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愛すべき患者たち 2・豊胸願望の女

 舞美は自分の胸が小さいことを気にしている。


 彼女は、母親が昔で言う『ペチャパイ』だったせいか、幼い頃から人一倍豊かなバストに憧れていた。お絵かきの題材はいつもオッパイの大きな女の人。それがお姫様だろうが着物を着ていようが、おさげの女の子だろうが、胸のあたりを異様に膨らませて描く。


 最後の仕上げにと、大きく開いた胸元に谷間を表す線を描き入れる時、彼女は満たされた。自分も大人になれば、きっとこう。ペチャパイの母親を差し置いて、女は大人になれば皆ボインになるものと思っていた。たわわに実った丸いバストの間に、立派な谷間ができるものだと信じて疑わなかった。



 思春期。周りの友達が次々とブラジャーを着け始めるのを、舞美は羨望の眼差しで眺めていた。

 自分もいつかは突然に大きくなるはず。そう思いながら、子供のように薄い胸を鏡に映す日々。だが、彼女の胸は一向に膨らんではこなかった。人並みに体に脂肪もつき、既に月一のものは起きていたがそれとこれとは別のようであった。


 いい加減トップが目立ってきた中3の頃。恥を忍んで母親に「ブラを買って」と頼んだ。初めてのスポーツブラは当然カップが余りに余っている。


 舞美は放課後家に帰っては、ぶかぶかのブラの中にハンカチを詰め込んで鏡の前でポーズを取った。ちょうどいけない遊びを覚え出した頃でもあったから、本当に毎日。


 きっといつかは。

 そう思いながら、彼女は来る日も来る日も鏡の前で裸になる。なけなしのバストを揉みしだく。22歳くらいが一番バストの育ちざかりらしい――そう噂に聞いたから諦めてはいなかった。大人になれば大丈夫。漫画のキャラクターのように大きなバストは無理かもしれないけど、きっと人並みにはなれるわ。そう思っていた。


 だが、大人になる頃には彼女の夢はすっかり萎んでいた。神様はやっぱり、母親と同じく自分にもマシュマロのような女の宝を与えてはくれなかった。裸になって鏡に映しても、他の部分と比べて乳房だけがやたらと骨っぽい。そういう人は絶望的に乳腺がショボいのだということは、インターネットで知った。



 かくして、舞美は筋金入りの貧乳コンプレックスとなった。子供の頃から続いていた願望だっただけに、自分の意識では10年以上にも及ぶ。かくなる上は…。そうだ、一生懸命働いてお金を貯めて、いつか絶対に豊胸手術をしてやる、そう心に決めていた。



 ある日、彼女に恋人ができた。今は25歳になった舞美よりもずっと年上の、美容整形外科医の男だ。


 池本とは共通の友人の紹介で知り合った。彼女が貧乳で悩んでいたことはその友達も知らなかったことだから、彼が美容整形外科医をしていたこととは全くの無関係だ。


 彼は優しかった。職業柄なのか整った顔立ちをしていたし、友達の話だと医者としての腕もいいらしい。こんなに素晴らしい男性がなぜ40近くまで独身でいたのかと舞美も不思議には思ったが、とかく恋は盲目だ。きっと私と出会う運命だったのだと、彼女は結論付けた。



 付き合い始めて1か月。キスから先をなかなか許さない彼女に、池本は新たな一手を打った。


「ええっ、旅行…?!」


 舞美は素っ頓狂な声を上げた。静かな夜の喫茶店の中である。


 池本はチラリと辺りを見回してから頷いた。彼はよく人目を気にする。自分と舞美の歳の離れているのが少し気になるのだ。


「舞美ちゃん、来週一杯盆休みだろう?俺は纏まった休みが3日しか取れないんだけど、そこでどうかと思ってさ」


 彼はいつもと同じ優しい笑顔を浮かべた。が、舞美は戸惑った。ほほえんでみたり、眉根を寄せたりと落ち着かない表情だ。


「…うち、親が厳しいの。だからすぐには返事ができない」


 カップを弄りながら彼女は言ったが、そんなのは体のいい断りの口実だった。3人姉妹の真ん中の彼女には大して親の目も厳しくはない。寧ろ、なかなか嫁に行こうとしない長女の代わりに、さっさと孫の顔を見せてくれとさえ言われていた。


