第五話 新しく王の小姓になりましたが前途多難のようです
夢を見た。
幼い頃のことだ。
人里から少し離れた山の奥、母親と二人きりで過ごしていた。よく覚えていないけれど、温かくて柔らかい日々だった。
「どうか、健やかに生きなさい。あなたはどこに居ても、必ず人の役に立てる存在なのだから。自分に誇りを抱きなさい。まっすぐに、人の世を見るのです」
繰り返し言い聞かせるように告げた母親の言葉は、今でも覚えている。
しかし、そんな温かな日々も突然に終わりを告げた。町に買い出しに行く途中、賊に襲われたのだ。……もしかすると、賊ではなかったのかもしれないが、幼いファティマにはそのことはわからなかった。
結果として、母親はファティマを逃がした。しかし、母親は賊に捕らえられた。
母親の行方は知れない。
動くこともできずに、母親が遠くに連れ去られていくのを見ていることしかできなかった、無力な自分がいた。ファティマは何もできなかった。
息を吐き出すことすら、忘れていた。
どうか、生きて、と告げた母親の声が忘れられない。だから、死にたくないし、いつも、どうにか生きることのできる道を探している。
そして、今、成長できている自分を誇りに思っている。
だが、傍に誰もいないことが、ただ、寂しい。
ファティマは眼を開いた。
身体を起こすと、地面とは異なる柔らかい感触に驚く。寝台に寝かされていたようだ。誰が運んできたのだろうか。そもそも、ここはどこだろうか。ファティマは上向いた。天井がある。いつも野ざらしな場所で、酷いときは雨に打たれながら夜を過ごしていた。それに比べれば、随分まともな状態だ。天井から床までの距離は狭いが、人ひとり寝る分には十分である。
起きたのか、と声がかけられる。ファティマは慌てて首を周囲に回すと、見覚えのない人間がいた。金髪で白い肌の異国人だ。中性的な顔立ちをしているが、体格を見るに少女ではないだろう。小綺麗な衣装を着ている。
どうやら、その少年がファティマに話しかけてきたようだ。
ファティマはぎこちなく頷くと、少年は入ってきた場所から出て行ってしまう。どうしていいかわからず、狼狽えていると、その少年が再度入ってきた。顔を真っ赤にして怒っている。もたもたするな、と言われて、慌ててファティマは、彼のあとについて行こうとした。はっと、顔の辺りに布が巻かれていないのに気付いて慌てたが、少年の顔も女のように見えるので、自分も問題ないのかもしれない、と思い直す。そもそも、少年も、ファティマの顔を見ているが何も言ってこない。そうはいっても、布を巻いていない今の状態に違和感があるため、ファティマは急ぎ傍にある布を頭に巻き付けた。
ここはどこなのだろうか。イドリース二世に斬りつけられてあれから、どうなってしまったのだろうか。
ファティマはおそるおそる、少年に自分の居場所を聞いてみる。少年は、苛立ちを隠さずにファティマに告げた。
昨日、あれだけ、ハレムの紹介をしたのに、もう忘れてしまったのか。
昨日? とファティマは首を傾げた。そんな記憶はどこにもない。
ここはハレムなのか、男も入って問題ないのか、と口承芸人から聞いた知識と違う状況を疑問に思い、呟くと、その言葉を少年は拾いあげ、答えてくれた。イドリース二世は少年趣味でもあると。むしろ、正妻を誰にするか側近たちが牽制しあっているこの状況下で、ハレムに女を入れるなんて、とんでもないと。
ファティマは驚いていた。イドリース二世の少年趣味もそうだが、同じことを繰り返し聞くな、と言われなかったことに。ハレムの紹介をされた覚えがないのと、イドリース二世の願い事の意味を考えれば、ハレムに女が存在しない情報も既知に違いないと考えていたからだ。
そう、ファティマには昨日の記憶が存在しなかった。
少年に、ハレム内に用意された部屋の掃除を命じられて、何をすればいいのかわからず戸惑ってしまい、何度も昨日同じことを説明したろう、と怒られながら、何度も思い知っていた。
イドリース二世の願い事は叶えられているようだった。
だが、まだファティマには確証が持てなかった。掃除道具を手にして、壁の隅の埃を片付けながらぼんやりと現状を把握しながらも、いまいち現実感が伴わなかったのだ。ここがハレムだと言われても、会う人間のほとんどは小姓ばかりで、思い描いていた華々しさがない。
