しちまって、それでもなんとか職にありついて頑張って生活してる。 まだ3年目だけど、今の会社の上司にも覚えがいい。

 順風満帆とは言わないけど、ここでの生活も楽しいんだよ。 偶然とはいえ、見つけたのが裏野ハイツで良かった。


「お、宮婆さん。 おはよう」


 俺が挨拶すると、にっこり笑って挨拶を返してくれるこの人は、宮婆(みやばあ)さんだ。

 本名は知らない。 ただ、宮婆って呼んでくれって本人が言ったんだ。 一応年上だし、色々助けてもらってるから俺は宮婆さんって呼んでる。

 宮婆さんは201号室に住んでんだけど……いっちゃあなんだが老体に裏野ハイツの階段はキツい気がする。 言ってくれれば俺が部屋を代わってやるのに、あの部屋がいいんだって一点張り。 ま、運動になるからいいのかもな。


 ちなみに金岡夫妻は103号室に住んでる。確か……3歳だっけな? 息子さんがいるはずなんだが、越してきてから一度も夜泣きとか聞いたことない。 3歳じゃもうしないか?

 この夫妻、妙に流行遅れのものを好むんだ。 来てる服とかルームグッズとか、それこそ俺が生まれる前に流行ったモンがあったりする。 流行遅れって言葉じゃ済まなそうだ。


 んで、102号室なんだが……俺はまだここの住人に会ったことがない。引きこもりらしい。40そこらの男が無職で引きこもってるとか、正直怒鳴り散らして働かせたいんだが……。

 この部屋の住人が外に出てるのを見たことが無いんだ。 カーテンも閉め切ってるしな。

 物音だけはするから居る事は確実だぞ。 それに、完全に引きこもりってわけでもないみたいで、年末の2日間だけどっかに出かけてる。 物音がしなくなるからな。


 202号室と203号室は空き部屋だ。ただ、俺の部屋から斜め上……つまり202号室の辺りから物音が聞こえる事が、これまでに何度か在ったんだ。 そこまで耳は良くないから、宮婆さんがベランダか廊下で物落としたりしたのかもしれないけどな。

 ま、この歳になってまでユーレイだのなんだのを信じる程子供じゃない。 古い建物だからな、立てつけも悪いし、風で物音くらい立つだろ。


 さて、それじゃ俺は会社に行ってくるよ。 帰るのは……そうだな、11時くらいになると思う。


 んじゃ、行ってきます。









「ただいま、今帰ったよ」


 ま、おかえりって言ってくれないのはわかってるけどな。 なのになんで言うのかって? 無言で帰ったら寂しいじゃないか。 帰ってきたら帰ってきたで怖いけどな。

 手探りで紐を探す。裏野ハイツは、今時考えられない紐を引っ張って電気をつけるタイプの奴だ。

 お、あったあった。


「……?」


 ん? なんだ今の。窓から誰か見てたような……。 気のせいかな?


 にしても視線を感じるってのは、大分オカルトだよな。 目から何か出てるのか?

 女性が男性の視線の行方がわかるってのは、対面してるからだってわかるんだがな。 後頭部に向けられた視線に気づくとかどういう原理だっての。



 はぁ、疲れてんのかな。 早めに寝とくか。

 んじゃ、おやすみな。








「ん……? 誰だ、こんな夜中に」



 ノックの音で目が覚めた。 コンコンコンと三回。

 壁に書けた時計に目をやると、短針が示すのは2。 長針は5だ。2時25分。 礼儀としても、人が訪ねてくる時間ではない。


 コンコンコン、と。

 再度ノックの音。

 起きるのも億劫だ。 寝ている事にしよう。


 コンコンコン。

 コンコンコン。

 コンコンコン。

 コンコンコン。


「だぁー! なんだってんだこんな夜更けに!」



 ノックは鳴りやまなかった。ちょっと行ってくるよ。


「あー、はいはい! どちら様ですかー?」



 ドアは開けないで問う。 こんなボロ家を狙うとは考えにくいが、泥棒の可能性だってあるのだから。 裏野ハイツのドアに覗き窓がない事がとても不便に思えた。


 コンコンコン。


 返事は無い。

 代わりにノックだけが響いている。


「だからどちらさんですか? 金岡さん?」



 コンコンコン。


 気味悪いな……。

 知ってるとは思うけれど、俺は腕っぷしがそんなに強くないんだ。

 だから泥棒とかなら命乞いして見逃してもらうしかないんだけど……。


 コンコンコン。


 ノックは止まない。

 つか、泥棒ならノックなんかするか?

