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2 曖昧なバランスを崩そう

 マリコさんが外出するようになった。


 とは言え、それに気付いたのは彼女がそうするようになってから結構たってからである。「外出」というのは、「買い物」とか、「家の用事」以外で彼女が彼女だけのために、長時間家を空ける状態を示す…

 ハルはそういえばそうだったな、と気付いた。マリコさんは決して大人しい人ではなかった筈である。だが、自分のために病院を辞めてからは「大人しい」人のような暮らしをしていた。それがあまりに自然だったので、忘れていたのだ。


 そうするとハルは必然的に近くに居る子の方をかまいだす。彼女は暇は暇なのだ。

 暇は決していいとは言えない。特にハルのような、物事に理由とか目的をつけたがる人にとっては、何もせずただぼーっとしている時間というのはなかなか苦痛なのである。

 以前はその時間はピアノが埋めた。ここ最近はドラムで埋めていた。そして今は妹でない方のまほと、ロックとドラムで埋めている。雨の日は特にそうだった。天気がいいと、外へ出て何かしなくてはいけないような気がしてくる。

 しかも初夏である。梅雨が近いらしく、天気は安定しないから、天気のいい日は貴重である。マリコさんを手伝って布団を干したら、まほの手を引っ張って外へ繰り出す。買い物をする日もあるし、ただ街中をぶらつくだけの時も多い。

 話は合った。と、いうよりも、話す波長が合ったと言える。知識は合うとは言えない。ただでさえ高校生と大学生の知識の差はあるのだ。知識の差、と言うより、考えるものごとの広さという点だが。

 それでもハルはハルで、自分がどういう分野について知らなかったのか、時々彼女に驚かされるのだ。彼女は彼女で、ハルがぴろぴろと弾くピアノに感心して手を叩く。これ知ってる、と聞き憶えた曲をハルが弾くと、曲に合わせて軽く歌うことさえある。あくまで軽く、であったが。


 本気で歌ったら、どうなんだろう?


 時々ハルはそうさせたくなる。もしかしたら、あの時の声が聞けるかもしれない。だが同時にそうさせるのが怖くもあった。 


「…よく降るね」


 まほは雨が音を立てて窓に打ち付けるのに気付いて言った。


「梅雨にもうじき入るのよ。仕方ないわね」

「ふーん… マリコさん大丈夫かなあ」

「そおねえ」


 マリコさんは外出する時に行き先を言わない。別にハルも聞きもしなかったが。

 そのうちに雨足はよけい激しくなってきて、とうとう雷まで鳴りだした。雨戸を閉めても音は激しく響く。すきまから青とも紫ともつかない光が漏れる。ふと見ると、まほはどうも浮かない顔になっている。もしかしたら、とハルは判らない程度に笑みを浮かべた。時計を見るともうじき夜である。


「これじゃマリコさんも帰るに帰れないわね?」


 やや反応を求めるようにまほの方を向いて言う。そうね、と気が気でない様子で力無く彼女は答える。


「晩ごはんは仕方ない、ありあわせにしよう」

「うん」


 自分が入ると台所が滅茶苦茶になる。それはよく判っているのでハルは無駄な努力はしない。だが腹は減る。同居人を飢えさせてはいけないので、何かあるかと台所へと歩きかけたところだった。

 ばりばりばり、と音が響く。と、間髪入れず、あかりが消えた。


 停電か。


 ハルはこういう時には動じない。だいたいピアノの発表会なぞ出るまではこういう真っ暗なのだ。そして演奏中にいきなりアクシデントが起きるかもしれない。だが、それにいちいち動じていたら、何もできない。

 ゆっくりと一点を見据えていると、だんだん目が慣れてきた。自分の家なのだ。ある程度は勘も働く。懐中電灯を探さなくては。そうしてゆっくりと動きだした時、後ろで気配がした。何事、と思いながら動きを止めると、腕を両手でしっかりと掴まれた。