色彩豊かに敷き詰められたタイルも、八角形に形作られた天井も、豪華絢爛な場所に違いないのだが、口承芸人から聞いていた物語では、もっと艶っぽいものとばかり感じていたのだ。
いや、小姓も美少年ばかりだから、女性的な色気とかけ離れた、曖昧な美しさは存在している。だが、それに共感を抱けるかといわれれば、違うのだ。
もっと、こう、とファティマは空中に手で曲線を描きながら、自分の体型と見比べていた。
すると、そこで何をしている、と声をかけられた。振り向くと、先ほど会った少年がいた。どうやら、この少年は、ハレムに入れられてから長く、小姓の中ではそれなりに権力を持った代表格であるようだ。
「掃除程度に手間取ってすみません。昨日、せっかく教えて頂いたのに」
ファティマは頭に巻いた布を更にきつく締めながら、表情が見えないようにして、笑う。
少年は、ファティマに対して、女顔であること以外取り柄がないから顔を隠したくなる気持ちもわかるが、王の前では、それを外せと告げてきた。もっともである。こんな怪しげな格好をし続けているのはファティマくらいなものであった。
少年は、そこの掃除はいいから、次はハレムの外にある、待合室のタイルを磨いてくれと告げてきた。
「待合室ってどこかな。それよりも、私はハレムから外に出ていいのかな」
すると少年は、昨日も同じことを教えたはずだと怒り出した。ファティマは曖昧に笑いながら謝罪する。少年はこれきりだと告げて、教えてくれた。ファティマはハレム用の奴隷ではなく、あくまでも王の召使いにしか過ぎないのだと憤慨しながら答える。少年自身は、王の手がついた小姓であるのでハレムから外に出ることはできないが、と何故か自信満々に伝えてきた。王の命令でなければ、本当はファティマに世話などしたくないとも、余計なことを付け足してきた。
少年は、小姓でも召使い程度の存在が王に気にかけられている事実を不審に思い、ファティマの立ち位置が気にくわないようであった。待合室に案内する傍ら、何度もファティマの耳元で愚痴を言い続けている。
自分にそんなこと言われても、当の本人が一番戸惑っているんだけどね、とは口にも出せず、ファティマは曖昧に笑うばかりである。少年はハレムから外に出られないので、厳重に閉ざされた巨大な扉の前で立ち止まった。モザイク様式で装飾された木製の扉の前に、ひとりの少年が立っている。どうやら、次はこの少年が案内してくれるらしい。先刻の金髪の少年よりは、見劣る衣装と容姿で、なるほど召使いだとわかりやすいと、ファティマは納得した。
ファティマはその少年のあとについて行って、待合室に向かった。ハレムに入れないとはいえ、それ相応の身分のものが入る場所のようで、室内の装飾はハレムのものと比べても、見劣るところはないように見えた。
ファティマを案内し終えた少年は、自分の仕事があるようで、彼女を置いてどこかに行ってしまった。
ファティマは待合室の戸を開こうとする。すると、室内に誰かいるようで、声が聞こえてきた。
「それで、新しい小姓はどこにいる。本当にここにいれば会えるんだろうな」
「準備はしておきました。まもなく現れるでしょう」
「王の小姓とはいえ、異国からの奴隷ならまだしも、どこの誰かわからない人間を入れるわけにはいかん。……いや、入れるとしても、この眼で見定めねばなるまい。既に王の手はついているのか」
「さて。王の意向としては、そのつもりはないようですが。どちらにせよ、王のお気に入りには違いないでしょうな」
「まさか、王がそれほど入れ込んでいるとは。既に見つけたのではあるまいな。王も、先代の血を受け継いでいるのであれば、その血が覚醒していても不思議ではない。……そのためのイドリースの鎌か」
「それはないでしょう。あのものは男ですから。性別が違う」
「男なのか! それは安心した。ならば、まだ我が娘にも期待が持てるな」
入りたくない、とファティマは戸から耳を離した。自分にとって不利益になる話である。それに、片方の男の声に聞き覚えがあった。
