第四話 子どもを産むとか産まないとか? 飢えているとか飢えていないとか
「言葉通りの意味かな? そう捉えてもいいのかな?」
「それ以外の何がある。だからこそ、貴様が男でなければいけなかったのだ。女であれば、子を孕む危険性がある。その点、男なら面倒がなくて済むからな」
「あ、ああ、そうそう、そうだよね、そういう意味だよね、当然ね!」
ファティマは冷静さを取り戻そうと必死だった。女だということをひたすら隠して生活してきたのだ。女だと見られたこともなければ、そう扱われたこともない。当然、男女の付き合いに関連した行為など、一切したこともなかった。それがばれるのも嫌だった。恥ずかしいという想いがある。相手は王という立場だ。ファティマとは違い、そういう行為は、数多く経験しているのだろう。
「私が女で困るというなら、この話はなかったことになるのかな。そう考えてもいい?」
「なかったことになるなら、俺がわざわざ貴様と二人きりで話をした意味がなくなるのだが」
「だよね、それで、当然、私に拒否する権利はないんだよね」
「あるように思えるのか?」
ひどく、純粋にイドリース二世は聞いてくる。子供のように混じりけのない、素直な瞳でファティマのほうを眺めてきた。イドリース二世は、ファティマに対して、何故わざわざそのようなことを言ってくるのかがわからないと、目で訴えていた。
さて困る、とファティマは考える。
「だけど、子供を産むような危険性は避けたいんだよね」
苦し紛れの発言に、イドリース二世は乗ってきた。
「そうだな。父は奴隷でも気に入った女なら手をつけていたが、それは戦の中の混乱という状況であった要因が大きい。実際、父が王となり王朝を築いてからは、それまでに連れてきた手つきの奴隷たちを除いて、新しく手をつけるのは、皆、相応の身分のものたちばかりだった。当然、俺もそれを望まれている。……もう少し、周囲に認められているのであれば、自由がきくとは思うがな。今、身分不相応の女に手をつけて子を成してしまえば、親子共々殺されてしまうだろう。俺は、何の罪もない人間を、殺すような真似だけはしたくない!」
イドリース二世は語気を強めた。
「じゃあ、どうするつもり?」
「簡単だ。体液を交わらせればいいわけだから、別にそういった行為を無理して行う必要もない。父がそうしていたからこそ、俺はこだわっていたからであって、それが難しいのであれば。別の方法を試す。例えば、俺と貴様の血液を交わらせるのでも、問題はない」
「あ、ああ、ああ、そう、びっくりした。本当にびっくりした! それに限定していたわけじゃないんだよ。私ったら、本当に何を勘違いしていたんだろうね」
「そうだ、一体何を驚いている?」
「気にしなくていいよ。わかった、その程度なら、きっと斬りつける、という意味も、浅い傷をつける程度で解釈していいんだろうね。いいよ、問題ないよ!」
ファティマがにこりと笑うと、イドリース二世が無言でファティマを見つめている。居たたまれなくなったファティマは首を傾いで、何か、と相手に問いかけた。
「どうも勘違いしているようだが」
イドリース二世がため息混じりに告げた。
「俺は、嫌がっている女に手をつけるほど飢えてはいない」
「え!」
「無理して手を出すつもりもない。そんなことを、何故、俺が行う必要がある? 意味のないことをしてどうする。俺を馬鹿にするな!」
最後は怒っている。感情の上げ下げが激しい男だとファティマは思う。
「ここで、実は斬りつけられることも、そもそもイドリースの鎌の願いを叶えるための材料にされることも嫌だっていったらどうするのかな」
「無理やり行う」
「さっきと言っていること違うじゃないか」
ファティマは頭を抱えた。
「そこを譲る気はない」
「それじゃ、君がそこまでして叶えたい望みは何なのかな」
ファティマが尋ねると、イドリース二世はファティマに近づいた。怪訝に顔をしかめたファティマの腕を掴むと、ぐっと自分の顔のほうに引き寄せる。思わず開いた口の上に、イドリース二世の唇が重ねられる。舌が入り込む。他人の体温を直で感じ取ってしまい、自然、嫌悪感に似た感情が心を支配して、身体が硬直してしまう。
