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3 「大好き」を浴びられたら

「あ、日坂さんじゃない」


 珍しい呼ばれ方にハルは振り向く。市内で最も大きいレコードショップのフロアの真ん中。高い天井には飾りのファンが回り、四隅には大きなスピーカーが置かれ、かかっているのはUK・ヒットチャートでトップを取っていた曲だったような気がする。


「オレオレ、忘れちゃった?」


 高くも低くもないありふれた声だが、妙に人なつっこい。にこにこと笑っている、その目元には見覚えがある。


「前よりも髪の毛明るい色になったんじゃない?」

「そうなのっ。もうじきコンテストが近いからさあ、なるべく目立つ恰好にしようってバンドの意見がまとまりまして」

「はあ」


 どうやら改めてブリーチをしたばかりで御機嫌になっているようであった。

 アカエミュージックの店員兼何処ぞのアマチュアバンドでギターを弾いているという彼はカラセと名乗った。遣唐使の唐に「瀬をはやみ…」の瀬、と何やら意外な例えを出してくる。正直にハルはそう感想を述べると、


「やー、高校んとき、日本史だけ良かったのよ」

「…珍しい」

「どおして?」


 どうしてと聞かれても、とハルははたと困った。確かに日本史が良くてロックバンドをやってはいけないという法はない。


「で日坂さん、今日は一人?」

「いや、連れがいるけれど」

「あ、それじゃお邪魔だね」


 そう言って立ち去ろうとするので、ちょっと待て、と彼女はカラセを止めた。どうやらこのなかなか髪の色と同じくらい明るい男は誤解したようだ。


「別に連れは野郎じゃないよ」


 あ、なんだ、と彼は向けかけていた背を元に戻す。ほれ、とハルは彼の後ろから近付いてくるまほに手を挙げる。


「あれ」

「ハルさんお知り合い?」

「ちょっとね。ほら、うちのドラム買ったトコのひと」

「あ、楽器やってる人」


 カラセはにこっとまほに向かって笑い、可愛いねえ、と言った。するとまほは、


「はい?」


 とっさにそう聞き返した。そしてきょろきょろとあたりを見渡す。特にまわりに「可愛い」に値するものが見あたらないことを確認すると、自分? と指さして彼に問い返した。カラセは不思議そうな顔になってうん、とうなづく。

 まほは困ったような表情でハルの方を見る。


「どうしたの?」

「あんまりそおゆう冗談は好きじゃない」

「冗談? オレそーゆうことは冗談言わないのよ?」

「だってあたしが可愛いってのは冗談に決まってるじゃないの」

「こら」


 ハルはぽん、とまほの頭を叩いた。


「言われたことない?」

「ある訳ないじゃない」

「うっそお」


 カラセは肩をすくめてやや大げさに驚いた。その動きにはやや芝居がかったものをハルは感じたが、彼はどうやら行動全体がそういう傾向があるらしい。


「んじゃあ、よっぽど今まで会った奴って目ぇ悪かったんだ」

「…」


 まほは困る。何が困ると言ったって、誉められた時の反応ほど困るものはない。学習不足という奴だ。

 自分が努力して得られたものに対してなら、ある程度は判るような気がするのだが、ただ自分であるだけで誉められてしまうものに対しては、どういった反応を見せればいいのか判らないのだ。「見せればいいのか」という問いかけをする時点で何かずれているのだが。


「そのくらいにしといてよ、この子あまり野郎には免疫ないんだから」

「あ、そ」

「それより今日は何しに来ているの? 店は休み?」

「あ、今日は自主的に休み。久々に練習があるんで」

「この辺にスタジオってあったっけ…」


 正直言ってハルはそういう店関係にはそう詳しくはない。


「何言ってんの、ここの4階がリハスタになってるんだってば」

「4階なんてあったんだ…」

「このビル、この店のものだから」


 それで有効利用しましょうって訳ね、とハルも了解する。確かカラセはギターをやっていたと聞いたことがある。あれは妹の話をした時のことだ。


「どういうのやるの?」

「何? 曲?」

「傾向」

「…傾向ねえ。まあ歌ものだけど」

「Bとか好き?」


 ハルはこのレコード屋でもチャート入りしている邦楽ビート系ロックバンドの大物の名を挙げた。好きは好きだけど、とカラセは言う。


「やっぱすげえよ。あそこはヴォーカルもギターも恰好いいし、ベースはもう不動の恰好良さってのがあるし、で、『楽しいドラム』でしょ?ちょーっと、あそこを越えるってのは難しいわ」

