8 沢山の大好きを浴びて、誰かさんに勝とう
『あ、ハルさん?』
「ユーキくん…久しぶり」
『本当。元気だった?』
屈託の無い声だった。今に比べると、記憶の中の彼の声はまだ何かを隠していたようにも感じられる。
「まあね。最近来ないね…」
『うん。ジャズ・サークルがなかなか忙しくてさ』
今度定期演奏会があるし、と彼は付け加える。
「その忙しい所で申し訳ないんだけど」
『何?』
「2バスを教えてほしいんだけど」
『…また珍しいものを』
「別にロック系では珍しくはないでしょ?」
『と、言うとハルさん、とうとうロック側へ行くことにしたんだ?』
「うん」
『良かった』
「良かった… どうして?」
『ハルさんにはその方が向いてるから。あなた、だって物を壊す方が好きな人じゃない。破壊して、それから作り直すタイプだから』
「そ… う?」
『そう見えたけど』
「そう見えるの?」
『うん。ほら、絵を描くひとが一度描いたものをざっと消して同じように見えるけれど、新しい線を入れてくみたいにさ、本当に自分が欲しいものじゃなかったら、何度でもぶちこわしては何度でも作り直すでしょ。そんな感じ』
不器用だとは思うのよ。絵を描いてた友人のコトバが頭の中で回る。
『ドラムの方だけど、いつでもいいよ。ハルさんの好きなときに』
「じゃ明日」
『OK』
*
気がつくと、梅雨が終わっていた。
陽射しは日々熱さを増していて、緑も濃い。だが梅雨の頃よりも確実に昼の長さは短くなっていくのだ。夏至を過ぎた夏は、ただ堕ちていくだけのような気がしていた。堕ちていくという言葉が適当でないなら、刹那だ、とハルは思う。
まほは夏は好きだ、と言っている。何で?とハルはその時訊ねた。すると彼女はこう言った。
「だって、夏生まれの子どもは育てやすいっていうじゃない、別に転がしといたって凍え死んだりはしないでしょ?」
極端な例えだが、言いたいことは判る。
彼女は自分と、その部分が似ているのだ。生きてくのに必要な何かを失った寒さを極端に恐れる。
そしてもう一つ、奇妙に共通するところがあった。
「じゃあ冬は嫌い?」
その時ハルはもう一つ聞いていたのだ。するとまほは答えた。
「寒いのはむちゃくちゃ嫌い。でも眠る時に寒くないなら別に、それ以外なら好きかもしれない。ハルさんは?」
ハルは自分も嫌いじゃない、と答えた。
夏も冬もその点では同じなのだ。たまらない暑さやたまらない寒さは、それを辛いと思わせる暇を与えない。とにかくそれをしのがなくてはいけない。それを露骨に思い知らせてくれる。
そしてその暑い夏の合間にふっと行き過ぎる風や、雨の涼しさや、冷たい水に救われる思いをし、寒い冬のほんの少しの、人のいる部屋に帰って来たときの暖かさとか、毛布や人の体温だのが、何にも換えがたいものに感じられる、そういう瞬間は暑すぎる夏や寒すぎる冬にしか感じとれないのだ。
「だからごめん、あなたの名前と似てるけれど、春とか秋はあんまり好きじゃない」
そうまほは付け加えた。
「別にいい」
「春って季節は訳が判んないの」
「判らない?」
「昔からそう。いつも冬はこう思ってる、春がくればもっといいことがある…特に三月とか、学年の終わりとかって、周りの空気自体が全部『期待と不安』に染まっているもん。それに巻き込まれて、冬の間『待っていた』何かをそこに期待しちゃうの。でも、春が来たところで何が変わるって訳じゃない。なまじっか過ごしやすいから、ものごとを考える時間だけは出来てしまって、桜の匂いや色に頭ん中がぐちゃぐちゃにかき回される。緑の季節がきて、匂いの強い南の花が咲く頃までそんな感じが続いて、堂々めぐりばっかり。考えたって答の出ないことばかり」
「そりゃそうよ。自分で始めなければ何も起こらない」
