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5 価値観の相違というやつ

 ひどく天気のいい日だった。そして暑かった。…ので、黒い楽器のケースを抱えるバンドマンには大変な日になった。

 地区大会、だと言う。だが出場バンドの数は結構多い。


「関東だからねえ」


 カラセは言う。出場者控え室は、大部屋にいろいろなバンドがごったがえしている。

 そしてその大半が野郎のバンドだ、とハルはその日配られた紺色の印刷のチラシと見比べて確認した。そうでなかったら、女性ヴォーカル紅一点という奴。真っ赤なふわふわした衣装とリボンをつけた女がそれよりもっと赤い口紅を厚く塗っている。

 関東地区。神奈川千葉埼玉群馬茨城… 東京だけない。


「東京は別大会があるのよ。バンド数多いから」

「そういうもの?」


とまほ。


「そういうものなのよ」


 カラセは苦笑いする。そしてギターをぴろぴろとかきならしながら、時計を見た。


「それにしても遅いなー」

「ユキタカ?」


 呼びに行ったからすぐ来るだろ、とエジマは言う。


「だけど奴はなー…」


 そう言い掛けたとき、ひどく重そうな足どりでドアを開ける者がいた。「呼びに行った」ヤナイは、足どり以上に重い声で告げた。


「…奴ぁ出れないよ」

「…は?」


 エジマは普段大して表情の変わらない奴だ、とカラセは認識していた。だが、今の彼は違っていた。明らかに動揺していた。何て言った? と問い返す。


「病院かつぎこまれたんだ」

「何で」

「神経性胃炎だってさ」


 あきれたようにヤナイが言う。


「極度の緊張でひどい腹痛起こして、オレが呼びに行った時にはアパートでのたうちまわってたんだ。…ったくあの精神虚弱児は」

「またかよーっ」


 どうやら前にもそういうことがあったらしい。


「ちょっと待てーっ… じゃあどーすんだよ?今日は当日で、ここは会場だぜ?」

「うーむ…」

「出なかったら次は半年くらい後じゃねーの!」

「演奏だけでもしときたいよなあ…」


 何だなんだ、と騒ぎ始めた三人を外野の女二人は眺める。


「どうゆうこと?」


とまほ。


「つまり、メンバーが揃わないと、演奏… 出場できないってことでしょ」

「全員いないと駄目…?」

「ここがフュージョン・バンドじゃあない限りはねえ」


 お手上げ、というジェスチャーをしながらハルは三人の方を見る。


「代理ってのは」

「ギターとかベースとかならともかく…」


 おっと失言、とハルは口を塞ぐふりをする。


「代理」


 その失言を耳にしたカラセはぽつんとつぶやく。


「そーだ代理! 代理立てりゃいーじゃん」

「ちょっと待てカラセ、誰が代理で居るってんだ?」

「この子」


とカラセはまほを指した。


「何だって?」

「この子今回の曲歌えるよ。そりゃ今回入賞しようなんて思わねけどさ、穴空けて審査員のウケ悪くするよっかマシじゃんか」

「だけど!」


 エジマはそうは思わない。彼にとっては、あの曲を歌うのは、ユキタカであるべきなのだ。上手い下手の問題ではなく。


「ね、まほちゃん、やってくれない?」

「は?」


 先ほどからの問答を聞きながら、何なんだ、と呆然としていたまほである。どうしよう、とハルとカラセを交互に見ながら、くらくらする頭をどうにか鎮めようとしていた。

 頼む、この通り、と手を合わせて懇願するカラセ。

 ハルはそれも悪くない、と思ったので、まほの言うとおりに、と言った。

 そしてまほは… 断ることができなかった。

 どうせ何にもならないわ。そうまほも考えて、ごくごく気軽な… やや期待と不安が入り交じった、曖昧な気分のままそうしたにすぎない。だが。



「それでは発表します」


 次々に賞が発表される。まず正規の賞が発表された。ぱちぱちとそのたびに拍手を送る。自分達のバンドの名はない。舞台袖でハルは嫌な予感がした。


「…おめでとう!次に部門賞。まずベスト・ヴォーカル賞に『NO-LIMIT』!」


 え、とまず反応したのはエジマだった。彼は反射的に斜め前に居たまほの方を見た。いや違う。ハルは彼の視線の正体がすぐに判った。「見た」のではない。「にらんだ」のだ。

 次々に部門賞が発表される。ギターもベースもドラムも、このバンド以外が取っている。まほは戸惑っていた。


 何であたしが。あたしはただの代役なのに。


 ハルには判っていた。審査員の判断は正しい。どう考えたって、あの曲の出来具合はユキタカが歌うよりまほが歌った方が良い。おそらくは、ユキタカびいきのエジマでも、それは認めるくらいに。

