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第二話 無理やりはいけません

 獣の匂いがする。先刻から小粒に降り続ける雨のせいで、臭気が籠もっているからだ。

ファティマを追い回していた男、イドリース二世はとにかく苛々していた。彼の衣装を見ると、黒ではなく紫のベールで身を包んでいた。闇夜に惑わされて色が判断つかなかったようだ女のような格好をしているのは、自分の身分を隠すためだろうか。ファティマは、顔を露わにしたイドリース二世の顔をまじまじと見つめていた。


「貴様が女だとは聞いていなかった」

「話したつもりはないね。そもそも初対面だろう」


 ファティマの突っ込みに、イドリース二世が眉間にしわを寄せた。


「貴様、俺は王だぞ。もっと礼儀を弁えろ」

「育ちの悪い平民に期待するなよ」

「それもそうだな」


 てっきり反論がくるとばかり思っていたファティマは、その反応に拍子抜けする。


「何を驚いている。貴様が言ったのだろう。自分を育ちの悪い平民だと。ならば、確かに貴様に礼儀や礼節というものを期待する俺が間違っている。それを俺は認めただけだ」

「認めるのは構わないけど」


 ファティマは指を突き出して微笑んだ。


「だったら、私をこのまま家に帰してくれないかな? 君のことは見なかったことにするから」

「馬鹿か、貴様。俺がここまで貴様を追い詰めた意味がないだろうが。俺は貴様に用事がある」

「私の方は、王様に用事はないけどね」

「俺はある。何度俺に同じことを言わせるつもりだ、大人しく言うことを聞け」


 再度、イドリース二世は苛立ちを見せ始めた。王と話をしたのは初めてだったが、随分短気な性格であるようだとファティマは判断する。十一で王位につき、アラブ人の摂政たちの支援があったとはいえ、幼いながらに見事な統治の腕を見せたといわれる印象とは、ほど遠いものがある。今は、齢十七だったか。強い双眸に惑わされて年相応に見えていたが、こうやって素直な感情を表に出す彼は、もっと年下に見えた。


「言うことを聞いてあげているじゃないか。だからこうして君とお話をしてあげているわけだし」

「それもそうだな。逃げようとしない貴様に感謝する」


 素直なのか、それとも人を馬鹿にしているのか、判断のつかない王様だとファティマは嘆息した。


「貴様が女であるのは誤算だが、仕方あるまい。こうして貴様に顔を見せてしまった以上、貴様を利用するしかない」

「一体、私を何に利用する気なのかな」


 ファティマは既に腹を括っていた。王の思惑がどうあれ、彼の判断ひとつで自分をどうにでもできる。だが、見たところ、何を考えてか、彼の周囲には護衛ひとりも存在せず、彼単独での行動のようだ。お忍びといったところか。

 イドリース二世は、肩を揺すり、小さく笑った。


「今、この場で説明する気はない」

「じゃあ、私はどうしろと?」


 ファティマが苦笑すると、イドリース二世はぐっと近づいてきた。驚いて身を引こうとする彼女の首に巻いていた布を乱暴に引っ張る。鋭い感情を秘めた眼差しを間近で見て、ファティマは一瞬だけ呼吸を忘れた。曲芸をしながら虚ろに過ごしていたファティマとは異なる、色鮮やかなまでに生きている人の感情だった。吐息がかかる距離まで接近されて、鼓動すら止まりそうになる。

イドリース二世は、その布で彼女の顔を覆い隠した。


「しばらく顔を隠していろ。貴様が女だとばれるのはまずいからな」


 ファティマは首元の布を強く掴んだ。羨ましい、妬ましいと感じた自分の心を恥じる。やはり立場が違うのだ。ファティマには持ち得ない、生きようとする意志がはっきりとしている。


「そういえば、名を聞いていない。貴様の名を教えろ」

「ファティマ」


 ファティマは心の震えを押し殺して、あえて明るい声音で告げた。


「俺の名は」

「わざわざ名乗らなくていいよ、君は」

「イドリース。父と同じ名だ」


 ファティマの言葉を遮って、イドリース二世は、乱暴に言葉を続けた。その横暴さも、ファティマの心に影を落とした。



 イドリース朝の首都、フェズは、イドリース二世の手によって作られたと言われている。イドリース二世が王を継承したのは、僅か十一歳の頃であった。先代の王、イドリース一世は、フェズ川の河畔の地に町を作り、そこを基盤に首都を開拓しようとしたが、陰謀に巻き込まれ毒殺されてしまったからだ。だが、幸いなことに、王が手をつけた奴隷が妊娠していた。王の不在は、その奴隷の腹に宿った命に託されることになった。幸か不幸か、生まれたのは男子であった。そして、首都の建設はまだ幼き命である、やがては王になるであろうイドリース二世に受け継がれたのだ。