「でもあたしはその意味が判らなかったもの」
「過去形?」
「…だと、思う。思いたい。だから、以前はその『あってほしい』春とすぐそこにある春の違いに混乱してた。けれど違う。どうあたしが期待しようと春は春だもの。そこに来ている春が本当なんだもの。どうあがいたって、あたしが期待した通りの春なんて、黙って待ってるだけじゃ来ない。そうでないと、あのひとには、勝てない」
「勝ちたい?」
「勝てるかどうかは判らないけど」
「可能性なんか聞いてないわ」
ハルはきっぱりと言う。
「まほちゃんあんたは、勝ちたいの? どうなの?」
「ハルさん?」
まほは顔を上げた。
「『できるかどうか』なんて言ってるうちは、負けるのよ。何やったってそうよ。誰だってそうよ。だけど『勝ちたい』なら、可能性は生まれるのよ」
「勝ちたい」
声のトーンが、やや上がる。その微妙な上がり具合がハルの神経をかすめる。ぞくぞくと身体の中心に得体の知れない衝動がうごめきだす。
「じゃあ、勝とう」
「ハルさん」
「音楽やろう。バンドよ。まほちゃん、あんたの声が欲しいの。あんたの声が好きなのよ。人の前に出るのよ。あんたの前言ったような無茶苦茶な数の『大好き』をあびるの」
「そんな…」
「やってみなくちゃ判らない」
「バンドよ?」
「あたしはあんたの声に最初から犯されてたのよ。責任とってちょうだい」
ハルはそのまま、にっと笑って、まほの手を引っ張った。それが何を意味しているかまほは判った。だからまほは抵抗しなかった。別に嫌いな行為じゃない。この間、びっくりした。けれど嫌じゃなかった。
むしろ、気持ちよかったのだ。それはややハルの感じるところのそれとはニュアンスが違う。暖かくて、柔らかくて、適度の重み。人の触れているという感触。抱きしめられている「自分がいる」という実感。
そしてその相手は同じ敵に戦争をふっかけようというのだ。面白い。それがどうしてバンドにつながるのか、いまいちまだ彼女は把握できていない。だが「たくさんの大好きを浴びよう」というのは判る。あのステージの上で味わった感覚。あれなら判る。あれなら「もっと欲しい」。
だから自分はハルと共闘するだろう。ぼんやりと、だが確信めいたものを彼女は感じていた。
でも。
まほの中で一つだけ疑問が残る。
あたしはあなたの共犯者ってことでしょ。妹ではなく。
なのにそれでもあたしのことをそう呼ぶの?
*
緑が綺麗だ、と久々に来たキャンパスでハルは思う。かつてのクラスメートが、私物で残っているものがある、と連絡をくれたのだ。
ひどく学校内がよそよそしく感じる。一度自分にはもう関係ないものだ、と見限ってしまうと、見える風景も変わってしまうのだろうか、と。
預かってくれていた友達に礼を言うと、構内の大通りをふらふらと歩きだした。遠くでサクソフォンの音が聞こえる。ジャズのようにも聞こえるが、もっと実験的な音にも聞こえる。
すれ違う人達。こうも沢山の人がいたのに、自分を知っている人なぞ殆どないことに今更のように気付かされる。人前に立つのよ。妹のマホの言っていた言葉。ねーさんもあたしも人の後ついてくなんて、絶対に無理よお。だから前に出なくちゃ。音楽で、人の頭ひっ掴んででも振り向かせるのよ。
「…それは無謀…」
思わず苦笑する。やや低音が鼻にかかった声だった。今家にいるまほとは全く似てもつかない声。だが、今までその声自体を忘れていたのだ。
ざわ、と木が騒ぐ。
忘れて、いた。努力して忘れようとしても忘れられない、頭から離れなかったあの表情、自分同様、妙に忘れられないあの顔、あの声、あの姿、それが同じ音の名で呼ぶあの子が来てから、とりあえず部屋の奥に引っ込んでしまったかのようだった。