「居た…」

「まほちゃん?」


 うなづく気配がする。


「どうしたの? これじゃ動けないってば。灯取りに行かなきゃ…」

「やだ」


 嫌いやとかぶりを振る気配がする。髪の、リンスの香りがまとわりつく。


「…ああ、雷駄目なんだ」

「…悪い?」


 ほんの少し、むっとしたような声になる。


「怖いものは怖いんだもの」

「ふーん…」


 そういうものなのかな、とぽんぽんと背中を叩く。そしてまた一気に落ちる音がしたので、今度はしがみつかれてしまうのをハルは感じた。身体が緊張しているせいか、コットンのシャツごしにも汗ばんでいるのが判る。暑いと言えば暑い。だが別にそれは不快なものではなかった。



 ようやく停電が治まったので、バタトーストにコーヒー、という簡単な食事を取っていると電話が鳴った。マリコさんからだった。


『ごめんなさいハルさん、電車止まってしまったから、今日はこっちに泊まりますよ』

「泊まる?うん。でも何処にいるのマリコさん?そっちの電話教えてよ」

『あ、ユーキ君のところですから、あなたそれなら知ってるでしょう?』

「は?」


 思いがけないことは、起こるときには立て続けに起こるものである。


「ユーキ君のとこ?」

『用事があったんで、お邪魔していたんですよ』


 何の、と聞こうとしてハルは止めた。マリコさんはそういう言い方をした以上、「用事」としか言わないだろう。なら聞かない。別に自分はどちらも束縛している立場ではないのだ。本当にただの「用事」なのかもしれない。そうでなかったとしても…


「じゃ明日朝ね」

『あなた方が飢え死にしては困りますから、なるべく早く帰りますよ』

「無理はしないでよ」


 受話器を置くと、まほがマリコさん?と訊ねた。ハルはうん、と短く言った。


「コーヒー冷めちゃう」

「あ、本当」

「温めなおす?あたしやるけど」

「あ、そうしてくれると嬉しい」


 少なくとも、まほはその名の妹同様、台所関係は自分よりはマトモそうだった。だが妹よりは腕は柔らかなような気がする。


「美味しい。よくいれてたの?」


 コーヒーを一口飲んで、ハルは訊ねた。


「うん。少しだけいれても美味しくなるやり方ってのをハウスキーパーさんに教わったから」

「へえ」


 ハウスキーパー、ということは、母親がいないか、母親という存在が家にないか、そのどちらか。ずいぶんな金持ちというのも考えられなくもないのだが、ここしばらく彼女と暮らしてきて、自分と大差ない程度だと推測できた。最もハルだって一般から比べれは充分金持ちの部類なのだが。


「じゃあ料理もできる?」

「そっちはイマイチ。でもハルさんよりマシだと思うけど」

「こら」


 ハルは苦笑して軽くまほの頭をこづいた。二人は居間のソファに並んで掛けている形になっている。そういえば、とふとハルは考える。誰かとスキンシップをこんなにしているのは珍しかった。

 マリコさんはそういう質ではない。暑苦しいのは嫌いな人なので、なるべく距離を保っているのが彼女と上手くやるこつだと知っている。

 学校の友達は論外である。マリコさんあたりに配慮する程のこともない。だが男友達の場合はやや別で、ボディトークをする場合だってある。もちろんそれはある程度「好き」な相手だけで、夜だけであるが。

 妹はまわりの連中に比べれば、わりあいハルにくっついていた方である。だが、この家の人間は「我が道を行く」人ばかりということもあり、行動自体がばらばらであるのでそうそう物理的に「べたべた」できなかったということもある。

 では今の自分はどうしてなんだろう、とハルは考える。考えてみれば、この子を「拾ってしまった」こと自体、それまでの自分を考えれば不思議なのだ。そしてその訳ありの子をこうやって家に置いていることも。