――私に堂々と見せることのできる胸さえあったら。


 25にもなって、そんな風にいつまでも殻に閉じこもっている自分が情けなかった。だが、誘われたことは素直に嬉しい。コンプレックスのこともあって常日頃から自分に自信のない彼女は、愛されているという自覚も弱い。だから、忙しい彼が少ない休みを自分と過ごしたいと思ってくれることにはとても幸せを感じた。


 彼に時間を貰って、舞美は数日の間考え通した。

 いずれにしてもどこかで殻を破らねばとは思っている。それが今なのかどうかは分からないが、自分はもう25なのだ。いつまでも親の子どもではいられないし、いずれは自分の家庭を持たなければならない。その相手が池本のような素晴らしい男であれば何も文句はないと思った。


 散々悩んだ挙句、彼の休みの前日に旅行行きをOKした。急であることと盆休みということで旅館はどこも一杯だったから、二人はラブホテルに泊まるしかなかった。


 手を引かれて初めて入った部屋はやけに煌びやかだった。壁も天井も殆どが鏡張りだったし、真ん中に大きなベッドが一つだけ置かれている。それを見た瞬間、舞美の小さな胸は痛いほど締め付けられた。自分の薄い乳房を通して、激しく打ち鳴らされる鼓動が彼の耳まで届いてしまうのではと思った。


 鉄製の重い扉が閉まってすぐ、舞美は彼の手を引っ張った。


「…秀行さん、聞いてほしいことがあるの」


「うん?」


 池本は立ち止まり、舞美の方を向き直った。


 この歳で処女だと知ったら彼は驚くかもしれない――そうは思ったが言うしかない。彼は私の胸を見たらきっとがっかりする。これまでに抱いた幾多の女の人の誰よりも、私は貧弱な胸をしているはずだもの。それならば、傷は浅い方がいい。いざベッドの上でギクシャクするより、先に明らかにしておいた方がお互いのためになるのでは…そう思った。


 舞美は自分のコンプレックスのこと、そのせいでこれまで付き合ってきた相手に肉体関係を拒み続けてきたことを、震えながら打ち明けた。


「なんだ、そんなこと」


「えっ…」


 池本はいつもと同じく、目尻に皺を寄せ包み込むような笑顔を見せた。彼女にとっては一世一代のカミングアウトだった。それなのに『なんだ、そんなこと』だなんて、と拍子抜けした。


 池本は言った。


「この仕事をしてるとさ、毎日毎日、いろんなことで悩んでる女の人が俺のところへ訪れてくるんだよ。けど、結局は綺麗になっても胸が大きくなっても、それは表面上の美しさでしかないんだ」


「舞美ちゃん」


 再び手を握られて、はい、と小さな声で返した。


「俺がそんなこと気にすると思う?君の外見しか見てないと思う?」


 真剣な眼差しだった。心の底では彼を信じていなかったことを恥じた舞美は、力強く首を振った。


 きっと大丈夫。この人になら、私のすべてを見せられる。この人なら、私のすべてを受け入れてくれる。そう自分に言い聞かせながらシャワーを浴び、ベッドに上った。


 池本は優しかった。舞美が本当に処女だったことには彼も驚いていたが、寧ろ喜んでくれたようだ。長年舞美を苦しめてきた小さな胸すらも、彼は愛おしむ。破瓜の瞬間は余りの痛みに声を上げてしまったが、それすらも後から思えば幸せな記憶に思えた。


 旅行を終える頃には、舞美はかつてない程の幸せを感じていた。やはり男と女は心だけでなく、身体も結ばれてこそ本物の愛を手に入れることができるのだと確信した。絶対にこの人だ。自分にはこの人しかいないのだと信じ切った。