 あー、おびき出してグサッって可能性もあるって? そうか……。


 コンコンコン。


 でも、このままにしとくのはやっぱり煩いよ。 明日だって会社なんだ。

 薄く。薄く開けよう。


「……どちら様ですかー……っと」



 おや?

 誰もいない。

 ドアの影に隠れてんのか? なんのために?


 ドアを完全に開く。


「誰もいない……チッ! いたずらか?」



 ドアの影にも廊下にも人影は無かった 。勘弁してくれよ……。


 ドアを閉める。

 自分で言うのもなんだが、おっさんサラリーマンの寝こみにいたずらして何が楽しいんだか。

 あぁ、余計な体力を使った。

 寝よ寝よ。


 布団に潜る。 自分の体温で暖まった布団が心地よい。

 夏場なのにな。


「んじゃ、おやすみー」



 コンコンコン。

 コンコンコン。

 コンコンコン。

 コンコンコン。


「無視無視……」


 コンコンコン。

 コンコンコン。

 コンコンコン。

 コンコンコン。



 ノックは、朝まで鳴りやむことが無かった。 どうしてわかるかって? 一睡もしてないからだよ。 出来なかったんだ。









「あら、押田さん。おはようございます」

「ふぁぁ……ふ、あ、あぁ金岡さん。おはようございます」



 欠伸が止まらない。 クソッ! あのノックのせいだ。 次に来たらとっ捕まえてやる。

 とりあえずスマホを取り出して音が出ない設定にしてからアラームをセット。 電車で寝過ごさないための対策だ。


「あら……? 押田さん、その手に持ってるのって……」

「ん? あぁ、9sの事ですか? ははは、最近奮発して買い替えたんですよ。 色々と便利ですよ」



 最新式だからな。昔使ってたケータイはもう使えなくなっちゃったし。

 俺がそう答えると、金岡さんは不思議な物を見た、とでもいうような顔をつくった。そんなに珍しいか? 確かに50代のおっさんがもってるものにしては珍しいのかもしれんな……。


「近未来的、ですね。携帯電話もそこまで小さくなったんですか」

「あ、いえ、コイツはどちらかといえば大型な方なんですが……」



 機能を広げた分、スケールは大きくなってるはずだ。小型さで言えばもっと小さいものがいくつかある。


「そうなんですか? ウチの主人が使っているのはこのくらいのでして……」



 そういって金岡さんは、両の人差し指と親指で形をつくる。

 縦が12㎝くらいで横が4㎝くらいの長方形……割とでっかいの使ってるんだな。


「ボタンも沢山あって、私には何が何だか……」



 ボタン? タッチ式じゃないのか……。 まぁボタン方式から離れられない人ってのは結構いるらしいし、たまたまご主人がそういうタイプだったのだろうな。

 そういえばアイツと一緒に買った携帯もソレだった。 何かと共通点の見つかるご主人だなホント。


「おや、2人とも早いねぇ……依子(よりこ)さん、押田さん、おはよう」

「あ、おはようございます、宮お婆さん」

「や、おはよう、宮婆さん」



 御年70越えとは思えない若さの声色で挨拶してきた宮婆さんに挨拶を返す。

 手には如雨露。 水がたぷたぷ入っている。


「お、打ち水ですか? 最近暑いですからねぇ」

「そんな、宮お婆さん。 言ってくれれば私がやりますのに!」

「これも年寄りの楽しみさね。 それよりも依子さん。 さっき旦那さん出て行ったの見えたよ。ということは、部屋に怜君が独りぼっちなんじゃないかい? 速く行ってやりなよ」



