1 彼女たちは音を仕入れに行く
目覚めたとき、そこが光に満ちていたので、びっくりした。薄い色のカーテンが、開け放した大きな窓にはたはたとたなびいている。
―――ではここは家ではないんだ。
自分が誰とか、家があったのか、とかいう事がぐるぐると頭の中を駆け巡るのと平行して、目は耳は、肌はそんなまわりの現実をとらえていた。
そして、人の気配。見たことのない人が、いた。
その人は背が高くて、すらっとした身体つきで、長い髪をしている。あまり目立つところはないけれど、整った顔をしている。でも、見覚えがない。
ぼんやりとした頭の中でそんな目の前の現実をとらえていると、急に過去の映像が勝手に浮かび上がる。そして彼女は震える。震えずにはいられない。
目の前の人は、そんな彼女をなだめるように、そっと肩に触れ、大丈夫大丈夫と呪文のように繰り返す。彼女はその温みに安堵する。ここは大丈夫だ、と。何の根拠もないのだが。ここには自分をおびえさせる物は何もないのだ、と。
そう。怖いものなんて、ない。
あのサカイだって、怖くはないのよ。怖いのは、あのひとだけだわ。彼女は思う。…ううん、それでも違う。怖いのは、「あのひと」じゃなく、「あのひとの中にあたしが生きていなかったこと」なのよ。
だから、いくらサカイがあたしを殺す予感があったとしても、彼のことは怖くなかったのよ。彼はあたしを殺そうとしたけれど、殺そうとしたってことは、彼はあたしが生きていることを承知していたのだから。あのひとは違ったわ。あのひとが彼に命令したのは、自分の間違いを訂正することなのよ。あのひとがどうこうしたかったのは、自分の過去のあやまちだけなのよ。そこにあるのが、自分の子供だという意識なんて何もなかったのよ。あたしはあのひとがあたしを「殺したかった」のだったら、殺されてもいいって思ったのよ。そうすればあのひとの中にはそういう記憶と意識が残るもの。でも違った。ただ消しただけなのよ。市役所の係員が台帳に二重線を引く程度に。
だからと言って、そんな見方しかしない相手に、どういう感情を、どういうふうにぶつけたらいいのか。彼女の思考はまだ混乱していて、まずは何をすればいいのか、その順番すら考えることができなかった。
そして、とりあえず、目の前のひとに勧められるままに食事をとることにした
。
「…あの子、『まほ』ちゃんって呼ぼうっと」
彼女が食事をしている時に、時々簡易キッチンに引っ込むマリコさんにハルはそう言った。
「『まほ』ちゃん?」
「そ。悪い?」
マリコさんはその提案を聞いたとき、珍しく自分の中で胸騒ぎがするのを感じた。それでハルの方を直接向かず、ただこう言った。
「悪いとは言いませんけどね」
「いいじゃない? あの子とは違うわよ、あたしはあの子にちゃん付けなんてしたことはなかったでしょ」
「それはそうですけど」
そういう問題ではないのだ、とマリコさんは思う。ハルはやや苦笑を浮かべて、でもそれで決めだからね、と念を押す。マリコさんは逆らわない。
別にどんな名で呼んだところで、それ自体はマリコさんにも「彼女」にも何の問題もない。問題があるのはハルの方だった。呼ぶニュアンスが違ったところで、コトバとしては同じだ。そこに妹の「マホ」と重ね合わせる部分がないとはどうして言えるだろう。
ハルは馬鹿ではない。それは判っているのだ。同じくらいの年の、似た身体つきの彼女を、何処かで重ね合わせている。それが不毛なことであることも。
だいたいハルは、突っ走るときにはとにかく突っ走って、周りの何も見えない人である。ところが、ふとした瞬間に、高見の見物をしている自分が現れる。そんな高見の見物の自分は、生活していく上での実務的な面においてはしばしばハルを助けるものだった。
実際、あのいまいましい葬儀関係の時期は、その高見の見物の自分に身体をゆだねていたとも言える。だが、それは音楽に没頭しているときには時折邪魔なものになるし、だいたい音楽の中にいるときには眠っていることが多い。ハルにしてみれば、そんな自分は「便利だけど好きではない」存在である。
まあそれでも、現実社会で生きてくためにはそのどちらもが互いにバランスを保っているのだが、時々、何の予告もなく高見の見物の自分は出てくることがある。突っ走る自分のいつも上で、冷ややかに全てを見おろしている。そしてその視線の冷たさが、突っ走る自分すらも凍らせてしまう。
