手紙(一枚目)
お父さん、お母さん。
私を育ててくれたふたりに、いまいちばん伝えたい言葉はなんなのか、長い時間をかけて考えたけれど、しっくりくるものが思い浮かびませんでした。胸のうちにはいろんな想いがあふれているのに、それは私がつかもうとした瞬間、ふっと形を失ってしまうのです。
だから、昔の記憶をたどってみることにしました。そうすれば、なにかヒントが見つかるかもしれませんから。
私は昔から、人見知りが激しい子どもでしたね。近所のおばさんに挨拶されても、黙ってうつむいてしまうので、よくお母さんに注意されたものでした。
それでも、小さいころは少ないながら友達もいて、それなりに楽しい毎日を送っていました。
だけど、小学五年生になった年、私のクラスメイトはとても活発で、はっきりとものを言う子が多くて、私は自分と友達になってくれそうな子を見つけることができませんでした。それだけならまだよかったのですが、次第に、私を取り巻く周囲の空気が、不穏なものに変わっていきました。発端がなんだったのかはもう覚えていません。おそらくささいなことがきっかけだったか、そもそもきっかけなんてなかったのではないかと思いますが。
給食を食べていたら、同じ班の男の子が私のいすを蹴って、あれ? なんかぶつかったぁ? と笑いながら走り去っていきました。前の席の女の子は、いつも私を素通りして、ひとつうしろの席の子にプリントをまわしました。なんかこのへん、くさくない? と言って、私の近くを通るときに顔をしかめたり、反対ににやにや笑う子もいました。
ある朝、学校に来ると、私の机がありませんでした。きょろきょろ視線をめぐらせると、教室のすみっこにそれはありました。あるべき場所に机を戻そうとする私を遠巻きに見て、男の子たちは笑っていました。せっかく片づけといたのに、なんで戻ってるん? 誰も使わんのに、邪魔やなぁ、この席。ひとりの男の子に強く蹴飛ばされて、机が倒れました。なかに入っていた教科書やノートが床に散らばり、私は黙ってそれを拾いました。誰からも手が差し伸べられることはなく、くすくすと忍び笑いが聞こえてくるばかりでした。
私は、そのクラスでは透明人間でした。誰も私に話しかけてきませんでした。私は毎日、自分の席で小さく縮こまって、早く時間が過ぎてくれることを祈りました。
ある日、真夜中に目が覚めました。私はまだ朝が来ていないことにほっとして、それから、ぎゅうっと胸が苦しくなるのを感じました。このまま朝が来なければいいのに。強くそう願いました。そうだ、今夜は眠らないでいよう。そうしたら、学校に行くまでの時間が、いつもより長くなるから。時計を見たら、夜明けまではまだ四時間以上あります。私は足音を忍ばせて部屋を出て、階段を下りました。
のどの渇きを感じて台所に向かい、ミネラルウォーターを一杯飲みました。コップをシンクに置き、それからふと思い立って、シンクの下の扉を開けました。包丁の柄をつかんで引き抜くと、蛍光灯の明かりを受けて、鈍色の刃が光ります。
もしも、と。海底からぷかりと泡が立ちのぼるように、私は思いました。もしも、いま私が死んじゃったら、もう朝は来ないんだな。――あのころ、私は朝が怖かった。とてもとても、怖かったのです。
そのとき、リビングのドアが開く音がして、私はあわてて包丁をしまい、扉を閉めました。なにしてるん、こんな時間に。台所にやってきたお母さんは、笑ってそう言いました。
眠れなかったから、と乾いた声が私の口からこぼれました。私はこのころから、なぜか地元の言葉ではなく標準語でしゃべっていました。それも、いじめられる原因のひとつだったのかもしれません。
お母さんは笑ったまま言いました。寒いやろ。近ごろ、夜は冷えるからなあ。
確かに、素足のまま歩いたせいで、特に足先は冷え切っていました。こくんとうなずいた私を、リビングのソファに座るようにうながして、お母さんは入れ替わりに台所へ入っていきました。
ひざの上で両手を重ね、固く握りしめている私の前に、お母さんはミルクティーを置いてくれました。お母さんが淹れてくれるミルクティーの控えめでやさしい味が、私は大好きでした。
由乃、とお母さんが私を呼びました。私はミルクティーを口に含んでいたから、反応できませんでした。お母さんは言いました。
もし、学校でいやなことがあるんやったら、無理して行かんでもええんよ。ちょっとぐらい休んだって、どうってことないんやから。
私はティーカップに口をつけたまま、やっぱりなにも答えられませんでした。
ぬくもった体のなかで、目元だけがふいに強い熱を帯び始めました。鼻の奥がつんと痛くなりました。あぁ、お母さんは気づいてたんだ。私、なんにも言わなかったのにな。私はひたすら黙りつづけました。私がいま学校で受けている扱いを話したら、お母さんはきっと、悲しくてみじめで恥ずかしい気持ちになると思いました。ぽろぽろと涙をこぼしながら、しゃべらない口実をつくるためにミルクティーを飲みつづける私を、お母さんはどんな顔で見ていたのでしょうか。鮮やかな記憶のなか、その部分だけが涙でぼやけてあいまいなのです。
中学に入学するころには、私は以前よりもっと引っ込み思案になっていました。不登校ぎみの生活が長くつづいて、同い年の子とどんなふうにしゃべればいいのか、分からなくなっていたのかもしれません。
みんな、呼吸をするように自然に、気の合う子たちとグループをつくっていきました。私はそこでも、自分の居場所を見つけることができませんでした。
何人か、私に声をかけてくれるやさしい子もいました。だけど、お弁当を食べる女の子たちの輪に入れてもらっても、私はほとんどしゃべることができませんでした。ぽんぽんとテンポよく言葉が行き交うなか、自分がどのタイミングで声を出せばいいか分からなかったのです。
うんうんとうなずいてみたり、顔に笑みを貼りつけてみたりしたのですが、すべてはうわっつらでした。私はちっとも、みんなの話を楽しんではいませんでしたから。ただ、みんなに不快感を与えていないか、嫌われていないかと、そればかりに意識を傾けていました。
そんな私の内心を悟ったのでしょう。やがて、私に声をかける子はいなくなりました。みんなが仲のいい子たちと机を寄せ合うなか、私はぽつんとひとり、お母さんのつくってくれたお弁当を食べました。お母さんの焼いてくれた卵焼きは、甘くてふんわりとやわらかくて、とてもおいしかったことを覚えています。
お昼、一緒に食べてもいい? ただそのひとことを言えばいいだけだったのに、動悸が激しくなって、手汗が出て、のどがからからに渇いて、体はべったりといすにくっついたみたいで、私は席を立つことすらできませんでした。がんばって声をかけようという気持ちは、いつしかあきらめに変わっていました。
なにもできなかった私は、やっぱり透明人間になっていきました。小学生のころと違って、みんなは私の机にわざとぶつかってきたり、くさいと言ってきたりしませんでした。
だからなおのこと、私はほんとうの透明人間になってしまったのだと思いました。
あのころのことを思い出して、おとなになった私は、ときおり悲しい気持ちになります。お母さんはきっと私に、友達とわいわい騒ぎながらお弁当を食べてほしかったのでしょう。中学生だった私は、自分はそういうことができない人間なんだとぼんやり受け入れるだけでした。
けれどもいま、そんな自分が情けなくて仕方がありません。
いまごろになってそんなことを思ったところで、なんの意味もないのだと分かってはいるのですが。