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愛すべき患者たち1・潔癖症の男

少し汚い表現が出てきます。お食事中の方はご注意ください。

 サカガミという男は極度の潔癖症である。


 そういう人間の類に洩れず彼の趣味は手洗いであるが、当然蛇口には触れることができない。だから外出先でも困らぬよう、自動水栓の洗面台がある清潔なトイレの場所を熟知している。石鹸のあるなしも把握している。もちろん彼が目指す洗面台は、液体石鹸も自動で排出されるタイプのものである。


 ある時彼は、道端を歩いていたところ突然の便意に襲われた。仕事で外出中のことである。


 何となく朝から嫌な感じはしていた。腹がごろごろするというか、落ち着かないというか。こういう突然のアクシデントに見舞われぬよう食事には細心の注意を払っているが、時折こんなこともある。それでもルートセールスの彼にしてみれば大した問題ではなかった。日々訪れる大抵の場所には、最新鋭の設備が搭載された美しいトイレがあった。それに、見知らぬ土地へ行くことも殆どなかったから。だから会社に入ってからの8年間、公衆便所で用を足したことなどただの一度もなかったのだ。 


 彼は焦った。通勤経路や会社近くならばいざ知らず、ここは部長の命で急きょ出先から向かった見知らぬ土地である。当然清潔に管理されたトイレなんて知らない。おまけに腹はどんどん痛くなってくる。


―――下着を汚すのと手が汚れるのと、どっちがマシだ?


 二つを両天秤に掛けた結果、当然後者を選んだ。大人はオモラシなんかしてはいけないのだ。


 仕方なく彼は、100メートルほど先にあった駅のトイレに入ることにした。昨今のコンビニエンスストアは殆どが洋式便器だから、何が付いているか分からない便座に尻を載せることなど到底できないと思ったのである。



 駅構内のトイレはおぞましい汚らわしさだった。おまけに匂う。指紋がベタベタ付いたドアノブも、濡れた床も、彼にとっては汚物その物。これが大便だの小便だのとどこが違うのかと思うほどだ。


 しかし背に腹は代えられないと、たった一つだけある個室に入った。よくよく考えて、鍵を閉める際にはハンカチを使った。


 彼は何年かぶりに不潔な和式便器に跨った。床にはいろんなものが飛び散っていたから、なるたけ下を見ないようにした。便器を見たらきっと自分は卒倒してしまう。壁の落書きも、何かをなすり付けた跡も極力見ないようにと、天井を眺めながら用を足した。


 一通りの便意から解放されて、彼はトイレットペーパーを取ろうとした。が、ペーパーホルダーに目をやった瞬間、耐えがたいほどの不快感に襲われた。銀色の紙切り板に何かの液体が掛かっていたからだ。それは白いペーパーをほんのりと黄色く色づけし、そこから垂れ下った切れ端までをぐっしょりと濡らしていた。


 わずか50センチほどの距離にあるペーパーを彼は凝視した。


―――何なんだ、この液体は。


 答えは言わずもがな、である。何せ色が。切れ端の下に作られた水たまりがすべてを物語っているではないか。


 それでも彼はどうにかして被害を受けていないまっさらな部分を探す努力を試みた。自分は紙を持っていないし、尻を拭かずして立ち上がるわけにもいかないのだ。そこでさっき鍵を閉めるのに使ったハンカチを右手に握っていることを思い出し、それを介して紙切り板を持ち上げようとした。


 事件はその時に起こった。


 彼が紙切り板を持ち上げた瞬間、突然板とロールの間から何かが飛び出した。この世で最も忌むべき存在、悪魔の使者。黒い甲虫である。


 潔癖症の彼はもちろん心底それを嫌っていた。その虫が一人暮らしの自分の部屋に現れたら、通過した場所は勿論何度も除菌シートで拭く。前回仕留めた後には燻煙剤まで焚いた。そうしないといつまでも汚れが付着しているようで気が済まないのだ。


 その虫が今目の前にいる。たった1メートル四方の狭い空間に、目にも止まらぬ速さで移動する最強の敵がいる。


 彼はズボンを下ろしたままうろたえた。個室には隣の用具入れとの間に、下に数センチの隙間があるのにヤツは向こうへ行かない。だが、下手に追いやろうとして却ってこちらに近づいてこられても困る。


―――早く尻を拭いてここから出なければ。


 気持ちは焦るばかりだがトイレットペーパーはこの通りほとんどがお陀仏だし、何よりアイツが挟まっていた。ということは、ペーパーが何周巻かれていようがばい菌は深くまで浸透し、何枚剥ぎ取っても使える部分などないのかもしれない。そもそも、小便に濡れ、奴が挟まっていたペーパーに触れることなどできない。