「抜きたい?」

「そりゃあバンドしてりゃあある程度目標だあね」

「へえ」

「何だったら、練習見にこない?」

「え」


 カラセの視線が瞬間自分の方に向いたので、まほは思わず声を立てた。とっさの事には弱そうな彼女を見てハルは、彼に訊ねる。


「今日?」

「そお、今から」

「…どうしようかな」

「うちの連中も、女の子見ていた方がはりきるし」


 …


 ハルは一瞬頭の中に火花が散ったような気がした。火が点く前に今は退散した方がいいな、と冷めている方の自分がつぶやく。まほの方を見ると、不安半分、期待半分、といった顔になっている。


「今日は止めとくわ。でも今度行ってもいいかな?」

「うん。どーせうち位じゃひっついてくる女の子なんていないから、とーっても安全だよ」

「? 何、ひっついてくる女の子のいるバンドもあるの?」

「…そりゃあある程度は何処もねえ」

「…ふーん。じゃあ次決まったら連絡くれる?」

「電話でいい?」

「あたしはいないかもしれないけれど、家には誰かしらいると思うから」


 そう言ってハルはバッグから手帳を出すと、電話番号を書いて、そのページをピッと切った。


「じゃ、決まったらできるだけ早く電話するね。えーと」


 まほの方を向いて、何ていうの?と名前を訊ねた。


「ハルさんはまほって呼ぶわよ」

「まほ…?」


 ハルはじゃあまたね、とまほの手を掴んで、カラセに背を向けた。まほがカラセの表情に気付く前に、ここから立ち去りたかったのだ。何もそんなことしなくとも、この先彼に関わるようなことがあれば、彼は問うだろう。それは判ってはいたが。



「バンドかあ…」

「キョーミある?」


 デパートの中に入っているデザイナーズブランドの服を見ながら、まほはふと思いだしたようにつぶやいた。


「キョーミはあるわよ、もちろん。やったことないし、でも音楽は… ロックは好きだし」

「メンバーがいたらやってみたいと思う?」

「…うーん」


 黒のびろうどの服を手に取りながらまほは考え込む。


「あたし、楽器関係全然できないし、それに『メンバー』と一緒にいる自分って思いつかない」

「どうして?」

「人と一緒にものごとするっての、凄く難しい気がする」

「そりゃあそうよ」


 ふと思いついて、ハルはまほの手を引っ張って、同じデパート内にあるチケットカウンターまで連れて行った。カウンターの横には現在発売中のチケットの内容がマジックで書かれた色紙がぺたぺたと貼られている。


「…」


 ハルはしばらくそれを眺めていたが、やがてお、とその一つに目を止めた。

 見覚えのあるバンド名。確かまほの選んだ中の一つだ。その下に書いてあるのはどう見ても「会館」とか「ホール」といった単語はついていない。それでいて割合近い。


「すみません…」


 あっさりとそのバンドのチケットを購入するハルをまほはあきれて見ている。いったいどうしたっていうのこの人は。


「行こうね」


 そう言ってチケット屋の袋をひらひらと彼女の前で振る。


「…うん」



 そのライヴはチケットを買った三日後だった。

 何処かと思ったら、カラセと会ったレコード屋の隣の隣の、地下だった。こんな所にライヴハウスがあるなんて知らなかった。最もハルはライヴハウスの存在自体も知らなかったくらいなのだから当然ではあるが。