口が離される。
呆然とするファティマを一瞥して、イドリース二世は告げた。
「アリーの言葉を聞いたな。俺は、幼い王だと思われている。……そう、思っているのは、アリーだけではないがな」
苦々しく顔を歪めるイドリース二世に、ファティマは半ば呆けた状態で、話しかける。
「と、とりあえず、今ので、儀式の一段階目は完了したわけ?」
「俺の話を聞いているのか、貴様は」
「聞いているよ、聞いているけれど」
苛立った表情を見せたイドリース二世にファティマは曖昧に笑いかけた。
「少しは私のことも考えてほしいのだけれど。今度は斬りつけられてしまうのだよね?」
「どうして俺がわざわざ貴様の感情を汲み取らなければいけないのだ。……とはいえ、確かに貴様の身体のことだから気にするのは当然かもしれないが。斬りつけるといっても命は取らん」
「あ、ああ、それだけ、そこだけ」
そうだ、と答えるイドリース二世に、何か釈然としないものを感じながら、ファティマは頷いた。
「それで、話を続けていいか?」
「何の話?」
「貴様が聞いた、願いの話だ。俺は大人になりたい。限られた時間でいい。幼い、と言われないように。馬鹿にされないように」
「そんなことのためにとはいわないけれど、無理があるんじゃないかな。だからといって、いきなり君が成長したら、誰もがおかしいと思うんじゃないのかい?」
イドリース二世に告げながらも、ファティマは胸にしこりのような不快感を覚えていた。同調するような、共感するような、それでいて拒絶したいような、曖昧な感情だ。
「俺もそれは考えた。今の俺が、急に大人になったら、さすがにおかしいと思うだろうし、そもそも、不思議な力を使用しなければ、皆を説得できるほどの人間になれないとばれた時点でしまいだ」
さすがにそのくらいは理解しているのか、とファティマは考える。逆に、理解した上での覚悟なら、ファティマがどうこう言うべきではないのも。
それ以前に、王族に気軽に話しかけられるこの状況こそがおかしいのか、と、どこか遠いところにいるような気持ちでファティマは思う。すると、途端に先ほど彼と口づけしたことを思い出してしまい、思わず、俯いて自分の顔を隠してしまった。結局、自分の置かれている状況の奇妙さに、ついていけてないのだ。
「何故、顔を手で覆い隠している」
「いいえ、何でもないよ。気にしないでくれ」
「つまり、俺が言いたいのは、いかに、イドリースの鎌の力を使用したとばれないように、俺が成長するかだ」
「そんな夢物語、寝物語にするのでも難しそうなのに、秘宝を使用してどうにかなるものなのかな」
「例えばだ、一日おきに俺の心が成長した俺と入れ替わるのはどうか。一日おきならば、記憶に抜けがあっても問題ない段階だろうし、かといって、一日とはいえ、十年後の俺が、成長した分、適切な対応を取れば、周りを見返すには十分な時間だろう」
イドリース二世の告げた言葉は突拍子もないことでありながらも、彼の自信満々な態度が、可能であることを裏付けているように思える。それだけ、彼の瞳にはいつも以上に力が漲っていた。
「その、十年後の君が、周りにばらしてしまう危険は?」
「俺のことだ、俺にはわかる」
つまり、ないと言いたいわけか。ファティマは心中で呟いた。
「じゃあ、本当に、一日おきに、未来の自分と、身体はそのままに、心の中身だけ入れ替わることを、秘宝を使用して叶えようとしているわけ?」
「儀式は既に一段階完了している。ここまで来てやめられるか!」
「そう、怒鳴らなくても」
「怒鳴りたくもなる。俺がどれだけ準備をしてきたかと思っている。イドリースの鎌ですら、今までの俺では自由にできなかったんだ。ようやく、こうして触れるだけの権利を得ることができた。それも、今日だけだ。今日以外に時間はない。だから、貴様が女だとしても強行するんだ」
