6 そこにいるべき場所とは
「すげえ、怖い声だった」
小走りに店を出ていく彼らの声の中に、そんなものを見つけた時、ハルはまさか、と思った。彼らは何かに明らかに動揺しているようだった。蒼白になった顔のまま、一応顔見知りのはずの自分に気付きもしなかった。ハルは相手が自分に気付くようだったら声をかけようと思っていたが、足を速める彼らには、結局その機会を失ってしまった。
だが、その残したコトバは気にかかった。
怖い声?
カウンターには女性店員が一人居るだけだった。
「…こんにちわ… スタジオの方に女の子来ているはずですけど」
「あら? まだ残っているのかしら…」
ひとまわりくらい年上に見える店員の女性は向こうだけど、と言って貸しスタジオの部屋番号を言った。どうも、とハルは言うと、スタジオのある二階へと上がっていった。ドアのすりガラスに大きく白テープで「3」と書かれている。
灯はついている。重いドアを開ける。誰もいない?ハルは視線を巡らす。と。
「…」
目線を下に落としたとき、見つけた。
「まほちゃん…」
ぺたりと床に座り込んで、力が抜けたように壁にもたれている。そして衣服が乱れている。
「ハルさん?」
目の焦点は合うけれど、頭の焦点はなかなか定まらない。何でここにハルさんがいるんだろ。いるはずなんかないのに。呼んだって来なかったんだから。
でも。
「…ハルさん遅かったじゃないの…」
「…何が…」
その時頭の焦点も合った。目をパチクリさせながらハルを見ているうちに、頭の中のスクリーンには、ほんの十分ほど前の光景が走る。生々しい触感。がくん、と何かが崩れる感覚。
寒気がした。何でか判らないけれど、全身の震えが止まらない。
「ハルさん… やだ」
「…まほちゃん…」
「来ないでえっ!」
ドアが固く閉められる。これで声は漏れない。
何であんたわざわざオレたちのやってることに口出してくる訳?
ちょっと歌が上手いと思って…
何こーゆーおんなのこってのは、身体に言った方がいーんだよ。お嬢ちゃん頭良さそうだもんね。
ちょっと待て。まほは内心、そう呟く。
そりゃあオレ下手だわ、あんた程声出ねえわ。だけどオレたちはオレたちでそれなりに上手くやってきたのよ? それなのにいきなり代打のあんたがベストヴォーカル賞でオレたちには何もなし? オレたちっていったい何よ?
彼の言うことは本音だろう、と妙に平静な部分が呟く。
だけどまほの大半はその時本気でおびえていた。それは、直接の悪意だった。初めて受け取るそれは、思いの他、痛かった。数もあった。相手は二人で、まほは一人だった。
壁に押しつけられる。肩を押さえつけられる。動けない。もがこうとすると頬を手で掴まれて止められる。
近付く手。
やめて。
ハルは気付いた。このコトバは逆だ。
今の彼女は、「来ないで」といいなから、自分には、来てほしがっている。触れないで、と言いながら、自分には、抱きしめられたがっている。
あたしに触れるな。
サマーニットのよく伸びる胸元に、差し込まれる、手。
近ヅクナ!
…
「大丈夫」
ハルはゆっくりと近付いた。そしてふわりと上着をかけると、その上から彼女を抱きしめた。息が荒い。泣きじゃくった時のように、ひくひくと呼吸が音を立てる。自分の意志ではどうにもならないというかのように。
「大丈夫だから…」
そのまま十分もその体勢でいただろうか。スタジオの時間制限も近付いている。ハルはゆっくりと腕をほどく。まほの呼吸も治まっていた。
「どお?」
「…うん」
それから、ひどくしっかりした声で言った。
「大丈夫」
「まほちゃん」
「あんな連中」
「…」
「あんな連中だけど、あたしを殺した訳じゃないもの」
ハルは眉をしかめた。あの連中、というコトバはひどく冷たい。
「あたしを最後まで痛めつけることができない程度のあんな連中にやられたくらいであたしは傷つかないから」
それは何かの宣言のようにハルの耳には届き…
ハルは彼女の声に寒気が、した。
*
衣服の乱れは直せば判らなくなる。泣いたところで拭いて乾けば判らない。
だけどそれだからと言って当人が立ち直ったとは限らない。
表面上、まほは実に平静だった。ハルの目から見て判らない程度に。マリコさんは気付いたのかどうか、だけど夕食の後にはケーキがついた。何かのお祝い?とまほは訊ねた。かもしれませんね、とマリコさんは答えた。
翌日の夜、ハルはアカエミュージックまで出向いた。カラセに会うだめだった。
「あれ? どうしたのハルさん、こっちへ来るなんて珍しい」
「ちょっと…」