 まほはカラセに背を押されて表彰を受けた。良かったね、といいつつ彼の表情は複雑なものがあった。それはヤナイも同様だった。ハルは胸騒ぎがした。頭の中で不安な、形にならないヴィジョンが時々すっと通り過ぎる。捕まえて、正体を知らなくてはならない不安。


「ハルさあん」


 メダルと賞状を小脇に抱えて、泣き出しそうな-決して泣こうという意識はなかっただろうが-表情をしてまほが小走りでやってくる。ハルはすぐに手を掴むと自分の方へ引き寄せる。


「どうしよう、こんな…」

「いいよ、もらっといて」

「うん。一応これでうちも名が少しは知られただろうし」


 だけど目が笑ってないじゃないの、とハルはそう言うカラセとヤナイを見据える。そしてもう一人の、本来のヴォーカルびいきのエジマは…何も言わない。さっさと楽屋へと向かう。まほの方は見向きもしない。


「帰ってもいいんでしょ」


 ハルはまほを抱え込むようにしてカラセに訊ねる。カラセはうなづく。彼は彼で、判ってはいたが、複雑な気分であったことは変わり無いのだから。


「また用があったら電話して」

「ああ」


 ハルはそのまま、まほを引きずるようにしてその場を離れた。

 途中、他のバンドのメンバーが、彼女を見かけて、凄かったね、とか気にいっちゃったぜあんた、とか声を掛けていく。それに対してまほは、言う言葉が見つからなかった。少なくとも、自分がその瞬間属していたバンドのメンバーは、そうは言わなかったのだから。あははは、と軽く、力の無い笑いを返すぐらいしか出来なかった。

 ややいつもより濃いめのメイクを、落とす間もなくバスに乗った。まほは顔が落ち着かない気がして仕方がない。髪だってそうだ。別にカラセの様に色を抜いている訳でもない。多少逆立てているくらいだ。だがそんなことすら滅多にしたことがなかったから、自分が別の人間になったみたいで、どうにもむずむずする。

 そのむずむずがあったから、いつもより大胆に歌うことができたのだろう、とは思う。ハルとカラセに交互にこうしてああして、といじられた結果、鏡を見た瞬間、何かがはじけた。あ、これならどうやったっていーや、と、頭の中に光が爆発した。


 ひどく、気持ちが良かったのだ。


 ステージの、昼間の光よりももしかしたら明るいのじゃないか、と思えるくらいの光、スタジオよりずっと広いステージ、真正面の薄闇の中の、人の顔。少なくとも自分には関係ない、自分を知らない人々の顔。最初の礼儀としての拍手。だがそれはまほの身体をざわつく感触となってくるむ。

 これだけの人が見てる。少なくとも会場の半分は。視線がこちらを向いている。そして聞き覚えのあるヤナイのリズムが足の裏から伝わった瞬間、それを思いきり踏みならした。

 瞬間、こちらを向いていない客に対して、無性に怒りが湧いた。


 こちらを向きなさい!


 目を大きく見開き、リハーサルの時に見つけておいた、マイクの一番響く部分に向かって、声を投げつけた。そしてその声は観客を捉えた。捉えたことが、薄闇のざわめきの動きで判る。捉えた客という生き物の頭をわしづかみにして真っ向から歌を投げつける。コトバをはっきりと。

 まほは自分が緊張も何もせずに自分がこんなことをしたのか、バスに揺られながら、今になってひどく不思議だった。きっとメイクのせいだ。そうは思うのだが、それだけでもないとも思う。


 あそこはあたしの居るべき場所なんだ。


 ほとんど理由のない確信が彼女の中にはあった。ホール一杯に自分の声が響いた時には全身総鳥肌ものだった。そのまま頭の後ろから突き抜けるような、くすぐったいような感触が走り、天上まで飛ばしてちょうだい、と叫びたいような気分。