 旅行から帰って次の週より、二人は結婚を前提とした同棲を始めた。


 二人だけの生活は毎日が新鮮で、とにかく幸せだった。彼が休みの日には家事も分担してくれたし、買い物に行けば重いものを持ってくれる。あと数か月もすれば自分はこの人の妻になるのだと舞美は信じて疑わなかった。


 ところが、ほどなくして事件は起きた。彼と暮らしてひと月後の給料日、銀行で通帳記入をした時のことだ。いつか豊胸手術をするためにと舞美が貯め込んでいた預金の一部がごっそりと引き出されていたのである。その額120万。まさかとは思ったが他には考えられない。彼女は仕事から帰った池本を問い詰めた。


「ごめん。ちょっと…借りた」


 彼はすぐに認めた。声は小さめだが目を逸らすでもなく、意外に悪びれる様子もない。


「借りたって…返してくれるの?」


「それは、…うーん。約束できないかな」


 優男らしく、やんわりとした口調だ。だが、内容的には返す気はないと言っているのと同じことだ。彼女は騙されなかった。


「あれは私が一生懸命働いて貯めたお金なの。いつか豊胸手術するんだって遊ぶのも我慢して貯めた大切なお金なのよ。だから返してよ、今すぐに」


「…うん。でもちょっと待って。今は返す当てがないから」


 池本は疲れた中年のような顔を見せた。


 腕利きの外科医のはずなのにお金がないというのはどういうことなのか。こんな高級賃貸マンションに住み、高級車を乗り回し、デートの際は舞美に金を払わせたこともない。てっきりゆとりのある男だと思い込んでいたが…一体何に金を遣っているのだろう。


 腹も立ったが二人だけの生活に波風を立てても仕方がない。舞美は『分かった。必ず返してね』とだけ言い、その場は気持ちを収めた。



 次の日からだ。彼の態度が突然変わったのは。


 舞美にしてみれば青天の霹靂だった。昨日まで優しかった彼は明らかに口数が減り、舞美に笑顔を見せなくなった。愛しているとも言わなくなった。家事も手伝わなくなり、徐々に帰りが遅くなり、ついには家に居つかなくなった。そもそも、彼は本当に美容整形外科医なのだろうか。彼を紹介した友人の口からも彼からも、勤めは品川にあるクリニックだと聞いていたが、実際舞美はそこを訪れたことがない。それならば彼が嘘を言っていても分からないではないか。


 彼の匂いのする部屋で、一人で過ごす時間は舞美にとってとても寂しいものだった。運命の出会いと思っていたのは自分一人だったのか。幸せはもう戻っては来ないのだろうかと、涙に暮れた。


 結局、二人の生活は2か月で幕を閉じ、舞美は実家へ戻った。


「浮気…かなあ」


「えっ」


 彼女に池本を紹介した友達はポツリと言った。それか、ギャンブルかキャバクラじゃないか、とも。だが舞美にしてみれば思い当たる節はない。一緒に暮らしている時、彼はそんな素振りを微塵も見せなかった。ただ、やたらと仕事に忙しく、医師仲間としているらしい飲み会も多かった。


 もしかして、騙されていた…?


 考えたくはなかったが、120万の遣い途を想像しているとどうしても女のイメージが浮かぶ。エルメスのバーキン、ミンクの毛皮、ショーメのリング…。持ち主はきっと、自分と違って豊かなバストを持った魅力的な女性なのだ。彼は貧しいバストの自分に愛想をつかし、男の視線を一手に集めるほどの谷間を持った女性の元に行ってしまったのだと思いこんだ。


 池本への気持ちは意外にもすぐに吹っ切れた。だが、お金だけは返してほしかった。彼は貧乳でもいいと言ってくれたが、次の男はそうはいかないかもしれない。今度こそ豊胸手術を受けなければ、こんな小さな胸しか持たない自分の恋は実らないかもしれないのだから。