とりあえず、だ。確かに今、思いだそうとすれば、思い出せる。だが、痛みはない。
カラセに言われたことが自分への最終通告だったと思う。そしてまほへの行動で何かが吹っ切れたような気もする。
昼の鐘が鳴る。校舎から一般教養の授業を終えた学生たちがぞろぞろと学食めがけて流れ出す。ぼんやりと考え事をしていては流される。ハルは人ごみをかき分けて流れから脱出した。
と、ふと憶えのある香りがした。まさか、と振り向くと、相手も振り向いていた。メイトウだった。ハルはぼんやりと彼を眺めた。
「…よお」
メイトウは何と言ったものか、と困惑と期待の混じった表情をしていた。
以前より髪が短くなった、とハルは思った。よく会っていた頃は、もう少し形を整えていることが見え見えだったと思う。
奇妙なくらい、何も感じない自分に気付く。苛立ちすら感じない。
「久しぶり」
「お互い様」
「もう行ったと思ってた」
「まだ。今日は教授たちにご挨拶を。明日は壮行会をやってくれるって」
「…ふーん…」
ああ、留学のことで、か。そんな学内の習慣すら忘れていた自分にハルは気付く。
「それでいつまで?」
「判らない」
「決めてないの?」
「まあね。…前から行こうとは思ってたんだけど… むこうに住みたいんだ」
「そんなこと言わなかったくせに」
「…あきらめてたんだけどね」
ふっと彼の顔に笑みが浮かんだ。あれ、とハルは気がつく。こんな風に笑う男だったっけ。
「で、あきらめてはいたんだけど」
「だけど?」
「あれから、結構死にもの狂いになったんだぜ。これでも。お前と会わなくなってから」
「ああ」
そう言えば、そうだったかもしれない。ぼんやりと思い返す。他パートの友人が殆どの中で、メイトウは珍しく同じパートだった。ピアノ。つきあっていた時も、平行してピアノに関しては争ってはいたのだ。ハルは、その争う奴としてのメイトウはそう嫌な奴ではなかった、と今でも感じている。
考えてみれば、そうだった。どうしてこうも彼については苛立っていたのか…彼女が嫌になったのは、彼のライバル以外の部分だった。いっそ、つきあう云々と言われなかったら良かったと、思う。だけど、それは無理だった。この男は、初めからピアノとハル自身を別にして考えていた。ピアニストはピアニスト、女は女、というように。
どうしてそう思えるのか、ハルにはとうてい理解できなかった。確かに、毎日の授業だったり、レッスンの中ではこの男も自分を同じ楽器を操るライバルのようにして見ていたのが判る。どんなに接近したところで、そこには何もなかった。だけど、ピアノを少しでも離れると、そこにあったのは、ただの男と女、だったのだ。
「…で、ピアノでやっていける、と思ったわけ?」
「やっていける、かどうかはまだ判らないけれど… やっていきたい、と思っている」
「それはいい傾向」
ようやくその言葉でハルは彼に向かってにっと笑ってみせた。
「…本当いうと、あん時、苦しかったわけよ」
「あん時?」
「お前に別れようって言ったとき。…どう転んだって、俺はお前にピアノで勝てないのよ。…というか、才能の資質って奴が違うってのに、気がついてしまって」
「…」
「負けたくはなかったわけよ。女の子には」
「女の子に?」
「ほらそう言うとやっぱり怒るだろ?」
メイトウは苦笑する。
「そりゃ俺だって、理屈では判るよ、男だろうが女だろうが、才能のあるなしには変わりはないっての… ただ、理性が納得したって、感情が納得しないわけよ」
「感情ねえ」
「女は女として生まれてきたんじゃなく、女になるんだ、と言った人が昔いたけどさ」
「ボーボワールだよ。あたしがあんたに教えたはずだけど」