 (れい)君というのは、金岡夫妻の1人息子だ。 確か3歳。 本来女の子に使う言葉だが、まるで人形みたいな男の子だ。 とても静かで礼儀正しい。ご主人に似たんだろうな。


「あら、私ったら! ありがとうございます宮お婆さん。 それじゃ、押田さん。会社頑張ってくださいね」

「えぇ。 いってきます」



 やはり、金岡さんの笑顔は人を元気にする。 寝不足だった頭が少しだけ晴れたような気がした。


「あ、そうだお2人とも。 昨日、俺の部屋にいたずらがあったんで、お2人も気を付けてください。 特に宮婆さんは自衛の手段がないでしょう? 夜中にノックされても出ないようにしてくださいね」



 宮婆さんには度々世話になってるからな。もしものことがあったら……なんて考えたくもない。 金岡さんはご主人が居るから大丈夫だろう。


「御忠告ありがとうございます。 押田さんも気を付けてくださいね」

「老い先短い婆さんを狙うような輩はいないと思うけどねぇ……ありがとうよ、心配してくれて」



 金岡さんはにっこりと笑って203号室へと帰って行った。

 宮婆さんはクツクツと笑ってから、気遣うような目で俺を見る。

 なんだろう。


「時に押田さん。 目の下、隈が出来てるよ。 寝不足かい?」



 しまった。 鏡をしっかり見ておけばよかった。

 金岡さんにも心配をかけてしまったかもしれない。


「ははは、大丈夫ですよ。

 あ、そろそろ時間なんで、俺は会社に行きますね」

「……そうかい。気を付けるんだよ」



 えぇ、と返事をして駅に向かう。

 宮婆さんがどこか悲しそうな顔をしていたのが記憶に残った。



 





「ただいまー」


 今日はとても良いことがあったよ。 まだ3年目だというのに、今度開かれる重役会議に呼ばれることとなったんだ。 君の功績は目を見張るものがある、ってね。

 寝不足の最悪な気分から一転、最高の気分になったよ。

 さ、シャワーを浴びてとっとと寝てしまおう。







「はぁ……」


 そして、今、たった今最悪の気分に戻ったよ。



 また、あのノックだ。


 コンコンコンコン、と4回。 なんなんだ、一体!

 折角の気分が台無しだ。 腹が立ってきた。

 ちょっとくらい怒鳴っても問題ないよな?


「おい! いい加減にしろ……チッ!」


 ノックの鳴っている最中に勢いよくドアを開けてやったが、誰もいない。 子供でも隠れられるスペースは無いし、近くに人影も見えない。 ボロい建物だが、駐車場の外灯はあるんだ。 影があれば気付く。


 ダン、と勢いよくドアを閉める。 そして、ドアノブを握ったまま待つ事10秒。


 コンコンコンコン。

 コンコンコンコ――。


 今!


「おらぁ!」


 ――ン。


 …………。

 今、聞こえたよな。

 俺がドアを開けている最中にノック音が聞こえていた。 つまり、ドアに張り付いてでもいない限りそれは不可能ってことだ。 事なんだが……。


「いない……? 気味が悪くなってきたな……」


 誰もいない。 ドアの裏側にもいない。

 まさか――。


「野郎……部屋の中に!?」


 考えられる可能性。 勢いよくドアを開けた俺の目を掻い潜って、部屋の中に入ってきたという物。 だとしたら……。


 ガチャリ、とカギを閉める。 これで閉じ込めたはずだ。 この部屋の収納スペースは洋室に2つのみ。 隠れられる場所といえば、後は浴室くらいか。


 まず浴室を開けてみる。 立てつけの悪い、木の扉だ。 擦れる音が耳触りだよな。


「いない。か……」


 浴槽の中を見ても誰もいない。 なら、残るは洋室だけ。


 さぁ、この意味のない悪戯にケリをつけようじゃないか。

 

 洋室に入る。 物入れの扉に動いた形跡はない。

 まず、手前の大きな物入れからだ。 普段は布団を仕舞っているソコ。 空の状態なら、大人1人くらいなら入れるだろう。 勿論寝る準備をしていたので布団は出してある。


「めんどくさいな……全く!」


 ガン! と音を立てて扉を開ける。

 いない。


 いないのかよ。


「こっちは子供しか入れないと思うんだけどな……今出てくれば赦してやるぞ?」

 

 小さい方の物入れに呼びかける。 勿論許す気はないが、面倒を省くためだ。 一々屈まなきゃいけないからな。


 無音。


「めんどっくせぇ……なぁ?」


 あれ?

