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第一話 見せ物屋の少女、王に見初められる(ただし男として)

 イドリース朝の都市フェズの夕暮れは、喧噪とともにやってくる。

 フェズの市街メディナの中央広場は、とくにその特徴が際立っていた。

 香ばしい香りに、甘い蜂蜜の匂い、獣の血の臭みも混じり合う。広場に数多の屋台が立ち並んでいた。屋台の店員だけでなく、薬売り、曲芸師、楽師なども集い、口上や演奏を披露していた。

 できたばかりの土地だというのに、ここまで人の生気が満ちあふれる場所もそうそうないだろう。だからこそ、先代王の息子であり、今代の王であるイドリース二世に、首都に相応しい土地として選ばれただけのことはある。イドリース二世が土地を選出するために使用した秘宝、イドリースの鎌の力が、それだけ、とてつもない不思議な力を秘めている証拠かもしれないが。

 蛇遣いや口承芸人が集っているその場所に、ファティマという若者がいた。

 顔を包帯で覆い、頭には髪の毛が見えないほど黒い布を巻いて、身体の形を厚い黒衣装で隠している。ファティマは小さな黒い袋を取り出した。ファティマの周囲にいた観客は、何を見せてくれるのか、期待に満ちた目で、その小さな背をした人間を見つめている。

 ファティマは黒い袋の中を、自分だけが見えるようにしてのぞき込み、すぐさま背をのけぞらせた。袋の中に何か潜んでいるようだ、と客に見せつけている。袋の中に手を入れて、目を丸くして即座に引っ込める。ファティマは袋の中に危険な生き物が住み着いているから、と客に向かって後方に下がるように告げた。ファティマはくぐもった声音で、この生き物がどれだけ危ないかを淡々と語った。ファティマが袋に触れるたびに、黒い袋は跳ねるようにして蠢き、そのたびに客も動揺して、うめき声や悲鳴を上げる。

 しばらく袋と格闘して、ファティマはようやく袋を踏みつけることで大人しくさせた。ファティマはその場にしゃがみ込み、袋を開けようとした。

 客の視線が一気に集中する。

 ファティマはこの瞬間が一番好きだった。

 人から注目を浴びる瞬間だ。

 ファティマは孤児であった。見せ物をしているのは、金を稼ぐという理由もあるが、様々な人間に興味を持ってもらえるというのが一番大きい。物心ついたときから両親はいなかった。傍にいたのは、同じ物乞いたちだけだった。そんな彼らが食い扶持を稼ぐために行ってきた曲芸を見て、そんな彼らの傍にずっといて、人に興味を持って貰えるということの気持ちよさを覚えたのだ。今まで、誰も気にとめてくれなかったからこそ、その気持ちは、ファティマにとって生きる希望になったのだ。

 だが、たくさんの視線の中に、鋭い視線を感じとり、ファティマは、顔に巻いた布の下で小さく顔をしかめた。

 いつもこうだとファティマは考えた。観客たちの中に、ひとりだけ、強い感情を含んだ視線を送っているものがいる。ファティマは無意識に、その視線の先を追う。

 あの人間だ。最近、ファティマの見せ物を楽しむ観客の中に、必ず混ざり込んでいる。その人間は、ファティマと同じように、顔と身体の形を黒い布で隠していた。ただ、ファティマと違うのは、両目を外気に晒している。強い意志を、いや、強い意志しか感じられない。敵意でも悪意でもないが、不快感があった。

 同時に、その視線に強い既視感を覚えていた。

 どこで、どこかで。一体、誰に?

 観客から不満の含まれた声音が漏れる。ファティマは我に返った。まだ見せ物の途中だった。ファティマは持っていた袋をひっくり返した。袋から出てきたのは黒いターバンだった。最初から、袋の中に生き物など入っていなかったのだ。観客たちは騙されていたとわかると、怒るどころか、見事に騙してくれたファティマに賞賛を送る。

 ファティマは両手を挙げて、観客たちの声に応じながら、最近ファティマをつけ回している不審者を一瞥した。その人間の瞳の強さは変わらない。むしろ激しさと鋭さを増してファティマを見つめていた。