「…はいはい。女がそうだって言うけれどさ、男だってそうだって。ガキの頃なんて、小学校とかだと、大抵女の子の方が成績良かったりするじゃねえ?」
「まあ、発達は女の子のほうが早いっていうし」
「そうすると、母親とかが言う訳よ、『あんた男でしょ? **ちゃんに負けて悔しいって思わないの?』それでだんだん刷り込まれてくんだよ…母親の望む男像って奴を」
「馬鹿だねー」
「馬鹿だよ。でも、それが普通の女親らしいよ」
そういえば。ハルは自分の家を思い返す。
あの端から見たら何処か変わった両親は、自分に女であることを無理強いはしなかったような気がする。それは妹についても同じだった。「女だから」そうしなくてはならない、というのではなく、自分が生きていく上で必要なことを、一つ一つ探しに行かされたような気がする。それは大抵手探りで、だけどそれを手に入れたときには他の誰よりも自信があるような。
苦労はするだろうけれどね。
「あの子はどうしたの?」
自分達の別れるきっかけをくれた女の子のことを持ち出してみる。あの片手で缶を簡単に握りつぶす、「大人しい」女の子。
「うん。こないだ、別れた」
「で?」
何て向こうは言った? と暗に含ませて。
「馬鹿、と一発殴られた」
そう言ってメイトウは苦笑した。だろうな、とハルは思う。
「それであんな情けない電話掛けてきたわけ」
「そ」
「情けなあい」
「全く」
ぷっとハルは吹きだした。それが合図であったように、二人ともげたげたとその場でせきを切ったように笑いだしてしまった。キャンパスの大通りのど真ん中である。周りでは何やってんだ、と肩をすくめて一瞬見ては人が通り過ぎていく。
ひとしきり笑い終わると、ハルはぐっと手を突き出すと、さほど背の変わらないメイトウの肩に手を当て、わしゃわしゃと力を入れて揉んだ。何やらかすんだ、としばらく彼はハルのするがままにさせておいた。
やがて手の動きが止まったので、それでも捕まれたままの手をゆっくりと離す。と、彼はその手を見てびっくりした。
「…手」
「へ? 何か変?」
「…」
彼はハルの右手をとると、固くなっている関節近くのたこを指した。
「ピアノのじゃない」
「…ドラムだよ」
「ドラム」
「妹のマホが注文していったドラムがうちに届いたの、あの子が帰ってくるまで放っておいたら可哀そうでしょ」
妹の件は、彼も一応知ってはいた。彼女が学校を辞めた原因もそれだろう、とは何となく感じていた。
可哀そうなのはどっちだ、と彼は思う。
「…ずっと思っていたことがあるんだけど」
ん? とハルは首をかしげる。
「結局お前からあれをしたい、これをしたいって、俺に言ったことって、なかったんだよな。いつも俺が振り回してた」
「ああ。でもそれなりには楽しかったよ」
「そういう意味じゃなくて…」
ざっ、と風が吹いた。キャンパスの大通りの脇に植えられている大きな銀杏の木がざわざわと音を立てて揺れる。
「ぎゃ」
長い髪が束ねていても、吹き上がる風にはたまらない。一瞬髪が一面顔にまとわりついて、直すのに大変な事態になってしまった。そしてメイトウは言葉を出すタイミングを失ってしまった。
「…ひどーい」
「…」
「…何よ」
「いや、あいかわらず何もしない髪だなあ、と。荒れてるぜえ」
「…もーじき色抜いて金髪にでもしてやるわよ」
「ドラムでヘヴィメタにでも転向する気?」
「それも、いいかもね」
それも、いいかもね。
メイトウはそれじゃ、と手をあげた。
彼は本当はハルに言いたかった。
オレのことを大して好きという訳でもなかったように、お前は誰かたった一人の他は、誰も好きじゃなかったんじゃないか?
おそらくハルは答えられなかっただろう。答えたくとも、その誰かは何処にもいないのだから。
だが彼は、もう一人の「誰か」は知らない。
きっとこの先も。