 いないぞ?


 他に隠れられるとこなんてないんだが……。


 コンコンコンコン。


「この……おちょくりやがって!」


 俺が家の中を必死に探してるのを楽しんでやがったな!


 コンコンコンコン。


 鍵を開ける。

 ドアノブに手を掛ける。


 コンコンコンコン。


 ドアノブを回す。

 扉を――開ける。


 コンコンコンコン。


「え……?」


 コンコンコンコン。

 コンコンコンコン。

 コンコンコンコン。

 コンコンコンコン。


 俺は今、ドアノブに手をかけて――ドアを開けている。

 半身を乗りだし、ドアの両面を見ている。


 何もいない。

 誰もいない。

 何かが張り付いているということもない。


 ただ、音だけが。


 コンコンコンコン。

 コンコンコンコン。

 コンコンコンコン。

 コンコンコンコン。


 ノック音だけが、ずっと響いている。


「おいおいおいおい! なんの……なんだってんだよ!」


 コンコンコンコン。

 コンコンコンコン。


 ノックは止まない。

 鳴り止まない。


「……疲れてるんだ。 疲れてるんだな!」


 コンコンコンコン。

 寝よう。 眠ってしまえば関係ない。


 コンコンコンコン。

 耳を塞げ。 目を瞑れ。 聞こえなければ関係ない。


 コンコンコンコン。

 楽しい事を考えよう。 夢を見よう。


 コンコンコンコン。

 おやすみ。










「あんた……大丈夫かい? 酷い隈だよ……?」


 一睡もできなかった。

 耳を塞いでも、頭の中に直接入ってくるんだ。 あのノック。

 眩しい日差しが憎い。


「えぇ……昨日も悪戯がありまして……あぁ、昨日怒鳴り声とか聞こえませんでした? 聞こえていたらすみません」


 12時頃だったし、五月蠅かっただろう。 金岡さん夫妻にも謝らないとだな。 怜君が起きちゃってたら申し訳ない。 


「いや……特に聞こえなかったねぇ。 何時頃の話だい?」

「深夜12時頃ですけど……聞こえなかったんですか?」

「うーん、覚えがないねぇ……」


 聞こえなかったのならいいが、不思議な話だ。

 裏野ハイツは、木造故に音が伝わりやすい。 壁自体が薄いからな。 さらに、排水管が伝声管の役割をするのかたまに2階の廊下の音が聞こえたりする。 ほんとにたまにだけどな。


 あれだけ怒鳴ったり勢いよくドアの開け閉めを行ったら聞こえていると踏んでいたんだが。


「あら、お2人ともおはようございます。 今日も暑いですねぇ」

「あぁ、おはよう、金岡さん。 速く秋になってほしいですよね」

「おはよう依子さん。 そうだ、昨日の12時頃……大きな物音とか聞こえなかったかい?」


 宮婆さんが金岡さんに尋ねる。

 しかし、金岡さんの反応は芳しくない。


「12時頃ですか? うーん……何も聞こえなかったと思いますけど……。 何かあったんですか?」


 首を傾げて金岡さんが答える。

 それもまた変な話だ。 何故なら、金岡さんは俺と同じ1階。 聞こえない方が難しいと思うのだが。 どういうことだろう。


「押田さん……実は悪夢だった、なんてことはあったりしないのかい?」

「悪夢……? それは……無いと思いますけれど……」


 あの現実感。 夢じゃない、と思う。

 でも、ドアを開けてもノック音が聞こえていた事は……どういう説明が付くんだろう。

 

「あんまり眠れない様だったら、医者にかかるんだよ。 無理をしたって意味はないからね。 アンタまだ50だろ? こんな老いぼれなんかより先は長いんだからさ」

「はは……ありがとうございます。 それと、宮婆さんはまだお若いですよ」

「そうですよ、宮お婆さん。 あまり悲しい事言わないでください」

「なんだい、アンタら……ほら、押田さんはとっとと会社に行ってきな!」


 照れてるな。 

 はは、やっぱりこういうちょっとした時間が幸せだ。


 よし、今日も頑張ろうか!