親指で外を示す。黒地に派手なプリントの「いかにも」洋楽ロックTシャツに彼はエプロンをつけたまま出てレジの所から出てきた。ちょっと頼むね、とフロアにいたもう一人の店員に頼む。ちっともう一人の店員は舌打ちをするのがハルの目ににも映った。
どうしたの、と笑って訊くカラセを見て、ハルはああこれは知らないな、と思った。知っていてこういう表情のできる奴ではない。
ウィンドーの前でハルはざらっと前日の出来事を話した。
カラセは冗談? とつぶやき、本気で怒っているハルの目を見て… 表情を曇らせた。
「知らなかった」
「うん。あなたはそうだと思った」
「あれから全然ユキタカと連絡つかなかったから… だからと言っちゃ何だけど…」
「あれから… ってコンテストから?」
「うん。電話したんだけど、いつも居ないのよあいつ」
カラセはかりかりと頬をひっかく。
「あのさハルさん… うちのバンド、分裂するかもしれない」
「分裂? 解散じゃなくて」
多少の皮肉も込めて。だが彼はそれには気付かず、
「うん。オレはヤナイとはやりたいし、もともとエジマはユキタカと仲がいいし」
「それだけ?」
「…ううん」
首を横に振る。
「女の子ヴォーカルのバンドにしたいんだ。…いや、あんたのまほちゃんじゃなくとも、とにかく女の子の声」
「あの子は駄目よ。判ってるでしょ」
間髪入れずにハルは言う。
「判ってるよ。…昨日のようなことがなけりゃ彼女誘ったけど… あんたが言ったことが本当だとすれば、無理に誘えないでしょ」
「そうよ」
「でもさハルさん、あん時はどうしてもヴォーカルが欲しかった。それでああいう結果が出たのは仕方ないじゃない」
「そのことについて責めてなんていないでしょ。問題はその後」
「…相談してみるよ」
「何を」
容赦無くハルは切り返す。
「あんたが言ったことも含めて、バンド全体のことも」
「前は曲の方を変えたいって言ってなかった?」
「最初はね。でも」
「でも?」
「あの子のステージでの声を聞いて気が変わった」
「だってそれより前でもよくスタジオで聴いてたじゃない」
「あの子はスタジオとステージでは別人だよ? 気がつかなかった?」
「気はついてた」
そう。気はついていたのだ。あそこが彼女の居るべき場所だ、とハルもあの時判ってしまったのだ。それがまほの何処からくるものかは知らない。だけど、あの声は。
「ああこういう風にもできるんだ、って、あん時彼女の声で判ってしまったのよ」
「曲が」
「うん。オレの曲って、どーしても伸びる高音が欲しいらしいのよ。活きる訳だ。よく判った。いつもユキタカにもどかしかったのはその部分で… あいつあんまり高音強くないし、お洒落っぽく歌うタイプだからさ。エジマの曲なら合ってるけどね、オレの曲だと… そう思いつつもずるずるって」
「惰性?」
「惰性、ね。きついよそう言われると。バンドって何、て問われて、音楽だけのためにあるんじゃないって… ついそう言いたくなるじゃない」
「そうなの?」
「オレは『バンドを』したくて始めたの。『音楽』じゃなかった筈なのよ。曲作りも音楽の理論もその後でさ… ただ好きだから始めたら、欲が出てきたと」
「欲?」
「バンドのための曲だったはずなの。オレの場合。だから、ユキタカがヴォーカルなら、ユキタカの声でできる曲を考えて… そうしなくちゃならなかったけど… だけどそれだけじゃ済まなくなったってこと」
「曲の方が力を持ってきたってこと?」
「うん」
カラセはぺたんと店のウィンドーの前のコンクリートに腰を下ろした。ハルはその隣に適当な距離をとって座る。
「初めは人が音を選んでたのに、いつのまにか音の方が人を選んでる」
「音は魔物だもの」
「あんたの妹のマホちゃんもそう言ってたよ」
「マホが?」
ハルは反射的に顔を上げた。
「冬が来る少し前にさ、ひどく陽気だった。結局その日がオレ彼女に会った最後だったけど、メトロノーム持ち込んで太い方のスティックで延々一時間ばかり2ビートと2バスのエクササイズ続けてて、よく続くなあと思ってた。次の予約しながらどうしたの、と聞いたら、そういう意味のこと言ってた」
「…何で…」
「さあ。そこまでは判らないけどさ。誰にも言いたくないことって、誰だってあるじゃん。それがどれだけ仲がいい奴でもさ、仲のいいきょうだいでも」
「でも知りたかったわよ、あたしは」
「ハルさん」
「あたしの前であの子はいつも自信一杯で、絶対に弱音なんか吐かなかった。いつかあの子はコンサートマスターで、あたしの弾くピアノとオケで合わすって…」
ふう、とカラセはため息をつく。
「それじゃ嘘だ」
ばくん、と心臓が掴まれる感触。
