第七話 女だとばれたらヤバいそうです
ファティマは眼を開いた。重たい身体を起こして、周囲を見る。ぼんやりとした頭で、自分の状況を思い返す。イドリース二世に無理やり王宮に連れてこられて、秘宝の力に巻き込まれた挙げ句に、中途半端なハレム入りだ。イドリース二世の側近であるアリーには嫌みを言われるが、今のところ実害は出ていないので、環境的には良い。
「だが、このままで済むわけがないんだろうけど」
外に人の気配がする。昨日、いや、一昨日を思い返すと、小姓だろう。ファティマが自然と目が覚めたのも、人の気配が騒がしいからこそ。また、相手に悪印象を与える前に、自分から起き出してやる気があることを主張した方が無難だとファティマは考えた。
戸に向かおうとしたとき、視界に入ったものにぎょっとした。血文字だ。前回、ファティマが書いたものかと思えば、違う。別の文字だ。
『逃げろ』
そう、書いてあった。元々、近いうちにここから逃げ出す予定ではあった。だが、こんなにも、早く準備を迫られるとは思わなかったので、ファティマはしばらく硬直してしまう。
これは未来の自分からの警告なのか。ならば、早く聞いた方がいいのではないか。妙な焦燥感に駆られるが、今のファティマにはどうすることもできない。これからゆっくりと段階を踏んでいこうと考えていたからだ。どうすればいい、と心中で呟くが答えが出るはずもなく、淀んだ気持ちを引きずったまま、ファティマは外に出た。思っていた通り、金髪の少年が待ち構えていた。苛々した様子を隠さずに、ファティマにハレムの屋敷の掃除を行えと命じてくる。
掃除の最中でも、胸のもやもやとした感情は消えることはなく、半ば虚ろなまま、作業を続けていた。逃げろ、と言われても何をすればいいのか。自然、作業の効率も悪くなり、他の作業していた少年からも罵声が飛ぶ。ハレムの小姓の中でも、最下層に位置する小姓が、掃除などの雑用を担当するようで、ファティマとともに掃除をしていた少年も、その例に当たるらしい。ファティマは、目の前の少年と、最初に、ファティマを世話してくれた金髪の少年の顔を比較してみる。目の前の少年も、金髪とはいっても、やや赤みが混じっている。異国の人間とアラブ人の混血なのかもしれない。とりあえず、イドリース二世が面食いだということを理解した。
目の前の少年は、作業の遅さから、ファティマの待遇について、怒りはじめた。自分と同じような作業を託されながら、イドリース二世に目をかけてもらえている立場が気にくわないらしい。それはそうだろう、とファティマは納得しながら、さてどうしたものか、と考える。こんな状況下で曖昧に笑ってしまえば、尚更相手の神経を逆なでするだろう。ファティマは、真面目な顔をして、きっと王には王の考えがあるのでしょう、とだけ告げた。その王の考えを自分にはまだ、理解することができないと。しかし、それは結局、自分がハレム入りになっていない時点で、ハレムとは関係のないものではないかとは推測できるか、と。あくまでもハレム入りしているあなたとは違う立場なんだということを強調しつつ、相手の優位性に訴えてみたのだが、うまくいったかどうか。告げたあとで、少し意味深すぎたか、とファティマは反省した。
何故なら、目の前の少年は、驚くほどに顔が青ざめていたからだ。まるで、何かを酷く恐れてしまっているかのように。
「イドリースの鎌?」
少年は、確かにそう告げた。
「イドリースの鎌が、関わって……?」
こんなハレムの最下層の少年でも、秘宝のことを知っているのか。しかし、今、ファティマの離した内容は、秘宝とは関わりのないことである。どこから、そう話が繋がってしまったのか。だが、ファティマがそれを聞き出そうにも、豹変した少年の様子に、何も言えなくなってしまう。
「死んだんだ」
そのまま中断した作業を始めようとしたときに、少年が呟いた。
「前、おまえみたいな扱いを受けたものがいた。誰もが不審に思い、誰もがその理由を調べようとした。だが、そのものは」
少年はそこで口を閉じた。だが、続きは必要なかった。言われなくても、想像がつくからだ。
「だが、そいつはおまえとは違ったから、多分大丈夫だ」
「大丈夫、というと?」
ファティマが聞き返すと、少年は少し和らいだ表情で答えた。
「そいつは、女だったから」
少年の言葉は、多分、何かの陰謀に巻き込まれたのだろう、という言葉で締めくくられていた。王宮内は謀略が渦巻く場所だという。だが、安堵した様子の少年と異なり、ファティマの表情は強張っていた。