「ふぅ……疲れた……」


 本当に。 寝不足はやはり体に毒だ。


 ぐ、と伸びをする。 バキバキと鳴る骨が心地よい。 これやらない方がいいんだっけか?

 スーツをハンガーにかけ、そのまま衣服を脱ぎ捨てる。 悪いね、シャワーに入りたい気分なんだ。 


「はぁ……」


 今日もあのノックが来るのかと思うと、嫌になるな。

 もしかしたら本当に鬱みたいな病気なのかもしれない。 あまりお金はないけど、次の休日に病院でも行ってくるか……。


 熱湯と冷水をいい具合に調整する。 こういうトコも古いよなぁ。 贅沢は言わないけどさ。


「ふぅ……あぁー。 沁みる……」


 シャワーだが、温かい湯というのは疲れを取ってくれる。

 俺はまず髪を洗う。 シャンプーを手に溜め、それをそのまま頭へ。 リンスとか面倒な物は持っていない。


 ワシャワシャと頭髪を洗う。 50にもなると頭髪量が心配になってくるんだよな……なるよな? あまり強く洗いたくないんだが、逆に汚くてもすぐに抜けるというし。 適度が一番、なんていうが、その敵度がわからないんだよなぁ。


 そうして目を瞑って洗っていると、それは聞こえてきた。

 

 コンコンコンコン。


「……はぁ」


 コンコンコンコン。

 コンコンコンコン。

 コンコンコンコン。


 全く同じペースで、全く同じ強さでノックは鳴る。


 きゅ、と蛇口をひねり、シャワーを出す。

 

 流れ落ちる泡。 ったく……まだ身体洗ってないんだから待てよ……」


 コンコンコンコン。

 コンコンコンコン。


「あぁ? ……やけに近いな……」


 浴室と玄関も近いが、今日はそれ以上に近い……というか、目の前の鏡から聞こえる様な。 目の前の鏡。 向こう側は102号室。 引きこもりのいる部屋だ。

 まさか。


 顔に血が上るの感じる。


 コンコンコンコン。

 コンコンコンコン。


 急いで体の水を拭き、服を着る。


 コンコンコンコン。

 コンコンコンコン。


 ドアを蹴破り、隣の部屋のドアの前に立つ。


 ――コンコンコンコン。

 ――コンコンコンコン。


「出て来い! お前の仕業だったのか!!」


 鏡から聞こえているノックの音は、強弱も間隔もドアのそれと一緒だった。

 どうやったのかは知らないが、昨日や一昨日のドアもコイツの仕業だろう。

 とっ捕まえて、警察に突き出してやる!


「おい! 出て来い! このっ!」


 無音。

 クソ、居留守する意味なんかないのに、そんなこともわからないのか?


 ガン、とドアを蹴る。

 チ、力が足りないか。

 

 ――コンコンコンコン。

 ――コンコンコンコン。


 俺の部屋から、まだ音が響いている。

 まだやる気か!


 お前の部屋から聞こえてい、るの……は?


 あれ?


 俺の部屋から、ノック音は聞こえている。


 ――コンコンコンコン。

 ――コンコンコンコン。


 でも、目の前の扉の中から、それは聞こえてこない。

 あくまで、俺の部屋からだ。


 ――コンコンコンコン。


 こいつじゃ、ない?


「くそっ!」


 悪態を吐く。

 じゃあなんなんだ! 上か!?