 二人ともジーンズにTシャツ、それにジャケットという程度の軽い服で、ほとんど手ぶらだった。包帯を外したまほの手首には、同じデニムのリストバンドが巻かれている。

 開場時刻より三十分早めに行くと、既に地下に続く階段には何人か座り込んでいた。Gジャンジーンズの少女もいるし、皮パンツにTシャツもいる。髪も長いのもいれば、中学生らしく、短すぎる奴もいる。どう見ても高校生の、可愛らしい服を着た女の子が煙草をふかしている。あ、似合わねえ、とハルは思った。

 この日ライヴがあったのは、「フォスター・マザー」というバンドだった。一応ハルもまほのすすめで「予習」はしてきている。だが、レコーディングされ、パッケージに入った音は、ライヴとは違う。


「フォスター・マザーってどういう意味か知ってる? ハルさん」

「ただのお母さんじゃないことは確かよね?」

「育ての母って意味なの」

「…へえ」


 一瞬まほの表情が曇った、ような気がした。



 開場しても、一部の少年少女を除いて、前の方に行こうとしているという訳ではない。少しだけ高くなったステージには、所狭しとばかりに器材が置かれている。

 カウンターバーでは厚手の無地のエプロンをかけたウェイターがチケットと引換にくれた券をオレンジジュースやカルピスソーダ、ビールと言った飲物に換えている。


「何か飲む?」

「後でいい」


 まほは答える。


「ライヴの後の方が欲しくなるんじゃないの?」

「それもそうね」


 ハルはドリンク券をポケットに突っ込む。

 ただ待っているというのはなかなかしんどいものだ、とハルは思う。あちらこちらで煙草の煙。しゃがみこんでいる中学生くらいの少女。ステージ横に置かれている、大きなスピーカーからは、あたりさわりのない音楽が流れている。

 照明はあまり明るくないから、そばにいるまほの表情がようやく判る程度だった。ステージには青い照明が下の方から沸き上がっている。

 お喋りな少女達の噂は、案外今日のお目当てとは違ったものだったりする。仲間うちの噂や、学校のこと、そうでなかったら最近聞いた音楽や行ったライヴのこと。追っかけている別のバンドの恰好いいギタリストのこと…

 「開演時刻」を15分ほど過ぎた頃に、いきなりスピーカーの音楽が止まった。そして暗転。何ごと、とハルはステージの方を向く。と、背中からぶつかってくる気配。突然のことに慌ててバランスを崩し、まほの肩を借りてしまう始末。男か女か判らないが、客の一人が前列めがけて突進してきたのだ。

 そして次の瞬間、ライトが点いて、ステージにはヴォーカル以外のバンドのメンバーが既にいた。カウント4のハイハットの音が響き、ギターとベースの音がはじけた。

 それを合図のように、ヴォーカリストが右側から飛び出してきた。女性だ。ややハニーブロンドに染めた髪がゆるくウェーヴしている。それはライトに当たっていっそう輝く。普通の女性よりは濃いめのメイクだ、とハルは思う。太めに描いた眉がきりっとしてよく似合う。


「*******!」


 ヴォーカリストは曲のタイトルを叫んだ。



 暑い、とまほは甘えるように言った。

 本人は気がついていないが、それは確かに甘える口調だった。ハルはハルで、いつのまにか前の方に固まっている客の中に飛び込んでしまっている自分に気がついた。そして狭いライヴハウスの中で、換気もよくない中で、はっきり言って身体の方はかなり気分が良くない。でも、気分は良かった。どうして身体の方がついていかないのか、と自分に怒りたくなるくらいに。