ふと、先ほど出くわしたアリーのことを思い出す。少し会話をしただけだったが、彼の聡明さは十分に理解できた。彼は、イドリース二世の考えていることなどお見通しなのではないかと、考えが過ぎったが、あえて口にはしなかった。
「俺は、早く大人になりたいんだ。幼いものだと決めつけられて、考えを否定されて、押し潰されて、喋ることもできないまま、生きることを強要されるのは嫌だ。それでも、俺には口がある。だから、言葉を口にするのに、誰も相手にしてくれない。それは、俺が年齢的にいうと若いからだ。生まれる前から、王になると決まっているから、誰も俺自身の能力には期待しない。生まれで決めつけ、年齢で決めつけ、容姿で決めつけ、俺自身を見てくれないのは嫌なんだ。だから、俺は、未来の俺が」
イドリース二世は、そこで言葉を詰まらせる。
ファティマは納得した。つまり、イドリース二世は、未来の自分に頼りたいというより、未来の自分が周囲を納得できるだけ成長しているか、いち早く確認したいだけなのだろう。ついでに、未来の自分に、今の自分の仕事をやらせようとする辺り、甘さが見え隠れしているが。
そして、未来の自分を見たいというのであれば、ファティマにも覚えがある。ファティマも、生きるか死ぬかの状態に置かれた現状、どこまで自分が生きていけるのかを見てみたいからだ。王との出会いも何かの縁なのだろう。それを喜ぶよりも、まずはそのきっかけから自分が長く生きていける道を探していきたい。人に注目されることは好きだ。だけれども、その好きという気持ちをずっと持ち続けていきたい。不安定な状況で、いつかその気持ちが潰されるのを、力なく待ち続けるよりは。
「待って!」
ファティマは叫んだ。自分の胸に手を当てて、言葉を続ける。
「だったら、その願いの対象に私も含めてくれないかな」
ファティマは目を閉じた。
「君にはわからないけれど、私はずっと怖かったんだ」
汚い大人たちに囲まれて、できるだけその大人たちの眼に自分が入らないようにする生活を思い返す。
「自分が、ちゃんと大人になってまで、生きることができるのか。こんな貧しい生活をして、汚い大人たちに囲まれて、いつまでも誤魔化して、こそこそして、ちゃんと大人になれるのか」
大人たちの姿を見よう見まねして、足掻くように生きてきた日々を思い返す。
「私は曲芸しか、本当にできることがないんだ。けれども、同時に」
自分が、周りの大人たちになれるのか、このまま子供のままで終わるのか、不安で堪らなかった時間を思い返す。
「こんなもので、大人になるまで生きることができるなんて、到底思えないんだ」
ファティマは瞼を開いた。真正面から、イドリース二世を見つめる。
「だから、私も対象にしてよ。私が大人になれているかどうか、確認したいんだ。そうしたら、もっと私は、堂々とした態度で、呼吸ができるようになれると思うんだ」
イドリース二世は無言でいる。きっと馬鹿なことを言い出したと思っているのだろう。それでも、ファティマは諦めたくなかった。ここまで事態に巻き込まれるのであれば、最後まで巻き込まれたままでいたいと思ってしまったのだ。
「今は明日が見えなくて、先が見えなくて、その暗さで、たまに息が出来なくなるくらい苦しくなることがあるんだよ。この気持ちは、立場が違えど、君と同じものだと思うんだ」
「わかった」
イドリース二世の言葉にファティマは顔を輝かせる。
「ならば、願おう。イドリースの鎌に。貴様と俺の心を、一日おきに、十年後の俺たちのものと入れ替わることができるように。将来の俺たちに、今を託して」
鈍い振動に、ファティマは目を見開いた。腹に違和感がある。ゆっくりと自分の下半身を見た。イドリース二世の持っていた鎌が、右腹を突き刺している。おもむろに引き抜かれると、痛みより先に、霞む視界を意識する。次に熱だ。じんわりと広がりゆく熱は、身体から、力を奪っていく。緩やかに倒れ込む自分を認識しながら、暗くなる視界で、ファティマは何とかイドリース二世の姿を捉えようとした。