 それだけに、あの後の「メンバー」の視線は痛かった。


「ハルさん」


 横に座っている彼女に訊ねてみる。


「どうだった?」

「良かった」

「どういう風に?」

「…どう言っていいのかな」


 ハルはハルで言葉が見つからなかったのだ。双方とも気付いてはいなかったが、おそらくその時まほが感じていた快感は、ハルにもあったのだ。それはあの時の「声」の触感だった。始めてまほの声を聞いた時の触感だったのだ。


「気持ち良かった」

「気持ち良かった?」

「うん。今まで聞いた中で一番」


 一瞬腰が抜けた、とハルは付け足した。嘘ぉ、とまほはくすくすと笑った。



 それから一週間ほど、「NO-LIMIT」のメンバーからは全く音沙汰がなかった。そうしてようやく連絡が来たのは、さらにそれから二日後だった。ユキタカからだった。


「はい?」

『どうも自分が病気してしまって、迷惑かけました』

「いえいえ」


 会話しているのはハルである。

 ついては迷惑のおわびとお礼をしたいから、スタジオ「POP-1」へ来て欲しい、と彼は付け足した。まあ考えられないことではないから、とハルは時間を確認して約束した。

 「POP-1」は何度か行ったことがある。つまりはカラセやヤナイと時々合わせたところだ。短い期間に度々通ったんで、アルバイトのおねーさんとも顔見知りになってしまっている所だ。


「…何となくやだな」

「? どうして」

「だってカラセさんやヤナイさんならともかく…」

「まあ一応おわびとお礼、とか言ってるし」


 そうだろうか、とまほは思った。時々ハルは妙に楽観的になる。だが自分はそこまでそうはなれなかった。彼が自分にいい感情持っている筈がないのだ。それに「お礼」という言葉には二種類の意味があることも。

 だがまあいいか、まほは思った。何が起こるにせよ、ハルが一緒なら無茶苦茶なことにはならないだろう、と思っていた。実際ハルは強い。電車でかち合ったチカンに本気で怒って往復ビンタを食らわせていたこともある。最も彼女は自分に対する危害に対しては結構無関心で、専ら怒るのはまほに危害が加えられた時だったが。

 梅雨の晴れ間、という奴だった。白くてふわふわした雲の合間から夏の青がのぞいている。前夜の雨がアスファルトを濡らしている。蒸し暑くなりそうだ、と出かける二人を見てマリコさんは言った。

 傘を持っていかなくともいい、と言うのは快適なものだ。二人は特別何も持たずにぶらぶらとバスに乗ると、目的地のある所までスムーズに着いた。


「…暑いっ!」


 降りた瞬間、まほがそう言った。急に陽射しが強くなっていたのだ。


「本当…」


 降りたバスを見送っていると、向こう側にゆらゆらと陽炎が立ち登っている。真夏と言う奴が本当に間近なのをハルは感じた。早く梅雨が明けてくれればいいのに。ハルは真夏が好きだった。


「日坂さん!」


 と。

 不意に声をかけられた。そう呼ぶのは今はまずいない。その声は女の子のものだった。


「日坂さん! 学校辞めたんですって? 探してもいない筈だわっ!」


 けたたましいな、と蒸し暑い大気の中、ぼんやりとハルは思った。


 誰だっけ。


 何故か自分は人を覚えるより、覚えられる方が多い。だが別にハルが人覚えが悪いと言うわけではない。人に与える印象の問題である。


「…えーと…」

「刈嶋よう子です」


 名前を言われてもまだ判らない。よう子、よーこ…


「ああ…」


 ようやく思いだし、うんうん、とうなづく。学校の友人たちが噂していた、メイトウと現在つきあっているという子。


「あーそーか… あなた」

「…よく考えたら私と日坂さんは直接には面識がないですよね」


 刈嶋よう子は苦笑する。

 ハルはどうもこの名字で呼ばれると落ち着かない。自分を呼ばれているような気がしないのだ。

 彼女はパステルカラーのサマーセーターに、紺のやや短いタイトスカート。髪は肩くらいで、きちんとブローしてあるようだ。…このタイプはあまりにも学内に多かったんで、ハルはいちいち認識していなかったことを思い出す。