 意を決して、彼のマンションを訪れた。だがインターホンをいくら押しても返事はない。携帯電話も着信が拒否された。マンションを管理している不動産屋に聞いてみると、彼は今月分の家賃を払って出ていったということだった。


 どうしても金を取り戻したかった彼女は、ネット上に彼の情報が転がっていないかと血眼になって探した。休みの日だけでなく、仕事の合間を見付けて、スマホでも探した。だが彼の痕跡は見当たらず、代わりに見付けたのはとある掲示板の書き込みだった。


 舞美はその掲示板に書かれた文章を食い入るように読んだ。


『僕は女の人の胸が苦手です。少しでも膨らみがあると受け付けません。過去に彼女がいたこともあるのですが、いざ、という時にホテルで萎えてしまい、それ以来彼女もできません。お陰でこの歳まで童貞で過ごしています。僕は異常でしょうか?どなたかアドバイスをお願いします。

※別にホモではありませんのでその手の中傷はご遠慮ください。 タクミ 30歳』


 これって――。


 凹と凸がカチリと合わさったような気がした。これはまさに自分のためにいるような男ではないか。もしも彼が私のなけなしの胸ですら見たくないというのならそれでも構わない。服を着たままでセックスしたっていい。


 舞美は迷わず捨てアドレスを掲示板に書き込んだ。自分でもこんなに大胆なことをするとは思わなかったが、後悔はない。とにかくおかしなくらいに潔い気分なのだ。もしかしたらこれで自分のコンプレックスを捨てられるかもしれない。彼が私のことを愛してくれるなら。


 次の休み、舞美は新幹線に乗って名古屋に着いた。タクミは大阪の男で舞美は千葉の暮らし。ちょうど中間の名古屋駅で落ち合おうと決めたのだ。


 タクミは中肉中背、シンプルな服装をした普通の男だった。勝手にすごいルックスを想像していた舞美はホッと肩の力を抜いた。


 入った喫茶店で一通りの自己紹介を済ませたのち、タクミはいきなり言った。


「舞美さん、僕とホテルに行ってもらえませんか」


 会って早々、まだ20分も経たない時である。

 

 舞美は驚いた。初対面の男にホテルに誘われたからではない。彼女もまた、同じことを考えていたからである。



「翔ちゃんすごいねえ、お腹空いてたのお?ごめんね、オッパイ遅くなっちゃって」


「舞ちゃーん」


「なあにー」


「パスタは塩味でいいのー?」


「タクちゃんと同じでいいよー」


「了解ー」 


 1年後。舞美は拓海に見えないところで2か月になる息子に母乳をあげていた。


 夢にまで見たマシュマロのような乳房。そこに柔らかく食い込む桜貝の爪を見ていると、本当に幸せな気持ちになる。彼のシルクのようなほっぺを突くついでに、何が詰まっているのかと思うほどの自分のバストの脂肪を摘んだ。


 彼女は今、人生で最も満たされていた。


 赤ん坊を産めば自然と乳腺が発達し、バストがふくよかになるということに、なぜ気づかなかったのだろう。期間限定でも構わない。いや、期間限定でないとそれはそれでまずいのだが。


 授乳している間は夫婦の営みはお預けとなるが一向に構わなかった。舞美の小さすぎるバストに惚れ込んで一緒になった拓海は当然浮気などしないからだ。翔への母乳はきっかり1歳でやめようと思っている。拓海のために。そしてまた妊娠して豊かなバストを手に入れるためである。


「舞ちゃーん、パスタできたよー」


「はーい。こっちも今終わったー」


 舞美は翔を抱いてソファを立った。



 彼女は間違いなく最高の幸せを手に入れた。あれほどコンプレックスに感じていた小さすぎる胸にも、それを与えてくれた母親にも今となっては感謝している。もしも自分が大きなバストを持っていたら、拓海には出会えなかった。あの時ネットの掲示板を見ていなかったらあの書き込みも見なかったのかもしれないのだから、そういう意味では自分を騙した池本にすら感謝していた。



 人生とは分からないものだ。そして人間が幸せになるルートは一つではない、ということだ。



(END)


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