「いつも、なんて人間ある訳ないよ。マホちゃんは絶対何処かで無理してた。あんたあの子のドラムの音聞いたことないからそんなこと言えるんだ。あの子の音はいつもひどく苦しそうだった。一応教える奴が奴だったからハードロック的なフレーズばっかりだったけれど、あの子の音は思いっきりパンクだったよ、本当の意味で」
「本当の? 本当も嘘もあるっての?」
「音が、パンクしてたんだってば。まとめあげるなんてこと何も考えてねー音って奴。ただただもうひたすら壊せ壊せ壊せって感じの音で。この人いったい何に怒ってるのって、時々漏れてくる音に客が聞いてきたこともあるよ」
「壊せ…」
「あの子は何処?ハルさん。隠してるよね」
「…冬の… 飛行機事故は知ってる?」
「…そう…」
カラセはうなだれる。やっぱりね、と彼はつぶやく。
「もう関わらない方がいいね。お互い」
カラセは言った。ハルもうなづいた。
*
「選挙? そんなものあったっけ」
日曜の朝、唐突にそんなものがあったことを指摘される。マリコさんはひらひらと選挙ハガキを振る。
「あなた一応選挙権あるでしょう?」
あれ? と記憶をたどる。よく考えたら、つい最近「お誕生日」のお祝いをしたばかりだった。二十歳になってしまったのだ。
よく考えたら、最近キッチンのクリップボードにずっと二枚の選挙ハガキがくっつけられてはいたのだ。マリコさんは律儀にも、選挙というと必ず出かける。学生の頃からの習慣だという。
「ああ忘れてた」
一方のハルは、全く興味がなかった。最近めまぐるしくて、自分とまほのこと位しか考えてる暇がなかったので、選挙があるということ自体忘れていたし、自分の年齢も忘れるところだった。
「まあ気がむいたら行って下さいよ。棄権票でもいいんですって。でも無視するってのは、権利を放棄したのと同じですからね?」
「はいはい」
よく考えたら、御近所には選挙の看板が立っている。ベニヤ板で作られたマスに仕切られたそれには実ににこやかな修正写真が貼られている。
ハルは御近所のコンビニに雑誌を買いに行ったついでに修正写真のオンパレードをちら、と見たが、マリコさんが投票しそうな顔つきの候補はいなかった。
さてどうしようかな。ハルは一応ジーンズのポケットに選挙ハガキを突っ込んではあった。まあいいか、と会場へ向かって歩きだした。
夕食は、今年最初のそうめんだった。同じものでも、これまではにゅうめんであった。洗い物が楽でいい、とマリコさんは言う。
ここの所、平穏な日々が続いていた。カラセは本当にあれっきり、全く音沙汰がない。ハルもドラム関係のものは別の楽器屋へ出向いている。
まほはここの所の生活同様、平穏だった。少なくともそう見えた。だが、時々何処か不安定になるらしく、意味もなくごろごろとじゃれつくことが増えた。
ハルは言葉では暑いよ、とか言いつつ、何となく気分のいい自分にも気付いている。彼女に甘えられるのは悪い気分ではない。気温が日に日に上がっている。梅雨ももうじき終わりだろう。雨の上がった後の空の色は鮮やかに、高い青である。
「ごちそうさま」
手早くマリコさんは食器を片付ける。TVをつける。
「あれ? 大河ドラマの時間がずれてる」
NHKの大河ドラマは八時四十五分までなのに、とまほはTVと時計を見比べる。まだ八時半だった。なのに画面には既に真面目なキャスターの上半身が映っている。
「…ああ、今日は選挙があったから、そのせいでしょう」
キッチンからマリコさんの声が届く。
「選挙?」
「県議会関係みたいよ」
最近引っ張り出したオセロゲームの盤をハルはサイドテーブルに置いた。単純そうなゲームなので、割と簡単に熱中できる。世間ではファミコンが普及しだした頃だが、ハルはTVゲーム関係は興味がなかったし、まほはもともとゲームセンター関係は縁がなかった。
マリコさんは… というと、この人は一見ゲームと無縁そうに見えるのだが、実はゲーム一般について強かったりする。つまりは論理的思考力が強いので、コツを掴むと自分のペースに持っていくのが速いのだ。
そんな訳でオセロゲームをしたところでマリコさんにこの二人がかなう訳がない。対戦するのは専らこの二人だった。今の所ハルが26戦中15勝、まほが11勝である。だが、マリコさんに言わせればどんぐりの背比べということだが。
ぱんぱん、と駒をひっくり返す音がキッチンのマリコさんにも聞こえる。その音に混じってTVの音も。やはりNHKでは退屈らしく、他局に変えたらしい。バラエティ番組の「笑い声」が聞こえてくる。
と。「笑い声」のすき間から電子音が聞こえた。マリコさんはびくん、と身体を固くした。この音。
「あれ? ハルさんニュース速報だって」
「…速報?」
ハルは露骨に嫌な顔をした。
「…飛行機が落ちた?」
「何ですって?」