「マリコさん何だって?」

「電車が止まってしまったから友達のとこに泊まるって」

「へえ」


 まほは小首をかしげる。そしてつぶやくような声で、


「じゃああの人のところかなあ」

「え?」

「んー… こないだ来てたひと」


 この家に「来る」ひとは滅多にいない。


「ユーキ君?」

「名前は知らないけど。仲いいみたいだし」

「仲いい?」

「話の波長があってるな、と思った」


 それはハルも思う。自分よりもあの二人は会話に省略事項が多い。共通の話題、共通の単語、自分は知らないそれを彼らは持っている。最近それに彼女も気がついた。


「…ふーん…」

「でも『ともだち』だよね」

「どうして?」

「わかんない」

「なんとなく?」

「なんとなく」


 だってあたしはハルさん達とつきあいは長くないもの。


 まほは思う。

 ユーキについてはまほは殆ど知らない。だが自分に対してさほど良い感情は持っていないということは気付いた。

 当然である。得体の知れない子である。もしも自分が彼の立場だったら、絶対にそういう子は警察に渡せ、と言うだろう。ユーキがハルのことを「好き」であるのは判る。そしてマリコさんが「ともだち」であるのも。

 ともだち、で悪ければ、「同族」だ。ただ彼女のボキャブラリイにはその単語が無かった。男だ女だ、を越えた、同じ目的を持ったただの友人。そう見えたのだ。ハルに対しては「女」じゃないが、何か「ともだち」より上のものを見るときの感覚があった。それはコトバの調子とか、仕草とか、彼女に対する行動一つ一つがそうなのだ。


 ハルさんは彼にとって「女王様」だわ。

 「お姫様」に対する「守りたい」感情はやや薄く、それでいて「仕えたい」様な相手。だったらお姫様よりももっと強い人はないの? 女王様かなあ。


「ねえハルさん」

「はい?」

「どーしてあたしを置いておくの?」

「うーん」


 特に意味はなかった。


「だってあたしがハルさんの立場だったら、厄介事なんて嫌だから、警察へ連れてくと思う」

「だってあなた警察に連れていかれたい?」


 慌ててまほは頭を横に振る。


「…それはそれで、そうじゃなくて…」

「変な奴でしょ」


 あっさりとハルは自分のことを評する。


「ハルさん」

「あたしにだって判らない」


 そう言ってカップを置く。


「理由を知りたくて、そうしているのかもしれないね」

「ふーん」


 納得した訳ではない。それじゃあまりにも他人事だ。自分自身のことを言っているようには思えない。

 が、まほはとりあえず納得したように言うしかない。ハルはそういう問いに対してはいちいち真面目に答える。少なくとも自分に対しては。そういう彼女が判らないというなら、それはそうでしかないのだ。