 二人はポケットの中でよれていたドリンク券をスポーツドリンクに換えて一気に飲み干していた。


「…はー疲れたあ」

「ハルさん年?」

「ばーか」


 ぐしゃぐしゃ、とハルはまほの髪をかきまわした。彼女も汗だらけだった。髪の中までじっとりと濡れている。


「でも気持ち良かった」

「あたしも」

「一度だけコンサート、で県民会館に行ったことがあるんだけど、その時はその時で気持ち良かったと思ったんだけど」

「だけど?」

「何か今日の方が気持ちイイ」

「うん」

「ハルさんは?」


 そうだね、と残っていた氷を一つ口に含む。そしてある程度溶けてから、


「クラシックもジャズも行ったけれど… あたしはこっちの方が好きだ」

「でしょお?」


 薄暗い店内でもはっきり判るほど、まほは口の端で笑ってみせた。笑い猫の笑いだ、とハルは思う。彼女にしては珍しい。


「何、まほちゃんあんた予想してた?」

「ハルさん絶対ロックの方が合ってる」

「どおして」

「大人しいハルさんって、いつも見ている気はするんだけど、妙」

「…妙?」

「あの部屋でめちゃくちゃにドラム叩いてるハルさんの方があたしは見てて楽しい」

「見てるの?」

「見てても気付かないくせに」


 そう言って、溶けかけた氷を一つ口に含んで、噛み砕く。

 はて、そうだったか。ハルは頭をぐるんと回して記憶をたどる。そういえば居たような気もするが、そういう時はどうでもいいことだったんで、放っておいたような気もする。


「ピアノも、クラシックなハルさんも、あたしは知らないけれど、ドラム叩いてるハルさんは、気持ち良さそうだもん」

「…そういうあんたは?」

「あたし?」

「好きなものってないの?」


 まほは首をかしげる。


 はて。何かあっただろうか。


 あまりたどりたくない記憶の中の安全地帯に触手を伸ばす。…そんなことをしているうちに、ライヴハウスの店員が時間だ、と告げる。中で火照る身体をさます少女や、再会を喜ぶ少年たちはいっしょくたにされて掃き出される。

 行こうか、とハルはまほの手を引っ張った。まだ軽く汗ばんでいる。



 通りに出ると、向かいにコンビニエンスストアが見えた。まだ喉が乾いている二人はそちら方面へ向かう。信号は赤。

 夜の信号はにじみだした絵の具より鮮やかだ。昼の光の中ではあんなに所在すらはっきりしない人工の光が、この夜の中ではひどく誇らしげに見える。

 信号が変わる。歩きだそうとした瞬間、止まりきらなかったスピートのまま、一台の車が彼女達の目の前を過ぎていった。止まっている車が、何やっているんでえ、とクラクションを鳴らす。


「はあ」


 向こう岸にたどりつくと、急に思い出されて、汗をかいた身体に寒気が走る。あー全く、とか言いながらハルは無意識にまほの肩を抱いてコンビニへと入っていった。飲物、お菓子、夜食… かごにいろいろ入れているうちに、すれ違う人の視線に気がついた。


「…何なんだ一体… 人のころとじろじろと…」

「だってハルさん目立つもん」

「はい?」

「ハルさん大きくてスリムだし、美人だから」

「はあ」


 どう言ったものだろう。否定してもいいんだが、どうやら、まほの言い方からすると冗談ではないらしい。と、すると。

 ハルは自分の容姿という奴に改めて気がついた。



「何ですか、今まで知らなかったんですか?」


 ハルは思わずテーブルにつっぷせてしまった。

 帰ってから、お茶をすすめるマリコさんにコンビニでのまほとの会話のことを話すと、あきれたように彼女はそう言って、何を今更、とあっさり付け加えた。


「はい?」

「てっきり知ってるかと思いましたがね」

「別に知っても知らなくともどうもなる訳ではなかったからね」

「ほお」


 マリコさんは片方の眉をあげると、彼女にしては珍しく口の端で笑った。


「では知って今はどう思います? やっぱりどうでもいいですか?」

「うーん」


 どうでもいい、という感覚ではなかった。


「…でも何かひっかかる」

「引っかかりですか」

「そ。引っかかりなのよ」


 だが何に引っかかっているのか、まだ形が見えない。

 最近はそんなものばかりだ、とハルは思う。ドラムを叩いている自分にしたって、まほをそばに置いている自分にしたって、実際「何故」そうしているのかは、ハル自身にも判らないのだ。