父親と同じ名を持つイドリース二世が王として選ばれたのは、先代の王の傍にいた奴隷上がりの側近が、強く彼を王として推したからである。

 何故ならば、イドリース朝は、ベルベール人とアラブ人、ふたつの種族によって成り立っていた。そしてイドリース二世はベルベール人の血を受け継いでいた。結果、その側近がアラブ人の摂政派に毒殺されてしまったのだが、側近はそれすらもイドリース朝を永続するために望んでいたことであった。何故ならば、その側近の死と、イドリース二世の王の継承によって、齢十一歳の王を補佐するものたちのほとんどがアラブ人で占められたからである。ベルベール人の血を受け継ぐ王と、アラブ人の権力者たち。ベルベール人たちには、その血を受け継ぐものを王とすることで、民族を立て、アラブ人たちには実質的な権力を任せる。見事な釣り合いのもとに、イドリース朝は成り立っている。

 全て口承芸人の物語を聞いて知ったことだが、とファティマは思い返した。真実かどうか知らないが、イドリース二世の誕生には、多くの陰謀と謀殺によって成り立ったものだと聞いている。

 ファティマは王の住む宮殿まで連れてこられた。さすがの王も、宮殿の真正面から入る度胸はないらしく、城壁の裏側、庭園に生えた木々の隙間に隠された裏口から王宮へと入り込んだのだ。

 王宮内部は、見たこともない色彩のタイルで、床面が敷かれていた。磨き抜かれた大理石は、白色と緑色の光沢で輝いている。三角模様が鮮やかに映えていた。壁は繊細な幾何学文が見事に浮かび上がり、清廉さの持てる色合いと装飾で統一されている。

 ファティマは頭上や床に並ぶそれらを眺めながら感嘆する。まるで夢の世界だ。

 こんな夢の世界で、謀略に塗れながら生き抜いている、幼い王。それが、イドリース二世だ。


「しかし、俺はすっかり貴様に騙された。そんな格好しているからだ。貴様が女であることを気付けるわけがない」


 目の前の男を見る限り、全くそう思えないのが問題だが。ファティマは心中で呟いた。


「一応これでも女だからね、その辺はあえて触れないでほしいな」

「それも、そうだな、俺が貴様ら平民のことを、わかったふりをするのはよくない。すまない」


 ファティマは押し黙る。横暴だと思えば、素直になる。最後まで権力を誇示した態度を取れば、ファティマの方も少しは抵抗しようという気持ちになるのだが、つい状況に押し流されてしまっている。不思議な雰囲気があるのだ、彼には。


「王、捜しました、一体どこに行ったのですか!」


 ぼんやり考えていると、目の前から声が聞こえた。

 アラブ人だ。どうやら、役人のひとりのようで、イドリース二世に対して、いまだ河川の整備の調整に関しての了承が貰えていないことをぼやいている。イドリース二世が適当にあしらうと、その役人は悔しそうな顔をして、通り過ぎていった。

 次に会ったのは、同じくアラブ人の役人だ。その役人は先ほどの者より重要職についているようで、先ほどのものよりも横柄な態度でイドリース二世に接している。ベルベール人との軋轢に対して報告しているようだ。やはりイドリース二世は、このものに対しても、曖昧な返答で切り抜けた。イドリース二世のそんな態度に、その男は怒鳴りそうになったが、ぐっと我慢した様子を見せて、立ち去った。

 そんな様をファティマは眺めながら、どうやらイドリース二世は、少し官職たちに侮られているようだと感じる。

 すると、もう一度、イドリース二世を呼びかける声音が聞こえた。


「王」


 屈強な体格のアラブ人だ。茶褐色の皮膚に、精悍な顔立ち、短く刈り揃えられた髪、そして一目でわかるほどの上等な布で織られた衣装、身分の高い人間であることはすぐに判別つく。