 とても、きちんとしているのだ。彼女たちが専攻しているクラシックの音と同じように。TPOをわきまえた恰好と音。大人しすぎて、個の区別ができない。


「…ちょっと時間取れますか?」


 ちょっとヨーコ、と彼女の友人らしい連れが目を見開いてどーしたのあんた、とTPOをわきまえたコトバを発する。


「時間ねえ」


 作れば、ある。だがこの女はこっちも連れが居るようには見えないのだろうか? ハルはちら、と自分の連れであるまほの方を見た。


「あたし先に行ってる。POP-1でしょ」

「道、覚えてる?」

「大丈夫だって」


 じゃいいですよ、とハルは刈嶋よう子の方へ向きなおって言う。相手の方も連れとの交渉がなんとかなったようで、連れは、今度はあんたのおごりよ、と念を押して去っていった。だがハルにしてみれば、刈嶋よう子の連れもよう子自身もあんまり区別はできていなかった。全体の色調があまりにも似通っていた。

 立ち話も何だから、と先ほど降りたバス停のベンチに腰をかけ、自販機で缶コーヒーを買った。路線バスの停留所とはいえ、なかなか人の集まる所だから、いくつもベンチはあるし、日除けもついていた。はっきり言ってハルは、彼女と長話をする気はなかった。


「…普通こうゆう時って、何処か入ったりしません?」

「普通って?」

「…」

「別に誰かが決めた訳じゃないでしょう… 話があるのはあなたなんだし。何を話したいの?」


 缶のプルを開けながらも、さらさらとよどみなく流れるハルの言葉によう子は一瞬ひるんだ。正直言ってよう子はこのタイプの人と相対することは滅多になかった。


「この間、メイトウさんと別れました」

「ふーん」

「何で、と聞いたら、『君は連れていけない』と言いました」

「連れていってほしかった訳?」

「そりゃあそうですよ。でなかったら、待ってるつもりでした」

「ほお」


 こりゃ自分にゃあ理解不能のタイプだ、とハルは思った。


「連れていってもらったとして… そこであなた何するつもりだった訳? …じゃなかったら、待っている間、何しようと思っていたの?」

「…そんなことに理由がいるんですか?」


 むっとした顔になってよう子は切りかえす。


「一緒に居たかったから、そう思ったんです。そこで何をするかなんて、その後ですよ、当然じゃないですか」

「当然ねえ」


 なるほど。


 ハルは何となく感心する。


 あたしに疲れたんなら確かにこのタイプ選ぶだろうな。


 ハルだったら彼女の言う「当然のこと」は当然じゃなくて「変」だから。他人がそうしようが勝手だが、自分がそんなことをしたら、明らかに何処か「変」である。


「だけどあなた自身のやりたい事ってあるでしょう?」

「なくはないですけど、誰かを好きになる時ってのは、それ全部飛ばしてもいいって思いません?」

「思いません」


 ハルはきっぱりと言った。


「誰かをどんなに好きになろうと、あたしはあたしのしたい事を最優先させるし、それをそうさせないような奴だったら、容赦なく切るからね」

「だからだわ…」


 珍妙な生物を見るような目でよう子はハルを見る。


「日坂さんって冷たい」

「冷たいで結構」

「だからメイトウ君にも捨てられるのよ。あなたみたいなひと、絶対結婚できないわっ」


 は?


 何か一瞬、聞き慣れない単語を聞いたような気がして、ハルは思わず飲みかけた缶コーヒーを流し間違ってしまい、せき込んだ。

 よう子は一気に自分の手にあったジュースを流し込むと、ピアニストの、握力の強い手でスチールの缶を握りつぶした。そういうことができるとは思ってはいたが、さすがにこの恰好の子がやると何となく怖いものがある。


「もういいですっ。何であのひとが私と別れたかよく判りました!あなたのような人に慣れてちゃあの人もロクな女としかこれから会わないでしょうねっ」


 そして握りつぶした缶を勢いよく缶入れに叩き込んだ。がぽん、と厚手の缶入れにぶつかる妙に大きな音が聞こえて、ハルは背筋がゾッとした。

 はあ。内心ため息をつく。あの女はどういう思考回路しているんだ…

 よう子のように自分のことを考える人がそれなりにいる、ということも知ってはいた。だが、こう露骨に悪意をぶつけられると、どう反応して良いのやら判らない。しかもその悪意の最大の理由は、メイトウではない。ハルが自分と違う価値観の人間だから、悪意を持っていた… 少なくともハルにはそう感じられたのだ。

