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手紙(二枚目)

 東京の大学に進学したいのだと、私が思い切って伝えたとき、真っ先に賛成してくれたのはお父さんでしたね。都会に出て、いろんなひとと接することは、これから先きっと由乃のためになる、と。

 突然の話に驚いたことと思います。高校二年のころまで、私は漠然と、地元の国立大学を進学先として考えていましたし、お父さんとお母さんもそのことは知っていましたものね。

 卒業後の就職も視野に入れて、大学のうちから都会に出ておきたいのだと、私はふたりに話しました。でも、違うのです。それだけの理由なら、同じ関西圏にある大阪や京都の大学でもよかったはずですから。私は単に、お父さんとお母さんから離れたかった。ふたりのやさしさはいつも私をなぐさめてくれたけれど、わがままな私にとって、それはときに窮屈で、ときに私をひどく悲しくさせたのです。


 大学は、いままででいちばん呼吸がしやすい場所でした。同じメンバーで構成されたクラスという枠のなかで、授業や行事が行なわれていた高校までとは違い、大学は講義ごとにひとが入れ替わり、そのたびに部屋の空気が新しくなりました。私はやっと、あの濃密で重苦しく、息が詰まりそうな空間から解放された思いでした。みんなと同じ時間に登校して、同じ時間に授業を受けて、移動教室のさいはいっせいに席を立って、お昼はお弁当を食べて、ホームルームには先生の長い話を聞いて……四六時中、みんなと一緒に行動することを強いられる環境が、どれほど自分にとってストレスとなっていたのか、身をもって知りました。

 文学部の私は、理系の学生たちに比べると、それほど忙しくはありませんでした。一日に何コマかの講義に出席して、休憩時間には情報室でレポートを書いたり、図書館で本を読んだり、学内のカフェで軽食をとったりしてのんびりと過ごしました。

 いくつかの講義では、友人(という呼び方がふさわしいのか分かりませんが)もできました。講義前にちょっとおしゃべりするだけで、それ以外の時間には連絡を取り合うこともない、とても薄い関係でしたが。きっと彼女たちには、ほかにもっと気の合う友人がいたのでしょう。私は、彼女たちがその友人と行動をともにできないときだけ一緒にいる、つなぎのような存在だったのだと思います。

 だけど、それでもかまいませんでした。短時間、当たりさわりのない会話をするだけなら、私はなんとかふつうの人間でいられましたから。深く相手のことを知ろう、関わりを持とうとして、他人に踏み込まれることを私は恐れていました。

 小学生のときに不登校になって、自分の殻に閉じこもったまま、孤独な中学・高校時代を過ごして……そんなことを話したら、彼女たちは、私と距離を置こうとするかもしれません。だって、学生時代というのは大半のひとにとって、人生でいちばん楽しく、きらきらとかがやいている時期なんですよね。そんな時期に、ろくに友達もつくれず、休みの日は家にこもってゲームをしたり、漫画や小説を読んだりしていたなんてとても話せませんでした。

「ふつうのひと」というはりぼての仮面をかぶってまで、まわりのひとたちに溶け込みたいと願う私は、おろかな人間でしょうか。

 もしも、ありのままの自分をさらけ出すことができていたなら、なにかが変わっていたのかもしれません。でも、私にはそれができませんでした。自分を受け入れてくれるひとに出会える可能性にすがる気持ちよりも、ばかにされたり、笑われたり、拒絶されることに対する恐怖のほうがまさっていたのです。


 好景気が大きな後押しとなって、こんな私でも、なんとか都内の企業に就職することができました。

 私が担当している事務の仕事は、慣れてしまえば単調なもので、大きな失敗は起こりません。私の周囲には、仕事一筋というような女性はわりあいに少なく、家庭を優先させるタイプのひとや、結婚や出産を機に退職してゆくひとが多いです。一方で総合職の枠で採用された女性は、男性と肩を並べて夜遅くまで働き、出張に行き、しばしば長時間に渡って意見を交わし合っています。

 私は、自分がどちらにも属せないことを感じます。

 まるでこうもりのように宙ぶらりんで、だから、職場ではいつもひとりです。

 ひとはふつう、自分と性質の似通ったひとと付き合いますから、それは当然のことだと思います。

 それでも、私はいまの環境にじゅうぶん満足しています。お給料は決して高くはないですが、会社への貢献度を考えれば妥当だと感じますし、残業が少なく、強制的な飲み会や親睦会がないのはとてもうれしいです。


 ふたりが知ってのとおり、私はいま、都心のマンションに住んでいます。駅から徒歩圏内にあって、築年数も浅く、窓を閉め切った室内はとても静かで居心地がいいです。そのぶん家賃は高いのですけれど、私は飲み会などには参加しないし、旅行やおしゃれにも興味がありません。休日に遊ぶような友達もいないから、金銭的には余裕のある暮らしが送れています。