 あんな感じだ。高校の時の、美術部の友人の手を思い出す。

 その友人は、とにかくよくデッサンを繰り返していた。暇な放課後に美術室に遊びに行くと、特に受験だのコンクールだの関係もないのに、前方2~3m地点に何かしら置いて、その形を写し取っていた。

 ところが、その彼女の描き方は、ハルには珍しいものだった。とにかくはじめは、手にしている鉛筆なり木炭なり、めちゃくちゃに紙に走らせるのだ。

 もちろん紙は真っ黒になる。そしてそれを一度ざっと消す。ガーゼではたくだけのこともある。そしてさらにその上から、今度は一応形のようなものを取っていく。

 ただし、それは決してその目の前のものには見えない。前にあるものが「りんご」なら、「丸」程度だ。そしてまた消す。それをひたすら繰り返し、やがて彼女の手は「消す」線と「消さない」線とを分けていく。

 とんでもない手間だ、とハルはよく思った。皆美術関係に行く連中はそういう描き方をするのか、と訊いたら、さあ、と答えた。


「もっと簡単に『本当の形』を捕まえるひともいるけど」


 自分は不器用なんだ、と。八分通り完成しても、その時点で「違った」ら、全部消さずにはいられないんだ、と。


「不器用なのよ」


 彼女は繰り返し言っていた。自分のような描き方をしていたら、絶対に美術関係の大学の受験には通らないのだ、と。時間制限のあるデッサンは苦手だから、と。

 でも、と彼女はそれに付け加えた。


「あたしはただ本当の形を感じとりたいだけなのよ。目に映るそのものを」


 そうかもしれない。

 デッサンの、今は途中なのかもしれない。まだ最初の、ぐちゃぐちゃで訳の判らなくなっている紙の上に、可能性のある線を少しづつ入れている状態なのかもしれない。

 自分は自分でどういう絵を描きたいのか見たいのかもしれない。


「ハルさん?」

「あ、何?」

「まほちゃんは?」

「疲れたからお風呂入ってすぐに寝るって… そりゃ疲れるだろうな」

「あなた元気ですね」

「放っといて」


 だがまだ寝てはいなかった。部屋の方から灯がもれている。ひょいと顔をのぞかすと、洗い立ての髪をまだ乾かしてもいない彼女が居た。


「あ、ハルさん」

「まだ起きてたの?」

「足痛いーっ」

「筋肉痛? あんなぴょんぴょん飛び跳ねてたからだわ。あとでマリコさんに診てもらおうね」

「うん」


 素直にうなづく。


「でも楽しそうで良かった」

「うん。嬉しい。何か、すごい久しぶり」

「久しぶり?」

「うん。何か知らないけれど『わくわく』する」

「『わくわく』」


 乾かしかけていた髪をくしゃくしゃとバスタオルで拭きながらまほはうなづく。ハルはその様子を見ていたが、しばらくして、ちょっと貸して、とそのタオルを取ると見ていられない、と言うようにわしゃわしゃと一気に彼女の髪の水気をとりはじめた。

 何何、とまほは一瞬たじろいだが、人に髪をあれこれされる感触はなかなか気持ちよく、やがてじっと、彼女のなすがままになっていた。

 タオルがやがてドライヤに変わる。暖かい空気が頭から首まわりにただよい、何となく眠くなってきそうである。


「こら、眠るな」

「んー」


 ベッドの上に乗っかって、後ろから風を当てていたハルに重みがかかる。


「だってあったかくて… だーっと足は重いし…」

「だけどまだ駄目」

「もー」


 ごろん、とまほは後ろへ倒れかかる。あらららら、とハルもそのままバランスを崩してしまう。ハルの胸の上に仰向けのまほの頭があった。


「こらこら」


 ドライヤを止めて、よいしょ、と眠る寸前の重い身体を押し上げる。ぽかぽかとまだ暖かい身体は、いつもより柔らかく感じる。だかどうにもくっついたまま離れそうにない。実はこの子酔ってるんじゃないか、とふと思ってしまうくらいだった。