 自分が時々周囲から浮く、と感じることがある。それは特に男女の恋愛関係について話すときなのだが、集まってわいわいと遊ぶ友達の話に、同意を求められると辛い。

 あいづちであれ何であれ、「どうしても同調できない」ことというものはあるのだ。自分はどんな時でも、相手と同等でありたいと思っている。それは相手が男であろうが女であろうが同じである。自分は女である前に人間なんだから。

 だが、友達は無意識に言う。彼があの色の方が似合うって言ったから… 最近会ってもキスの一つもしてくれないの…

 「…してくれない」というのは、「…して当然」という意識の裏返しである。そこに相手に対する甘えがある、とハルは思う。甘えは「媚び」のようにも映る。では何故媚びなくてはならないのだろう。別に自分が自分であれば、誰かに媚びる必要なんてないのに。


 だってあの連中は楽したいんだもの。


 妹はずばりそう言った。


 ただねーさんはねーさんで、楽したがってんのよ? 判る? だってあの連中は媚びを売ることに何の苦もないけど、ねーさんにそんなことしろなんて言ったら殴られかねないわよお。


 そんなことはない、と言ったら、絶対そお、と妹は言い返した。


 永久就職とはよく言ったものよね。あのひとたちは責任って奴を全部背負ってくれる雇用者を探しているのよ。


 じゃああんたはどうなの、とその時聞いたら、妹は答えた。


 あたしはあたしの王様だから、あたし以外の人間に責任取らせるなんてごめんよお。責任を売り渡したら、その代償に何を要求されるやら。確かに代償を期待しない愛情って奴もあるかもしれないけど、とりあえずあたしにはまだ経験不足で判らないもの。


 代償を期待しない…

 自分は妹に代償を期待してたのだろうか?

 していた。それはおそらく無意識のものだったろうが、確かに存在した。今なら判る。自分が行く方向に必ずいてほしい、と期待していた。

 だが必ず、ということはありえない。少なくとも自分はそう言葉にしていない。相手に伝えていない。それでそうしてくれ、なんて虫のいい話だ。勝手に自分でシナリオを描いて、相手がそうしなかったからと怒っている。悲しんでいる。滑稽だ。ただの馬鹿に過ぎない。

 相手の返事が判っていたから、というのは言い訳にはならない。そういう相手に対して、それを期待すること自体はともかく、何の努力もしないのなら、ただの空回りに過ぎないのだから。

 それが判っていて。

 どうして、とハルは自分に問い返す。それが甘えなんだ、と妹の声で責める声が聞こえるようだった。

 残った缶コーヒーを飲み干すと、無意識に缶を片手でつぶし、やはり最寄りの缶入れに放り込む。かぽん、と気の抜けた音がした。

 まほは。そしてもう一人のことを思い返す。彼女は。

 期待はしている。


 妹の代わり? 

 それだけ? 

 違うでしょ何かまだあんたはあの子に期待しているのよ。

 あんたは妹と別の意味であの子に惚れ込んでいるのよ。

 顔?

 身体?

 性格?

 それとも声?


 声。


 自分の中の反対側が質問をひっきりなしにぶつける。それに合わせて急激な勢いでハルは答えを返す。


 声よ。それが最初だし、あの声じゃなかったら警察へ連れていったわ。

 あの子の声が、あの最初の朝に聞いた声がどうしてもまた聞きたかったのよ。

 ステージの上に上がった時のあの少し不安定な、上ずった声、決してクラシックの上手、なんてものとは似ても似つかないけれど、だけどあの瞬間、あの子の声はあたしをわし掴みにしたのよ。

 掴まれた後がうずいて、あたしはそれをまた求めてるのよ。


 文句を言うな、とハルは自分の中のもう一人に命ずる。見返りは、求めてる。あんたが何を言おうと、それはごまかしゃしない。あの子にそのことを告げてもいい。あんたの声があたしには必要だから、そばに居て。何でもするから、一緒に音楽をしよう。


 欲しかったのは。

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