「アリー、そろそろ来る頃だと思っていた」


 イドリース二世にアリーと呼ばれた男は、王に挨拶を行うと、焦燥の色を隠そうともせずに怒鳴る。


「先に言っておきます、駄目です」

「まだ何も言っていないぞ、俺は!」


 イドリース二世は憤慨の色を隠そうともせず、忌々しそうに告げた。


「何も言わなくてもわかります。突如姿を消してふらりと。戻ってきたと思えば不審者を横に連れて。無理難題を口にしようとしているのは、察します」


 アリーは口を噤み、王の傍にいるファティマに視線をやる。


「そこの者は、一体?」

「今日から俺に仕える小姓だ」


 そういう話に持って行くのか。ファティマはイドリース二世の言葉を他人事のように受け止めていた。先ほどまで泥臭い場所に住んでいたのだ。いきなりこの世のものとは思えない華やかな場所に連れてこられてしまったので、現実感が薄れてきてしまっている。


「言うと思っていました。駄目です」

「俺はまだ紹介しただけで、これから何をするとは言っていない!」

「どこの者かもしれない人間を王の傍に置くわけにはいきません」

「正論を言えば、それで通ると思っているのか!」

「通らないと考えてしまう方が問題です。正論だと理解できているのならば、即刻そのものをこの宮殿から退去させてください」

「アリー、俺は!」


 イドリース二世の言葉を聞いて、アリーは緩やかに首を横に振った。


「何をどうしようが、駄目なものは駄目です。無理です。拒否します。拒絶します。受け入れません。さようならです」

「そこまで言うことないだろう! 王の言うことが聞けないのか!」

「駄目です。幼き王に、駄目なものは駄目だと、仕方のないものは仕方のないのだと、進言するのも配下の務めですから。大体、あなたはわかっておられるのですか? あなたが不在の間に、河川の工事や街の建築、アラブ人との対応格差に不満を持つベルベール人の対応や、アラブ人たちで占められた親衛隊の訓練整備、あなたが頭に入れなければいけないことは山ほどあるのですが」

「そんなもの、俺ならばすぐに頭にたたき込むくらいはできる! 俺を馬鹿にするな! 俺は、いつまでも幼くは!」

「幼いでしょう、あなたは」


 アリーはイドリース二世の言葉を聞いて、深くため息をついた。やがて、顔を持ち上げると、ファティマのほうに鋭い視線を向けてくる。


「おまえ、名前は」

「名乗るほどのものでは。宜しくお願いしたいね」

「無礼な口を。宜しくするつもりはない、さっさと出て行け」


 無難に挨拶したファティマに、冷たい言葉が投げかけられる。さてどうしたものか、とファティマは困惑した。冷静な自分は、厄介なことに巻き込まれそうになる前に、さっさと何も見なかった、聞かなかったふりをして、言われた通りにすればいいと忠告している。だが、その反面、別の自分は、果たしてこのまま宮殿を退去しても見逃して貰えるのだろうかと命の危機を伝えてくる。ファティマは少し考えると、アリーに向かって小さく笑った。


「ところでさっきの話だけど」


 無礼な口調だと言われたことは無視する。ただの物乞いであるファティマは王家に対して忠誠心など抱いていないからだ。


「私の話だろう。他に言うことはない、さっさと消え失せろ」

「そうじゃないよ、あなたさまが王の耳に入れるべき話のことだよ。私を目の前にして、わざわざ王の忙しさを伝えてくれたのは親切で有り難いんだけど、ひとつ、重要な話が入っていないのが気になってね」


 アリーは無言のまま、眉を少しだけ動かした。


「私たち、飢えた民のことだよ」


 ファティマは笑みを刻んだまま、口を動かす。


「物乞いになるしかない民のことはご存じで? この身ひとつしか売るものがないものたちのことは? 見せ物を行い、明日をも知れないものたちのことは?」

「曲芸をやれるだけの余裕があるのだろう。おまえのいう明日をも知れない、というのも程度がしれている」


 アリーの言葉に、ファティマは彼から離れて、くるりとその場で回転した。素早くイドリース二世に近づき、彼の腕に触れようとする仕草をして、アリーの顔が小さく歪むのを見て、笑った。


「それもひとつの真実だね。私よりも酷い状況の人たちも存在するし。じゃあ、貧困層はどうでもいいと? それがあなたたちの答えだと受け取ってもいいのかな? やれやれ、少しは期待していたんだけどね。せっかく、王家の秘宝を持ち出して何やら画策していたみたいだから、我ら貧しき民のためだと信じていたんだけど」


 ファティマは背中に手を回した。すっと隠していたものをふたりの前に見せる。王の持っていた鎌だ。


「おい、貴様、いつの間に!」


 王の油断をついて、王からかすめ取ったのだ。

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