そんなとき、自分のしていることが、ひどく無意味なものに見えてしまうのだ。そうするとハルはどういう表情をしていいのか判らなくなって、とりあえず笑ってみせるしかない。笑うことと泣くことは、どうしようもなくなったときに人間が見せる表情だと聞いたことがある。
だがそんな時の笑いは、本人は取り繕っているつもりでも、マリコさんあたりが見れば一目で判る。今ここで話しているハルの表情は、ややそういう時のものに近い。
何を考えているのだろう。マリコさんは知りたかった。だが、知ったとして、理解できることではないのではもうずっと前から判っていた気がする。
性格の違いという奴だ。マリコさんは、自分が単純な人間だということを知っている。
自分が筋というものを何においても第一に考える人間ということを判っている。理論と理屈と法則と。科学は数学はだから美しい。答が出なければ探せばいい。それは「まだ」見つかっていなくとも、「いつかは」見つかるはずのものだから。
だけどハルの専門である芸術関係はそうではない。
「そこに在るだけで」、時間を空間を精神を混乱させるようなものが、矛盾しているものが、答の出ないものが溢れているのだ。そして、ハルはその混沌を愛して、マリコさんには理解できない。自分の思考回路はそれには向いてないのだ。なら考えたって時間の無駄である。自分は自分のすべきことを一生懸命にすべきなのだ。
だから、マリコさんはハルのような悩み方はしない。マリコさんにとって、ものごとは必ずある筋道を持ったものだったから。だから、とりあえずこう言ってみる。
「別にいいですよ。ニュアンスは違うんですね?」
ハルはうなづいた。
理解はできないが、やってみれば、何か次の行動をおこせるだろう、とマリコさんはふんだのだ。何か、が起こるまでとりあえずマリコさんは思考停止することにした。そこにあるものをあるがままに見よう。判断はそれから。
*
そしてとりあえず彼女のことを「まほ」ちゃんと呼ぶことになった。当の呼ばれた本人は、とりあえずそう呼ぶ、という二人に、別に何だっていいわ、と答えた。
「…いいの? 思い出せない?」
「別に思いだしたってそうでなくたって… どっちだっていいんだもの」
投げやりなコトバが返ってくる。そして翌日、四人はリゾート地から帰宅した。行きのはしゃぎ様とは一転して、新入りの「まほ」嬢に合わせたように皆、ぼんやりとして言葉少なだった。
*
ハルは彼女を妹の部屋に入れた。二間つながったその部屋の灯をつけて、何使ってもいいからね、と付けたす。まほはきょろきょろとその部屋を見渡すとハルに訊ねた。
「誰かの部屋なんでしょ?」
「うん」
「いいの?」
「少なくとも今は、誰も帰ってはこないわ」
…そういえば変だな。
そんなことを思いながらハルは言葉を交わしていた。あの朝以来、あの最初に彼女の口から漏れたコトバのような、半身をぞくりと震わせるような触感がない。何だったんだろう、と思いながら、ついついその感触を求めて、彼女との接触を多くしようとしてしまう。原因が彼女の声自体にあるのは間違いないのだが、だったらこれだけ毎日接触しているんだから、一度くらい同じ感触があってもいいのに、と。
あれはそれまでにない感触だったのだ。恐怖に似た快感とでもいうのだろうか。
それが予期しないテンポの中で起こったので、たまたまそう感じただけなのか、それとも彼女の声に何かそれを起こすものがあるのか、それが知りたくて。
「体型も似てるし。服もいいわよ」
「誰かのでしょう?」
「あ、下着くらいは新しく揃えるから」
「そうゆう意味じゃなくて」
とりあえず何か着てみれば、というので、まほはすすめられるままに元の持ち主のクローゼットを開けた。中には結構な数のカラフルな服が入っていた。だが、彼女が自分の住んでいた部屋の中のの中身とは、まるで違ったものだった。確かに体型は近いと思う。と、いうより、その服の持ち主も自分も、この国の少女に一番多いサイズがぴったりの人間だったようである。
だが自分の着ていた服は、実際にはそういうサイズを気にするタイプのものではない。サイズなどがあって無きがごとし、の殆ど「体型を見せない」重ね着タイプの服だった。だがこのクローゼットの中に入っていたのは、それとは全く違っている。どちらかというと、体型を見せるタイプのものだった。とはいえ、肌を見せるタイプという訳でもない。むしろ肌は隠している。だがラインは強調している。すべきところは強調する、といったような。