 正直言えばそれに近い。眠る寸前で、半ば抱きかかえられている状況も、自分が何言っているのかまほもいちいち把握してないのだ。


「まーったく…」

「ハルさんって気持ちイイ…」

「はいはい」

「でねー、今日のライヴも気持ち良かったのお」

「そうだねえ」


 何が良かったの、とハルは訊ねた。


「何と言っても判らないけど」

「何かあるでしょ」

「大声でうたった」


 歌った? ハルは記憶をひっくり返す。確かに何かぎゃーつか叫んでいたようだったが… そうかあれは歌っていたのか…


「歌うの好き?」

「好き。大好き」

「人がたくさんいたじゃない」

「別にそんなモノ怖くないもの」

「そお?」


 喋りながら、何となくゆらゆらと自分が彼女をゆっくりしたリズムで揺らしているのに気付く。ゆりかごのように。


「怖いものなんてないもの」

「強気」

「だって、もしも人前で大声出して歌って… 調子っぱずれでも何でも… どれだけ恥かいたって何だって、別に殺されるわけでも無視されるわけでもないじゃない。どれだけ嫌われたってどれだけ笑われよーが… 笑う奴らはあたしが居るってことは認めてるってことじゃない… だったら何もこわくないもの」


 ハルは驚いた。


「…へえ」

「何?」

「結構強気」

「…だって」

「雷は怖いくせに?」


 くすくすとハルは笑う。それで眠気が少し醒めたのか、一瞬照れたようにまほは馬鹿、とハルを叩く真似をする。


「だって、だからってそれでうるさいって、あたしを殺す訳じゃないし」

「まほちゃん?」


 物騒な答だ。ハルは思う。何でそんな仮定が出てくるのか。


 一方まほは思う。


 あのひとは、歌ってるあたしが許せなかったじゃないの。あたしの声が聞こえること自体認めてなかったじゃないの。だからあたしは我慢したのよ。歌わなければまだ大丈夫かも、と思ってたから。(それは錯覚だったけどね)


「…歌うのは好き?」


 ハルはもう一度訊ねた。今度は明かに彼女を抱きかかえたまま、そして彼女もその状態に気付いたまま。


「好き」

「すごく好き?」

「好き。だって」

「だって?」

「うん、うたうこと、声出すこと、人のコトバで歌うこと、すごく気持ちイイし。それに、あのライヴの時の声」

「あのヴォーカルの?」

「ううん、歓声が気持ち良かったの。気がつかなかった? あたし気付いた。ちょっと後ろ向いたときに。あの歓声って、絶対、すごいパワー持ってるもん」

「確かにパワーは感じたけど」

「背中がね、ぞくぞく。で、あれを、シャワーみたいに、もっといっぱい、真っ向から身体全部で受けとめられたら、凄く気持ちイイだろうな、と思った」

「…へえ」


 意外だった。


「だって、あの歓声は、全部、あのバンドの、特にあのヴォーカルさんに向かって、思いっきり『好きーっ!!!!』って言ってる訳じゃない。全部が全部と言っていいくらい、あれは『大好き』という思いなんじゃない。あんだけのひとのあんだけの『大好き』を全身に浴びられたら、すごく気持ちイイと思うもん」

「…失敗とか、怖くない?」


 ゆらゆらを止めずにハルは訊ねる。


「それでも、そのひとたちはそのヴォーカルさんもバンドのひとたちも、無視しないでしょ?そこに集まってくる自分のエネルギーのぶんだけ、そのひとの動きひとつひとつ見たいじゃない。別に失敗したってそれはそれで、好きだって思えるもの。そのくらい、やってくるだけのエネルギー持ってるひとたちは、『好き』なんだと思うもの、その舞台のひとを」


 意外な程にポジティヴな意見に、ハルはびっくりした。


「…あれだけの『大好き』を浴びてみたいな」

「ふーん…」

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