不器用な選択
まさかまさかの、そのまさかだ。
「赤ちゃん、ねえ…」
午後のキッチンで、梨花はもう小一時間ほど呆けている。右手にはプラスチック製の白いスティックを持ったまま。片肘を着いて、小さな二つの丸窓に現れた無慈悲なピンク色のラインを交互に眺める。
3週間前。確か、それくらいだ。以前から友達以上恋人未満、所謂<キスフレ>程度の仲を続けてきた高遠に誘われて、関係を持ったのは。
その日は上野にいた。いつもの店で一通り飲んで、『このあとどうしようか』と公園の中をぶらついている時だった。腕を掴まれたと思ったら突然、木が生い茂った暗がりに引き込まれた。
「梨花さん」
高遠は梨花を痛いくらいに抱きしめた。が、情熱的な声は震えてもいる。彼とこんな関係になってもう3か月にもなるが、こうも荒々しくされたことは一度もなかった。だから梨花は酷く驚いた。そして、胸が高鳴った。
「梨花さんの違った表情が見たい。もっと、セクシーな顔」
耳元に掛かる息がこそばゆくて、全身に震えが走る。
―――私もまだ捨てたもんじゃない。
5つも年下の男に言われてその気になった。スーツから立ちのぼるコロンの香りにほだされた。
大体、甘えられると弱いのだ。
ホテルでは自分でも恐ろしくなるくらいに乱れた。後から思い出しては顔から火が出たが、高遠も大人だ。そのことを話題にする訳でもなく、会社で会っても素知らぬ顔をしてくれる。ただ、二人で会う時の顔は違った。
「梨花さん、この後時間ある?」
前々から行きたいと言っていた店に入るなり、高遠が尋ねる。率直に求められるのは嫌いではないがタイミングによるのでは、とおかしくなった。
「食事もまだなのに。それにおととい行ったばかりじゃない」
「おとといでも昨日でも、抱きたいものは抱きたい。俺、良くなかった?」
「そんなこと言ってないじゃない。分かった、食べてから考える」
わがまま。甘え。それを許してやるのは年上女の甲斐性なのだと世間一般には思われているかもしれない。だが、そういうのが鬱陶しくて必要以上に馴れ合わずにいた。そう思っていたはずなのに。
週に一度が二度になり、三度になり。当然キスだけでは足りなくなった。
会うたびに高遠はホテルへ誘うし、断る理由もない。梨花は年齢こそアラフォーに近いが、結婚もしていなければそもそもここ数年決まった相手なんかいなかった。彼女が他に寝る男といえば、たまに電話の掛かってくる前の会社の上司くらいで、その男とも3か月前に会ったきりだ。
・・・そう。3か月の間、彼女には珍しく高遠一本やりだった。だから妊娠させたのは彼の他には考えられなかった。
ピィィィィィーーーーーー。
一人暮らしの狭いキッチンに申し訳程度に置かれたガスコンロで、ステンレスのケトルがもうもうと湯気を吐き出している。それにも気づかないくらいに彼女の頭は真っ白だ。浮かんだ考えは次々と頭のてっぺんから霞のように空気に混じって消えていく。ちょうど今、ケトルの口から立ちのぼっては消えていく水蒸気と同じようだ。形を成さない、原子のようなバラバラの符号。
白いスティックを握ったまま、彼女は少なくとも1時間は考え続けている。
ひとまずお茶を飲んで落ち着こうと思い、ケトルを棚から取り出すのに10分。水を入れるのに10分、火をつけるまでに5分掛かった。頼りない火力のコンロではお湯が沸くまでに20分掛かる。つまり沸騰してからこのケトルは、15分程放置されている計算になる。
安物の電気ケトルでさえ、買うのをためらった。35にもなって、住んでいるのは狭いアパートだ。何も大成したかった訳じゃない。ただ、自分の会社を持ちたかった。そのために誰よりも働き、学び、周りに媚びて生きてきた。会社がスーツ出勤なのをいいことに普段は着の身着のまま、休みの日には殆ど家から出ない。それが節約への近道だと思ったからだ。だから男とのデートは仕事帰りの酒かホテルか。プライベートを詮索する相手はことごとく切ってきた。
誰にも甘えない。
愚痴をこぼさない。
諦めない。休まない。騙されない。
枷があるから頑張れるのだと思っていた。彼女は自分の夢を他人に話したことがない。親にさえも。それが、自分に対する戒めだと思ってきたからだ。
妊娠したらこの身体はどうなってしまうのだろう。悪阻が始まったら仕事に行けなくなるのだろうか。上司になんと言えば?部下は離れていくだろうか。中絶する場合は幾日か入院するのだろうか。会社に戻ったら、別の人間が係長の椅子に座っているのだろうか。
産むのか産まないのか。諦めるのなら早い方がいい・・・。
『諦める』―――まるで自分が産みたかったかのような言葉が浮かんだことに、梨花は苦笑した。自分が子供を産む。そんなこと、今までに一度でも考えたことがあっただろうか。
もう何をどうしたいのかも分からない。・・・自分がザマーミロ過ぎて笑ってしまう。
突然携帯の着信音が鳴り響いて、視界に色が戻った。ゆっくりと立ち上がってスティックをテーブルに置き、ガスコンロの火を消してもまだ相手は切らなかった。
「もしもし」
―――俺。どうして今日は会社に来ない?
高遠の声だ。
「たまには休んだっていいじゃない。月の物なのよ」
―――君はそんなことで休んだりしないだろう。もしかして、妊娠でもした?
「何で分かったのよ」
―――さあ。
間抜けな返事。彼も電話の向こうでは狼狽えているのだろうか。
「私も女だったってことね」
少し投げやりな感じにと言うと、
―――ああ。俺も男だったらしい。
と、高遠。
「そういうことになるね」
掛け合いが絶妙過ぎて2人で笑った。頬の筋肉が盛り上がった拍子に涙が転げ落ちそうになった。
―――これから外交に出て直帰ってことにするよ。何か買ってきてほしいもの、ある?
「ううん、特には」
―――分かった。場所が分からないから駅に着いたら連絡する。1時間くらいで着くから。待ってて。
「うん」
電話を切った時にやっと、立ったままで話していたことに気付いた。のろのろとお茶を入れて椅子に腰かけたら、辛うじて踏み止まっていた気持ちが一気に溢れてきて収拾がつかなくなった。待ってて、という響きが優しすぎたからだ。いや、高遠はいつだって優しい。
結局、そこからたったの5分で、『自分は女なのだ』と梨花は結論付けた。そうでもしないと淡雪の如く降り積もる考えも、止めどなく溢れる涙も収束しそうにない。
とにもかくにも、高遠が来てくれる。そのことだけで、石膏で固められたような心が緩んだことは確かなのだから。
<END>