「…」
どうしたものか、とまほは思う。だがどんな時でも「とりあえず」は必要だろう。ひとまずはその中でも大人しいリブニットとジーンズを取り出してみる。
「着てみれば? 結構似合いそう」
「…えーと…」
そりゃ確かに女同士だから、いいんだろうけど… そうまじまじと見られると、妙に身体が熱くなる。例え女の子同士といっても、彼女はすぐその場でぱっぱと服を脱げるような生活はしてこなかった。服を抱えて、物陰に隠れると、手早く服をかえた。
「あらま」
別に恥ずかしがらなくともなあ、と経験はいくらかあるハルはこめかみをかりかりとひっかいた。
少しして、まほはやや照れくさそうに出てきた。わりあいとすんなりとしている身体のラインは、ぴったりとした服でもよく似合っている。むしろ、彼女が着ていた服よりも似合っているんじゃないか、とハルは思った。腕のラインだの、肩の丸みだのが、何処か奇妙なしなやかさを持っている。だがなよなよとした柳ではなく、所々は、またこれが妙にがっしりしているようにも見えるのだ。全体のバランスからしたら、9号サイズの普通体型。足のラインにしても同様で、さほどに肉はないのだが、かと言って針金でもない。
あ、そうか。
そこまで考えていて、唐突にハルは気付いた。
さほどに「女の子」のラインじゃないんだ。
どちらかというと、少年のラインに近い。だが直線ぽくとも、線一つ一つは柔らかさを持っているのだし、何と言っても、胸にはそれでも曲線が綺麗なカーブを描いている。それで全体的には女の子だ、と言われて納得するのだ。
面白ーい。
くす、とハルは笑った。そしてしなやかな腕に視線をのばし…その先の手首の包帯にやや痛々しいものを覚えた。
*
「可愛い子だよね」
ユーキは「まほ」嬢に対してそういう感想を述べた。真帆子が妹の名前だったけど、あの子はただの「まほ」だ、という簡単な説明だけをされた彼は、それ以上の質問は加えない。
「ユーキくんの好み?」
「僕の好みはハルさんタイプでしょう? まあそれはどっちでもいいんだけど… 何か覚えにくい顔だなあ、と」
「あ、ユーキ君もそう思います?」
マリコさんはちょっとばかり驚いた表情になって言った。
「うん」
「別荘」から戻ってきて何日かが過ぎた。しばらく用があって滞在する、とという言い訳を何処まで信用したか判らないが、ユーキは新入りの「まほ」嬢については追求はしなかった。
「手首に包帯」というのは、生命を奪う効果はともかく、一般的には、「私は自殺したかったほど苦しんでました」という無言の意思表示をする。それが当人の本意であるかというよりも、外側にはそう映るのだ。
ユーキはその件についても何一つ聞かない。そして別の面からこの新入りの少女を評する。
「何っか、奇妙なんだよね」
彼は首をかしげる。
「絵をやってる友達に見せたら、理由判るかもしれないけれど、僕にはよく判らない。だって、顔の中身の配置はいいと思うし、全体的に可愛いよね。でも、見た瞬間は覚えてるのに、一瞬後にはもう記憶していないんだ」
「そうですよね」
「ハルさんはわりあい、素っぴんは地味なんだけど、一度見たら忘れられないタイプだよね」
「あの人の場合は、本人気がついてないけど、顔の一つ一つのパーツのつくりがしっかりしているんですよ、だから化粧すると異常に映えるんですって」
そしてその「何度見ても忘れる」子と「一度見たら忘れられない」二人は、こんなふうにマリコさんとユーキが会話しているような日は、たいてい外へ出かけていた。
「ずいぶん気に入ってるようだよね」
「全く」
とりあえずは「マホ」の服を着せているが、「まほ」ちゃんにはきっとそれなりに好みがあるだろう、と二人で服の買い出しに行ったり、意味もなく暇つぶしに映画を見たり、レコード屋を漁りに行く。
妙なほどハルが楽しそうなんで、マリコさんも、無駄使いはよしなさいと言うこともできない。当のまほ嬢は、そういったことには関心がないらしく、与えられるものは素直にもらっている。好みを訊ねられれば、素直に答える。少なくともハルはそれに対してケチをつけることはしない。試着する服に対して、似合うかどうか位の採点はするが。だからまほ嬢は自分の好きなものの中でハルが似合うと思ったものを買ってもらっている。
*
まほにとっては、不思議な感覚だった。
「誰が好き?」