「…それじゃもう一つ聞いてもいい?」

「はい?」

「まほ、って誰の名?」


 ああ、来たな、と思った。

 今まで問われなかったのが不思議なのだ。何の名前でもいい、という状態よりはずいぶん元気になったものだ。


「誰の名でも良かったんじゃなかった?」

「でも」

「それではあなたの本当の名は何というの? そっちで呼ばれたい?」

「ううん」


 彼女は慌てて頭を振る。


「それは嫌」

「どうして」

「嫌なものは、嫌なの」

「理由にならないよ」

「でも、嫌なの」


 ふう、とため息をつくとハルはまほの頭をかきまわす。あまり腰のない髪だ。くせが付きやすくて、取れにくいような。


「妹が、居たの」


 言ってしまってからハルは驚いた。過去形だ。


「妹が、マホという名だったのよ」


 まほはそれを聞くと反射的にハルの方を向いた。それだけ、とハルは形のいい目をこれでもかとばかりに開けている相手に答えた。


「…ごめんなさい」

「別にあやまることではないわ」

「でも」


 驚いているんだから、という言葉を飲み込む。今までマリコさんに散々言われながら、そのたび否定していたのに。妹が「居た」こと。「居る」と言い続けていたのに。

 そして妹と同じ名で呼ぶ相手がすり寄って来るのを感じる。言うべき言葉を探して探して探して見つからないと、彼女はそういう行動に出る。

 言ってしまって、言わせてしまって悪いと思っている。

 だがそれを表現するコトバをまほは知らなかった。だからとりあえず、くっついてみる。ハルはまた頭をくしゃくしゃとかきまわす。そしてまほは安心するのだ。



「ただいま」


 マリコさんは翌日のお昼近くになって、スーパーのがさがさ言う袋を二つ手にして帰ってきた。

 あ、お帰りなさいとまほの声に出迎えられる。


「まほちゃん夕べと今朝、何食べました?」

「バタトーストとコーヒーが夕べ… 今朝はゆでたまごと生野菜サラダとチーズトースト」

「…作ったのはあなたですね」

「うん」


 だろうな、とマリコさんは思う。ちゃんと掃除はしておいたからね、とまほは付け加える。


「ハルさんは?」

「音楽の部屋。朝ごはんの後ずっとこもってるの」

「こもって」


 ははん、とマリコさんは感じた。また何処か混乱しているな。ハルの行動は複雑なようで簡単である。頭の中が複雑怪奇になると、身体で何かと発散させようとする。ドラムはそれにうってつけの楽器である。そして今朝のその原因が自分であることは容易に想像がつく。

 まあ頭の中のごちゃごちゃを身体で発散させようというのは正しい、と彼女も思う。考えたってどうしようもないことは世の中にも山程あるわけだし、それにいちいち悩んでいては頭がもたないし、たいていの人々は、いちいち悩もうなんて思いもしない。悩むのは生活にそう困っていない証拠である。だから思春期の少年少女は悩む。


 ドアを開けるとけたたましい音が溢れ出した。さすがにもう慣れたものである。


「ハルさん?」

「あ? マリコさん帰ってたの?」


 そう言ってハルは手とメトロノームを止める。


「さっき帰りました。まほちゃんの方がやっぱり家事は安心ですね」

「…で、ユーキ君は元気だった? 最近来ないようだけど」

「ドラムの先生としての用はとりあえず済んだ、と言ってましたけどね」

「友達の用は済んでないわよ」

「そうですね」


 だけど。マリコさんはユーキの表情を思い出す。


 このままの状態って、続くと思う?



 窓に雨が強く打ちつけて、騒がしかった。ユーキの部屋には雨戸がついていない。だから時々突き刺さるような青紫の光が飛び込んでくる。夕方から夜のうす暗がりの中、時々彼の表情が判った。


 このままの状態って? とマリコさんは訊ねた。


「僕もあなたもハルさんが大好きな友達、という穏やかな三角関係」

「三角は無理ね」

「あの子が入ってきた」

「そう」


 ユーキの声のトーンがそこで少し下がったような気がした。


「ハルさんはあの子を『友達』になんかしておかないわ」

「僕もそう思う」


 ユーキはうなづいた。


「あの子を見た時、そう思った」

「あなたも?」

「僕たちは似ているから」


 マリコさんはユーキといるのは割合心地よかった。根のところで似ている相手、というのはやや緊張感もありながらも、一緒にいて「楽」である。何しろ「自分と」いう個性をわざわざ説明しなくとも「判る」のだから。

 根の部分の似ている相手というのは、気がつくと、持っている知識に妙に共通点が多いことが判ってくる。もちろんマリコさんの専門は医学だし、ユーキは音楽だ。

 だが、それ以外の部分において彼らは共通の知識もまた多かったのである。たとえば彼の本棚にある本の大半は自分も読んだ覚えのあるものだし、部屋の色合いだの、配置だのに既視感を覚えるような。

 その「似ている部分」はハルとまほが外出するような時に訪ねてくる彼と話しているうちに見えてきた。そして彼の部屋へ来た時、それは明確なものになった。

 マリコさんは彼のことはわりあい好きである。「似ている」から好きなのである。だがそういう「好き」は、それ以上に発展はしにくい。「それ以上」で、「結婚未満」な相手というのは、「違う」から好き、という方だろう、と彼女は考えている。

 だから、そのバランスを越えてしまうとすれば、現在保っている、この過去の日常を真似た日常が、その不自然さを主張しだした時だろう、とも。

 だが、だからどうしよう、と悩むことは彼らはしなかった。とりあえず自分は自分の感情のままに動いている。それでその結果としてどうなるか、はそれこそ「神のみぞ知る」だった。

 バランスは崩れ始めている。ハルとまほによって。そして自分たちはハルにそのバランスの崩れを主張できない。

 何度目かのいなづまがカーテンのすき間から差し込んだとき、ユーキは言った。


「寝てみない? マリコさん」


 バランスを崩そう。彼は宣言した。

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