 彼は自分でも気づかぬうちにパニックによる過換気を起こし掛けていた。

 黒い虫はスピードを上げた。栄養に満ち足りた艶やかな背を見せびらかしながら自分の方に近寄ってくる。だが、狭い個室内に逃げ場はなかった。足元は何かの液体に濡れていたし、何かが付着したティッシュが転がっていたし、まさに八方塞がりだった。


 その時、あろうことかゴキブリが彼の靴の先をかすめた。勝負はあっさりと着いた。ついに彼は気を失ってしまったのだ。派手に尻もちをつき、残念なことにスーツの裾は濡れた床に浸された。剥き出しの尻が汚れた便器に着地した。唯一救いだったのは、そこがすこぶる狭い空間だったということだ。被害を受けたのはほぼ下半身だけ。だが、彼にしてみれば壁に着いた背中も、後頭部も、みんな汚物まみれと等しいのかもしれないが。



 数分の後、彼は目を覚ました。そして起こったことを悟り、不覚にも涙した。尻を拭くのも忘れてズボンを上げ個室を出たが、手を洗うのだけは忘れなかった。自動水栓もオートソープディスペンサーもなかったが、それでも洗わないよりはましだった。


 果たして、潔癖症の彼にこのままでいることが可能だったか。答えは否、だ。彼は会社にも帰らず、アパートに戻って念入りにシャワーを浴びた。スーツも靴も廃棄し、玄関を入る際に触れたドアノブも除菌した。それ以降、もしもまた見知らぬ先で便意が起こったらと思うと会社にも行けなくなった。



 2か月後、平日の昼日中から彼は公園をブラブラしていた。あれから会社には数回しか行けなかったが、有休休暇がたくさん残っていたのと社内の規定で解雇はされなかった。だが元来真面目な性格の彼は働かずして給料を貰うことに耐えられず、自ら退職願を出した。今はその稟議中で自宅待機の身である。


 今日は暖かい一日だった。ここ数日の寒気も緩み、公園には幼い子供を連れた母親たちが数組訪れていた。その中に、入園前とおぼしき男の子とまだ性別もはっきりと分からないような赤ん坊を連れている40近い母親がいた。


 母親はベンチに赤ん坊の身体を横たえ、おもむろにおむつを替え始めた。当然サカガミにとっては許されざる行為だ。屋外とはいえ、公共の場で排泄物の処理をするというのは非常識極まりない。いくら赤ん坊の尻の下にマットを敷いているといっても、出物腫物はところ選ばずなのだ。突然の排泄でベンチを汚してしまうこともあるかもしれないではないか。


 見ると、周りをチョロチョロしている上の子も野良猫のフンが転がっていそうな砂場を手で弄くりまわしている。それでも母親はまったく意に介さず、赤ん坊のおむつ替えに集中している。


 やがて母親の号令で親子は弁当を食べだした。上の子は手を洗ったが、公園に石鹸はないからただ水道の下で手をこすり合わせただけだ。母親はというと、手を洗わずにウェットティッシュのようなもので簡単に拭いただけでおにぎりを食べている。手作り弁当を前に、親子はとても楽しそうだった。


 サカガミは意を決して彼らに近づいた。不審者と思われるかもしれないが構わなかった。自分が今までしてきたこと、今ある姿が間違いだとすれば彼らの行動にこそ何かしらの答えが見いだせるのではないかと思った。


 彼は挨拶もなしにいきなり声を掛けた。


「どうして手を洗わずに食事ができるんですか」


 突然の来訪者に母親は身を硬くした。膝に載せていた赤ん坊を強く抱きしめ、腰を浮かしかけた。男の子は母親にしがみ付いた。サカガミは一気に捲し立ててしまいそうになるのを抑え、できるだけ冷静に言った。


「今赤ちゃんのおむつを替えていたでしょう。それで石鹸で手も洗わずに食事ができるなんて信じられません」


 彼がしているのは世間一般から見たらただの『言いがかり』だ。鬼気迫る様子は不気味でもあったが、清潔感だけは溢れている彼の姿に母親は怯みもしなかった。


「だって、母親ですから」


 そう言うと、赤ん坊と男の子をしっかと抱きしめまま彼女は胸を張った。


「汚いと思ってたら子供の世話なんてできません。あなたのお母さんもそう思って育ててくれていたはずですよ。多分あなたの頃はまだ布おむつだった時代でしょう?昔の母親は便器の中に手を突っ込んで布おむつを洗っていたんですから」