レコード屋で「まほ」嬢にハルは訊ねる。大きなレコード屋へ行くと、大手レコード会社は次第に塩ビ盤からCDに切り替えようとしていることが判る。だがまだハルの家ではCDプレーヤーはなかった。
「日本のはポップスばかり聞いてたから…」
「ポップスねえ。日本のロック関係は知ってる?」
「ああ、少しは」
「趣味じゃない?」
「じゃなくて、あんまり『ロック』に聞こえないというか」
「なかなか言うね」
じゃあポップスもいいけど、とハルは言って、彼女に選ばせる。もう少したったらCDプレーヤーも買おう、とハルは思う。
きっともうじき塩ビ盤は消えていくだろう。CDはお手軽だ。少なくとも取扱いに気を遣う必要がない。だからこれから出る盤はCDを買おうと思う。
だがとりあえずは旧譜でいい。
「ポップスではどういうひと、聞いてきたの?」
「人… というより、声だったの。何か、意味は判らなくとも、がつんとくる、というか」
「衝撃的な声」
「うん。だから、今の日本のロックなひとじゃ…」
彼女は何バンドかあげる。もちろんハルは知らない。
「このバンドは詞が伝わるの」
ジャケットには写真でなく、抽象的なイラストが入っていて、デジタルなロゴでバンド名とタイトルが書かれている。まずじゃそれが一枚、とハルは手にする。
「で、ここは詞の意味はさっぱり判んないんだけど、声がダイレクトにクる、というか。音は『不思議』な感じ。アジアかどっかの、音楽が混じってるような気もする」
今度は鎌倉の大仏か、古くからある石像をあおり加減のアングルで写した写真がジャケット。バンド名がショッキングピンクであっさりと書かれている。
「…でもって、ここはどろどろしているな、と思った」
「…何か重そうなのばっかりね」
「軽いのだったら」
と、女性ヴォーカルが飛び跳ねているような写真のジャケットを手渡す。それと、とヴォーカリストとギタリストが表、ベーシストとドラマーが裏に写っているもの。
「あたしはこうゆうトコロが好きだけど」
「ふーん」
「表舞台に出ている奴では」
「裏もあるって訳?」
「実際見に行った訳じゃないけど、東京とかだと、ライヴハウスとか、歩行者天国とかで、アマチュアバンド活動しながら、プロの手を待ってるんだって」
「…へえ」
「あたしも聞いただけだけど。でも中には業界に汚れるのが嫌でポリシー持ってアマでやってる人もいるって」
「詳しいね」
「音楽雑誌を見るのは結構好きだったから」
だから実際どうなのかなんて判らないもの、と付け加える。
実際そうである。地方のロックファンというのは、悲しいかなどんなに知識として「知ってる」としても、リアルタイムにその場を体験している東京のロックファンとは、確実にズレがあるのだ。もっとも、それが個性と言ってしまえば丸く治まるのだが。歓声や野次一つにも、地方差があるのだから、音楽感覚だって違うのが当たり前なのである。
とは言え、この頃音楽は完全な中央指向であり、現在も基本的には変わらない。情報の発信源がそこである以上、まずこの事態は変わることがないだろう。
そういうことを考えていたかどうかはともかく、ハルは情報はあった方がいいかな、と何となく思う。
「じゃあこれだけ買ってこう」
そしてハルはそう言うと、まほからジャケットを受け取る。そのままレジへ持って行こうとする彼女の腕を掴んで、慌てて訊ねた。
「ハルさん」
「ん? 何?」
「ハルさんは何が好きなの?」
「はい?」
「だってそれ、あたしが好きなのばっかじゃない。ハルさんはないの?」
「あたし? あたしは…」
「ロック好きなんじゃないの? あの部屋ずいぶんロックがあった…」
「…うん… 一応全部聴いてはみたんだけどね」
どうも、イマイチなんだ、とハルは言う。
「確かにいい出来のものも多いのよね… スカもなくはないけど… まあでも選んだひとがいいから、全体的には良く聞こえるのよ。でも」
「でも?」
「でも全体的に、よね」
細かい音ではなく、かたまりとして、一つの曲に聞こえはするのだけれど、クラシックの美しく流れる旋律、楽器のアンサンブル、展開また展開、という曲になじんできたハルには物足りなかったのだ。
いや違う。ハルは思い返す。たとえシンプルでも、強烈ならそれでいいんだ。例えばバッハ。楽器の種類なんてあんなに少ないのに、どうしてあんなに綺麗な楽曲なんだろう。ショパンのピアノ曲。主旋律だけでどうしてあんなにドラマティックなんだろう?