 宮婆さんがそんな子供染みた事するとは思えないが……ノックが鳴り止まない以上、いくしかない。

 カンカンカンカン、と金属製の階段を駆け上がる。

 宮婆さんの部屋は201号室。 俺の部屋の真上だ。 

 ドン! とドアを叩く。

 

「宮婆さん! 起きてるか!?」

 一瞬の間。 30秒くらいか。


「――どうしたんだい、夜遅くに騒々しい……」


 ガチャ、という開錠の音と共に、宮婆さんが出てくる。

 部屋の中から、ノックの音は聞こえない。


「宮婆さん……アンタがノックを鳴らしてたのか?」

「はぁ……? 何の話だい。 今朝言ってた悪夢の話の続きかい?」


 言っている意味がわからないという声色と表情だ。 だが、それ以外に考えられないだろう。 金岡さん夫妻の部屋はもう1つ離れている。 物理的に無理がある。


「悪夢なんかじゃない! さっきまで、俺の部屋にノックしてただろう!? やめてくれ!」

「……何も知らないんだけどねぇ……。 そんなに言うなら老いぼれが一緒に寝てやろうか? 70過ぎたとはいえ、アタシも女だよ?」


 ゾワッ!

 さ、流石に無理が……って身を乗り出してくるんじゃない!


「い、いや結構だ! ……疑ってすまなかったよ、宮婆さん。 悪夢……そうだ、悪夢かもしれない。 ……これ以上迷惑かけないように、明後日の休日に病院に行ってくるよ」

「そうするといいさね。 しかし、そんな嫌そうな顔しなくてもいいのにねぇ……?」

「ッ! おやすみ!」


 山姥だ!

 山姥の目だ! あそこに長居していたら……喰われる!


 カンカンカンカンと音を立てて階段を駆け下り、自身の部屋のドアを勢いよく開けて身を入れ、カギを閉める。


 ノックは聞こえない。


「本当に夢……?」


 まぁ、聞こえなくなったなら――。


 コンコンコンコン。

 コンコンコンコン。


 身体は洗っていないが、関係ない。

 もういい。 またドアから聞こえてきたノックなんて無視だ。


 布団に潜る。 知らん知らん。

 寝るぞ。















「あら……押田さん、隈が……顔色も悪いですし、今日は休まれたらどうですか?」


 何故か眠れない。

 これだけ眠れなければ、音なんて気にならないと思ったんだが……。


 電車で寝ちまわないようにしないと……。 今日の昼休憩は、全部寝る事にしよう。


「いえ……今は大事な時期なんです……。 ふぁぁ……寝てはいられませんよ……」

「――とか言いながら、昨日みたいにアタシのとこに来られても困るんだよねぇ。 ホントに大丈夫かい?」


 2階から降りてきた宮婆さんも心配そうな顔をしている。 いけないな。 近所さんに心配をかけるのは、よくない。 

 パン、と顔を叩く。


「宮婆さん、昨日はすまなかったよ。 本当に。 今度お詫びの品を入れるから許してくれ」

「いらないよ、そんなもの……健康が一番さね」


 どこか遠くを見ながらつぶやく宮婆さん。 旦那さんは、もしかしたら病気で亡くなったのかもしれない。 俺がこんなだとつらい思いをさせてしまうかもだな。


「困ったことがあったら言ってくださいね? 私達、同じ屋根の下に住んでいるのですもの。 お互い様です」

「……ありがとう、ございます」


 優しい言葉が染み入る。 

 そうだ、宮婆さんはこう言っているけど、今回の会議で出世できて給料UPしたら、どこか夕飯を奢ろう。 鰻……は、ちょっと高いけれど。

 金岡さん夫妻と怜君、宮婆さんとなると……回転寿司とかがいいかな。 引きこもりの彼は出てこないだろうし。

 あぁ、昨日のが勘違いだったとしたら、悪い事をしたかな……。


「それでは押田さん。 いってらっしゃい、です」

「依子さん……それは旦那に言ってやりなよ?」

「毎日言ってますよー!」


 唐突な惚気だ。

 全く、こんな良い奥さんを持っている金岡の旦那さんが羨ましい。


 ――そういえば、あいつの奥さんも……。


「はい、いってきます」


 ま、昔の話だ。


区切りです。

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