 その言葉は彼にとって非常にショックなものだった。


 便器の中に手を突っ込む?とてもではないが信じられない。便器は汚いものではないのか。いくらよく掃除してあっても見えない雑菌だの大腸菌だのが恐ろしいほどに付着しているものではないのか。


 堂々と言い切った母親は輝いて見えた。彼は何も言い返すことができず、叱られた子供のように肩を落としてすごすごとアパートへ帰っいった。



 その晩彼は久しぶりに母親に電話をしてみることにした。父はもう他界していないが、兄夫婦が同居しているのをいいことにしばらく実家へは帰っていなかった。電話すら自分からは年に一度かければいい方だったから、突然の息子の声に母は驚くかもしれないと思った。


「もしもし、母さん」


―――あらあ、タカヒロ!久しぶりやねえ、元気にしとったと?


 電話口からはけたたましいくらいの母の声が放たれた。その後ろには、年賀状でしか見たことがない今年幼稚園に入った甥っ子の声が響いている。


 元気だよ、と答えてから、彼は次の言葉を考えあぐねていた。自分が突然『会社を辞めた』などと言ったら母に心配を掛けてしまうだろうか。理由を聞かれたらあの情けない事件を一から話さなければならないのだろうかと思うと、なかなか言葉が出てこなかった。


 母親は彼が話すのを待ってくれた。息子が東京へ出て来てこっち、自分から電話を掛けたことなんてほんの数回だったから、何かあったのだと気付いているようだった。


 ふと昼間のことを思い出して、彼は母に尋ねてみた。


「母さん。…俺が赤ん坊の時の話なんだけどさ。おむつ変えるとき、汚いと思わなかった?」


 彼が言うと、母親は電話口の向こうで高らかに笑った。


―――…なんね、いきなり。母親が子供のおしっこだのうんちだのば汚いと思うわけがなかやろ。あんたが小さい頃はまだ今みたいに紙おむつやなかったけん、冬場の寒い中もバケツに手突っ込んでよう洗っとったとよ。


 母はまだカラカラと笑っていた。


 久しぶりに聞く故郷の言葉には胸が震えた。昼間公園で見た母親の力強い目と、冷たい水の中でおむつを洗う自分の母の姿が重なってどうしようもなく郷愁を誘われた。込み上げるものをぐっと堪え、彼は携帯電話を握り直した。


「母さん、俺…会社辞めよったとよ」


 彼の声はすっかり震えていた。そっと抜き取ったティッシュで鼻を押さえながら、泣いていることを母に気付かれなければいいと思っていた。


 母はしばらく無言でいた。が、退職したことには触れず、優しくしっかりした口調でこう言った。


―――貴弘、帰ってきんしゃい。母さん待っとるけん。みんなも待っとるけんね。颯太ば見てるとあんたの小さい頃ば思い出すとよ。なんでも触って危なかことして、ハラハラして見ちゃいられんけん。でもかわいかよー、あんたにそっくりばい。


 甥っ子の颯太はかなりのやんちゃものらしく、手が付けられないのだとメールで兄がこぼしていた。そうだった。自分も小さな頃は背丈よりも高いところから飛び降りたり、濁った川に腰まで浸かって毎日日暮れまで遊んでいた。実際落としたボールを拾おうとドブの中に手を突っ込みもしたが、思えばあの頃は大した病気もしなかった。それが今はどうしてこんな風になってしまったのだろう。汚れを嫌悪するおかげで身体ばかりか心までが弱くなってしまった。


「母さん、…俺ば育ててくれてありがとね」


 彼が言った後、少しの間があった。


―――なんば言うとっとかね、こん子は。あんた、そーゆうこつは結婚すっときに女の子のゆうもんばい。


 笑いながら言う母の声は、彼の耳にくぐもって届いた。



 電話を切ってからも彼の脳裡にはよく遊んだ里山がこびりついて離れなかった。

 故郷の風景も数年見なければすっかり変わる。

 のどかだったあの川は。うず高く積み上げられた土嚢の山は。秘密基地にしていたあずまやは今はどうなっているだろうか。あの頃一緒に遊んでいた仲間たちは、今はもう人の親になっているのだろうか。あの頃の自分に戻れるとしたら、それはどんな方法をもってすればいいのだろう。


 彼は寝る前にトイレで用を足した。散々悩んだが手は洗わなかった。それは実に5年ぶりくらいのことで、彼の顔はくしゃくしゃに歪み頬には涙が伝っていた。



<END> 



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