せっかくドラムも慣れてきたところだし、何か曲を演ってみたいと思うようになってきたというのに、「何を」したいのか、どうにも掴めないのだ。
焦ることはない、とユーキあたりは言う。だけど自分が世間一般のドラム愛好少年少女とはどうも違ったパターンをたどってきているのをハルは知っている。たいていの少年少女がドラムをやろうというときは、まず憧れるバンドなりミュージシャンなりがあって、それからその中で最も自分が好きなもの、憧れるもの、恰好いいと思ったものにとりかかる。まずはコピーから。それが普通である。
ところがハルときたら、「はじめに楽器ありき」だから、その次にどうしたらいいのか、というのは全く雲を掴むようなものだった。
クラシックと違って、練習法も上達法も、次に何をしたらいいのか、もかっちりした法則はない。それがクラシックと違うところなんだ、と言われればそれまでだが、ハルにしてみれば、いきなり突き落とされた穴の中で、微かな光を探すようなものだった。
「だから、とりあえずあのレコードの山の中では、…が好きだなあ、とは思ったけど」
「…パンクは?」
「え?」
「ハルさんあのレコードどれ聴いてもいいって言ったけど、パンクが一枚もない」
「…パンク?」
「もしかして知らない?」
ハルはうなづく。コトバとしては聴いたことがあったけど。そもそもハードロックもヘヴィメタルも最近聴いたばかりの、リスナーとしては本当に序の口なのだ。それも「あったから」聴いたにすぎない。
「もう一枚いい?」
「いいけど?」
まほは返答を聞くと、すぐに洋楽ロックのコーナーへと向かった。そして黄緑地に黄色の正方形、ややわざとずらして押されたような活字で「NEVER MIND」と書かれた一枚を持ってきた。
「それ、パンクの?」
「古典」
なるほど、と言うとハルはそれもまたそれまでに積んだレコードの上に重ねさせる。そして結構な重さになっているそれを軽々と持つと、さっさとレジへと向かった。
まほは変わった人だな、とそんなハルを見て思う。とはいえ、まほもまた、わりあい裕福に育ってしまった子なので、さっさと買い物をしている、この職の一つも持っていないような女にあまり疑問を持ってはいない。そういう人もいるのかな、とあいまいに感じていた。
ただ、得体の知れない子にどうしてここまで構うのかな、という気はしていた。しないほうがおかしい。何処かへ通報したという感じでもないし、知り合いらしい青年には、「親戚」だなんて嘘までついている。
ついでに言うなら、自分の呼ばれている名がいわくつきだってことも気付いている。ハルはともかく、マリコさんは、どうも呼ぶたびに名前と「ちゃん」の間にやや間が空くような気がするのだ。気にしすぎと言えばそれまでだが、こんな不安定な状況の中で、気にしないでいることなんて出来ない。誰かの名なんだ、と気付いてはいる。おそらくは自分の与えられた部屋の前の持ち主。
一気にそこまで推理できるほどに、目覚めてからこの方、彼女の頭の中はめまぐるしく回転していた。めまぐるしく回転させていた、とも言える。そうでもしないと、訳が判らなくなりそうなのだ。
幸い、ハルは毎日毎日彼女を連れ出して何処かへ遊びに行く。見たことのない街、見たことのない映画、見たことのない景色… 雨降りで外へ出て行くにはちょっと… という日には、彼女の部屋へ来て、あれこれとレコードや本の話をする。ときどきTVの特集番組をビデオに録ったものを見る。レンタルビデオ屋で洋画を借りてきては見る。何も考える暇を与えまいとするかのように、ハルは彼女で遊んでいるようだった。
まほのよく回る頭は、ハルが「自分で」遊んでいるようだ、と気付いてはいた。
だが悪い気はしない。今までそんなこと、誰もしなかったし、「遊ばれる」に値するほど自分が誰かに可愛がれたこともない。それがペット的であろうと、お人形的であろうと、相手の視線が自分に注がれているというのはひどく気持ちがいい。それが暇つぶしで、いつかは飽きられるのかもしれないとしても、少なくとも今は、ハルは自分で遊んで楽しがっているのだ。
だったら別に誰かの身代わりでもいいとは思う。
「お待たせ」
そう言って肩に腕を回し、食事しに行こ、とハルはじゃれつく。、身長はハルの方があるので、ハルが彼女を抱え込んでしまうような恰好になってはしまうのだが。
初夏6月だから、もうそんなことされたら暑いに決まってる。だけど、彼女は誰かの体温ってのは嫌いじゃない。むしろ好き。寒いよりずっといい。冬は嫌い。寒くて寒くて、放っておかれたら凍えてしまいそうな気がする。だから夏は好き。どんなにうだるような暑さでも、ここは日本だから、汗をかこうと蒸しむししても、気持ち悪くても、凍えるようなことはない。赤ん坊は転がしておいても勝手に育つ。
「重くない? ハルさん」
「あたし力持ちだからね」
そう言ってハルは一人でレコード何枚かが入った手提げ袋を持つ。甘いものがいいなあ、とハルは言う。いちごの大盛りパフェ、とまほは言う。