 白を基調とした家具(これらは奮発して自分好みのものをそろえました)に囲まれたこの部屋で、私は休日になるといつもソファに座り、レンタルビデオショップで借りたDVDを鑑賞します。ありふれた日常を描いた物語より、派手なアクション映画や、深夜に放送されるアニメを好みます。あたたかい紅茶を飲みながら、ストーリーに没頭するひとときは至福です。

 それから、小説を読んで過ごすことも多いです。好きな作家の本だけは新本を買いますが、そのほかはだいたい、古本屋や図書館で済ませます。ヘッドフォンをつけて、好きなアーティストの歌を聴いたりもします。最近はインターネットを通じて簡単に音楽をダウンロードできますが、私は大抵、CDを購入します。これまでに買ったCDのジャケットを眺めたり、歌詞カードの文字を追って、心のなかにイメージを広げてゆくのが楽しいのです。


 私はいま、とても穏やかな毎日を送っています。

 けれども、ささいなことをきっかけに、胸の奥深くがうずきます。傷口なんて大それたものではないのですが、ささくれをセーターに引っかけてしまったときのように、ふとした拍子にちくりと痛みが走ります。それは、小学生の子どもたちが通学路で追いかけっこしていたときだとか、部活帰りの高校生たちが、電車のなかで騒いでいたときだとか、職場の後輩が結婚したときだとか、おなかの大きい女性とすれ違ったときだとか……そんなありふれた場面が胸を締めつけるのは、それが私の手には届かないことを知っているからなのでしょう。

 こんなことを言うと、誤解を招いてしまうかもしれませんね。

 私は別に、友達がほしいわけでもなければ、恋人がほしいわけでも、子どもがほしいわけでもないのです。誰かが常に自分のすぐそばにいるということに、耐えられる自信がありません。そのひとが自分をどう思っているのか、答えが出るはずもないのに考えつづけて、私はきっと疲れ果ててしまうでしょうから。この静寂を、やっと得ることのできた安寧を、心を束縛されない自由を、誰にも壊されないことを願っています。

 だけど、うらやましいです。他人に傷つけられる不安にとらわれることなく、自分が受け入れられることに疑いを持たないひとが、おひさまの下を顔を上げて歩いて、なにげないやり取りにくったくなく笑えるひとが、うらやましくて仕方ないです。 


 ひとはなぜ、ひとと触れ合おうとするのでしょうね。相手を気遣って、心をすり減らして、それでも完全に理解することなんてできないのに。

 一見仲がよさそうに見えるふたりが、こっそりと相手の陰口をたたいています。永遠の愛を誓ったはずの夫婦は、近ごろは数年で離婚することが多いと聞きます。子どもがいるからと、惰性でひとつ屋根の下に暮らしつづける夫婦だって、たくさんいるでしょう。奥さんに疎まれて家に居場所がないひと、ご主人に愛情を持てなくなって不倫に走ったひと、自分の親を愛せないひと、子どもを愛せないひと、あざけり、罵り合い、暴力をふるい、命を奪うひとたちのことを、私はときにうわさから知り、ときにテレビの画面越しに眺めます。

 そして、彼らの境遇を気の毒に思いながらも、少しだけ安堵します。私はこんな痛みや苦しみを味わうこともなければ、誰かを傷つけることもないのだと喜びます。そして、そんなことを考える自分の醜さを、ひどく嫌悪するのです。


 どうして私は、ひとと関わりを持つことを避けてしまうのでしょう。ひととひとの間に生まれるぬくもりに背を向けて、冷たく、すり切れたものばかりを見てしまうのでしょう。からからに乾いた心の井戸は、長いこと水を欲しているのに、私は静かに干からびてゆくことより、そこに毒を投げ込まれることを恐れています。

 お父さんとお母さんは、私にあふれるほどの愛情をそそいでくれました。それなのに、ふつうのひとのように生きられない私は、どこか欠けているのだと思います。だけど、どうしてそうなってしまったのか分からないのです。子どものころの経験のせいなのでしょうか。でも、私なんかよりずっとつらい想いをして、それでもなお、他者への信頼を捨てないひとはいますよね。だとしたら、たんなる神さまの手違いで、生まれつきひととして必要な資質が備わっていないのでしょうか。

 答えのない疑問は、いつまでも私のなかをめぐりつづけます。

 だけど、ひとつだけはっきりと、分かっていることがあります。

 お父さんとお母さんは、一人娘の私がこんなふうに人生を歩むのを、望んでいなかったということです。

 だからこの痛みは、おそらくこれから先、ずっと消えないでしょう。


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