【短編】梅雨の思い出
「もう梅雨ね」
私は送迎車の静かなエンジン音が響く後部座席で呟く。
車の外は灰色で、降りしきる雨が窓ガラスに線を引いている。
ザーッという雨音は、家を出てから十分を経過しているが弱まる気配はない。
「ええ、そうでございますね。高校に到着する頃に雨足が弱まれば良いのですが、本日は一日中、同じような調子で雨が降り続けるようでございます」
一呼吸おいて中年男性の運転手――大道さんが私の声に相づちを打つ。
バックミラー越しに向けられる視線を感じながら、私は外を眺め続ける。
「少し……昔を思い出してしまうわね」
それは幼い私の雨の日の思い出だった。
***
わたしは雨に打たれる車の窓ガラスの外を呆然と眺める。
ただ車の外を眺めているだけなのに、胸の内にあるモヤモヤで自然とため息が零れてしまう。
「お嬢様、お顔が優れませんが、何があったのでしょうか?」
「え!」
わたしは思わず声を上げてしまう。
運転手の男性がバックミラー越しにわたしの様子を伺っていた。
彼は数日前に新しい運転手と父に紹介された。
名前は大道敦。歳は父より若い四十一歳。
穏やかな雰囲気が印象的で、中学生のわたしの送迎を押しつけられたのに、不服を感じさせない。
そればかりか、今までの運転手とは違って親しみのある笑顔を向けてくる。
ため息の原因を話すべきかわたしが悩んでいると、車はタイミング良く赤信号で停車する。
わたしは少し躊躇いながらも思っていたことを口にする。
「……雨の中を、お友だちと一緒に帰ってみたいんです。傘を差して、雨音を聞きながら、お友だちと並んで歩いてみたいんです」
「雨で制服が濡れたり、泥が跳ねて汚れてしまいますよ」
「それでもいいんです。雨の中を歩けばそうなるのが当然だから……」
静かに走り出す車にわたしは口を噤む。
わたしは迎えに来てもらったことに不満があると受け取られていないか不安になってしまう。
「なるほど、お嬢様のおっしゃる通り。自然なことですね。それにしても雨の日というのは、どこかウキウキしてしまいますね。自分の子供の頃は雨が降っても傘を差さず、水たまりに倒れ込んで泥まみれになることが常習化して、親によく叱られていましたよ」
バックミラー越しにわたしを見る彼の瞳は、クラスの男子よりも活き活きとしていた。
彼の穏やかな空気に、気づけばわたしの口元は弛んでいた。
「運転手さんは、風邪をひいたり、しなかったんですか?」
「当然ひくこともありました。その時は親が呆れていました。他にも――」
優しい口調でゆっくりと語られる彼の昔話に、わたしは笑いながら耳を傾けた。
***
憂鬱な気持ちで下駄箱にたどり着いたわたしは、思わず立ち止まってしまう。
校舎の昇降口の軒先に運転手さんが立っていた。
「お嬢様、申し訳ないのですが、本日は迎えが行えなくなってしまいました」
「う、運転手さん、いきなりどうなされたんですか?」
わたしに気づいた彼は深々と頭を垂れる。
全体的に服が濡れ、ズボンの裾には泥が跳ねていた。
「車がトラブルを起こしました。今日は他の運転手が出払っているため、少なくとも一時間はお待ちしていただかないと、代わりの車を呼ぶことが出来ない状況です」
「う、運転手さん、状況は分かりましたから顔を上げてください。車のトラブルなら仕方ないですから。一時間くらいなら図書室で勉強していればすぐ経ちますから」
顔を上げた彼にわたしはホッと胸を撫で下ろす。
自分より身長も歳も上の男性が、わたしに頭を下げる姿は心臓に良くない。
「事前にメンテナンスを怠った自分の責任です。許しを得られるとは思いませんが、このようなモノをご用意しました」
どこから取り出したのか、彼はピンクを基調とした雨具一式をわたしに差し出してくる。
「待たれるよりもコレをお召しになってご帰宅されてはいかがでしょうか?」
柔和な笑顔のまま、彼はウインクを一つ飛ばしてくる。
茶目っ気のあるその姿にわたしは思わず口元が弛んでしまう。
「は、はい、そうします!」
「お嬢様、雨の日は足元が大変滑りやすいのでお気をつけください」
「ありがとうございます!」
わたしが望んだ時間を作ってくれた彼にお礼を述べる。
嬉しさに胸を弾ませながら、教室に急いで駆け戻る。
友だちが雨足が弱まるまで教室で時間を潰すと言っていたからだ。
そして、その日わたしは初めて雨の中を友だちと下校した。
しかし、楽しい時間は長く続かなかった。
家に帰り着いたわたしは、改めてお礼を言うために彼を探したが、どこにも姿はなかった。
不安に怯えながら探し回り、最後は泣きながらお手伝いさんに尋ねた。
返ってきたのは「クビになった」という素っ気無い一言。
そこでわたしは気づいた。
わたしが雨の中を歩いて帰ってきたから、彼が解雇されたのだと。
その瞬間、わたしは喉が熱くなって、涙で視界が歪み、人目も憚らず、大声で泣いてしまった。
***
「昔といえば、自分がお嬢様付きになったのも、この季節ですな」
「ええ、私の我儘で大道さんには迷惑をかけてしまいましたわ」
「あれは自分の我儘でございますよ。そういえば、他の者から聞いたのですが、お嬢様は泣きながら旦那様に食って掛かられたそうですね。涙と鼻水と涎まみれのお顔に旦那様は大変困惑されていたとか」
「大道さん! その部分は忘れてください!」
「そのお陰で自分は職を失わず、お嬢様の運転手を任せられています。忘れる事など出来るはずもありません」
「それでも忘れてくださいよ」
頬を膨らませる私に大道さんは柔和な笑みを返してくる。
少し白髪の混じり始めた大道さんの頭。高校生になった今でも迷惑をかけていることが原因かもしれない。
父よりも迷惑をかけ続けているし、運転手以上の事をやってくれている大道さんに、少し申し訳なく思う。
「よし、決めましたわ」
日頃の感謝の気持ちを込めて、父の日に何か贈り物をしよう。
大道さんは父より親しい存在なので、父の日に贈り物をしても問題ないはず。
「何を決められたのですか?」
「秘密です」
私は窓の外を眺めながら何を買うべきか悩むのだった。
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