 フェズは蜘蛛の巣のような街だ。小さな家々が密集しており、道は迷路のように入り組んでいる。馬の鳴き声や荷車の駆ける音、それが狭い壁により反響するのを聞くことが、ファティマは好きだった。

 しかし音は聞こえない。夜もすっかりふけているからだ。

 そう、ファティマの背後から聞こえる足音以外は。

 狭い道の隅の壁に寄りすがるようにして、ファティナは足を止めた。振り返らずにファティナに尋ねる。


「で、いつまでついてくる気かな」

「わかっていて、ここまで俺を無視したのか、趣味の悪い奴だ」


 ファティナは背後に視線を向けた。そこにいたのは、やはりあの人間だった。ここ数日、ずっとファティマをつけ回していた奴だった。男だったのか。ファティマは苦々しくその人間に告げる。


「何故、私を見ていた。私に用があるのかな」

「貴様に用事があるからだ。他に何かあるのか」


 その男に対しての感想を、ファティマは素直に口にした。


「随分偉そうな態度だな。それが人に物を頼む態度?」

「同じく失礼な態度をとる貴様に言われたくはない。俺を誰だと思っている」

「初対面の人間が何者かわかったら、私はそれこそ素晴らしい人間だね。君は誰だ?」

「俺は」


 その男が続きを口にする前に、ファティマは前を向くと素早く駆けた。自分に付きまとっていた怪しい男にこれ以上付き合っても命に関わる必要がある。だからこそ、蜘蛛の迷宮と例えられるこの場所にまで、男を引きつけたのだ。相手を完全に巻くことができるように。

 孤児だからこそ、欲の強い大人たちに好きにされる可能性がある。とくにファティマのように、誰も頼るものがいない場合は。今日みたいなことは、今に始まったことではない。

 走るたびに、周囲の壁が、茶色から灰白色へと目まぐるしく変わっていく。小さな家屋の連なりがいつまでも続いていくのを横目で追いながら、ファティマは更に走る速度を上げていく。

 壁が見えたところで、ファティマは跳躍して、屋根に手をかけ、その壁の向こう側に逃げ込もうとして。

 巨大な刃が眼前を通り過ぎた。

 鎌だ。

 ファティマは驚愕して無意識に身を引く。瞬間、温かい感触と人の気配を感じ取る。


「まだ喋っている途中だ。これだから、育ちの悪い平民は困る」


 男の声がすぐ後ろで聞こえる。いつの間に追いつかれていたようだ。混乱した頭ではうまく思考が回らないが、どうにか口だけを動かそうと試みる。


「育ちの悪い平民だと思うなら、私に関わらないでほしいな。何故私に」

「黙れ、今は俺が喋っている途中だ」


 鎌が壁から引き抜かれる。壁を打ち砕くとは、とファティマは唾を飲み込んで恐怖を抑え込んだ。刃をどれだけ鍛え抜いても、扱うものの力と腕がなければ、こんなことは到底できない。


「だが、貴様の問いには答えてやろう。主に貴様を選んだ理由は、貴様がただひとりで生きているからだ。ひとりで生きている人間だったら、別に貴様でなくても構わなかった」


 ファティマは無言でその言葉を理解しようとする。彼はファティマを利用して何かを企んでいるのだ。


「そして、貴様が男であればな」 


 ファティマの思考は完全に固まった。重たい沈黙の間があき、背後の男がゆっくりと告げる。


「だから、俺は」

「待て」


 ファティマは顔を覆い隠していた黒い布を取り外して、振り向いた。


「私は女だ」


 ファティマの長く黒い髪の毛がふわりと広がる。それと同時に、ファティマは目を大きく見開いた。

 既視感の正体を思い出したからだ。

 フェズの土地が栄えた話を思い出す。フェズは、イドリース二世により首都として選出された。そして、ファティマは一度、そのイドリース二世の顔を遠目で見たことがあった。白い肌、闇のように塗りつぶされた肩までの黒い髪、そして、濁った野心を隠そうともせず、ぎらぎらとした強い瞳が印象に残っている。

 その強い瞳が、目の前にあった。


「イドリース二世、王……?」

「女だと、そんな馬鹿な」


 ファティマと男は、同時に呟いた。

 その強い瞳は、今は困惑に揺れている。

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