アリーだ。イドリース二世の側近と思われる男である。イドリース二世から直接彼のことを聞いたわけではないが、彼らのやり取りを見て、ファティマが勝手にそう認識しているだけのことだ。あの男は、ファティマに対して良い印象を持っていない。それどころか、ファティマを除外しようとする動きさえある。除外だけで済めばいいが、下手をすると殺されるかもしれない。
待合室の掃除をするのをやめて、迷子のふりをして、この場所を離れた方が賢明かもしれないと、ファティマはその場所から離れようとして、再び部屋の内部から聞こえてきた声に、自然と気が惹かれた。
「それと、王に関しては、まだ気になることがある。昨日のことだ。誰か王に、余計な知識を入れたのではあるまいな」
「大雨時、河川が氾濫した場合においての対策を論じていたときのことですか? 確かに、王にしては、的確なことを告げていましたが」
「本来ならば、あの意見を主張するべきは貴殿の役割であったはず。アリー宰相殿。それを先に王に言われては」
「そこは王の成長を喜ぶべきでしょう。だが」
腑に落ちない、とアリーの心の声が聞こえてくるような吐息であった。
王の願い事の影響だ、とファティマは勘付いた。やはり、王の願い事は叶えられていたのだ。ならば、明日には、将来の自分と中身が入れ替わってしまうのだろう。十年後の王、そして十年後の自分。十年後も生き長らえてきたこそ、存在している、未来の自分自身だ。ならば、この先も、ファティマは生き続けることができているのだ。ふ、と身体から力が抜けた。安堵したせいだ。明日にでも死んでしまうのではないか、という焦燥感が遠のいていくのがわかる。
だから、油断していた。既に戸が開こうとしていることに、気付かなかったのだ。
開こうとしている戸に頭をぶつけて、ファティマは慌てて身を引いた。中から現れたのは、アリーだ。
「来ていたのならば、早く入れ」
無駄のない彼の言葉に、感情が一切見えない表情、話を聞かれていたことはわかっているはずなのに、驚いた様子を一切見せない彼の姿に、ファティマは気味の悪いものを感じ取った。
失礼します、とファティマは身を縮ませて、室内に入る。
「それでは、私はこれで」
入れ替わりになるようにして、アリーが出て行く。彼が横を通り過ぎるときに、喉が詰まるような圧迫感を覚えた。表情には出さないだけで、彼は全身でファティマを拒絶していた。それが、嫌と言うほどわかった。よくあのとき、殺されなかった、とファティマはつくづく自分の幸運に祈りたい気持ちになる。
「おまえが、このたび新しく王の小姓になったものか」
男は、顔つきを見るにアラブ人のようだ。肥満した体型を揺らしながら、ファティマに近づいてくる。アリーと対等に話していたところを見るに、それ相応の権力を持った役人なのだろう。下手に逆らわないほうが身のためだとわかっていても、彼が近づくと、自然に退いてしまう。
「王が選んだ男だ。さぞや、美しいのであろうな」
「いや、それほどでもないですよ。そもそも、美しければ、ハレム行きですし。そうならない時点で、お察し頂ければと思います」
にこりと笑い返す。相手の表情に、得体の知れない悪意を感じるのは気のせいだろうか、とファティマは考える。
「顔を見せてみろ。王の傍に仕えるに相応しいか、儂が直々に確認してやろう」
「人様に見せることのできるような顔ではありません。むしろ、このような醜さをあなたのような御方に晒してしまうことこそが失礼です」
顔を見られてしまえばしまいだ。いや、見られても問題はないのか、とファティマは即座に自分の考えを打ち消した。ハレムの少年も、召使いの少年も、容貌の見栄えさの差はあれど、皆、中性的なものであった。ファティマの顔を晒したところで、女だとばれないかもしれないが。
ぶるり、とファティマは身を震わせる。どうしてだか、本能的に、この男に自分の素顔を晒したくないと強く思ってしまったのだ。
「まあ、そう言うな。美しいものは、皆、謙遜してそう言うのだ」
「お待ち下さい、私は」
「しかし、そうか。おまえは、ハレムの小姓ではないのか。ならば、儂が王に召す前に、更なる確認を行っても構わぬということだな。王に失礼のないように、相応の人間なのかどうかは、見極める必要があるからな」
にじり寄った男に腕を捕まれて、ファティマは顔色を変えた。さすがに、身体を直接触られてしまえばばれてしまう。
「申し訳ありません、私は」