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第0話 〖ノアとミオ〗後編

第0話〖ノアとミオ〗後編

 〖ミオ〗

 

 目が覚めたらそこは見知らぬ天井だった。


 白い天井、白い電気。

 

 寒くない、家の中だった。


 私は身体を起こすと、ふわっと柔らかい感触がした。

 薄黄色の柔らかいソファで眠っていたようだ。

 毛布も身体にかけてあった、暖かい。

 

「おはようさん、起きたかい。」

 

 おじさんの優しそうな声が聞こえた。

 声の方へ振り向いた。

 

「…おはよう…ございます…。あの、ここは?」

 私は目の前の景色が変わっていたから怯えてはいたけども、でも少し気持ちは安堵していた。

 

「ここは私の家だ、夜中のランニングしてたら君を見つけてね、震えて眠っていたから、暖かい部屋の方がいいと思って連れてきたよ。まぁ、男と二人きりは嫌だろうけど、外よりはマシだろうよ」

 おじさんは湯のみにお茶を注いでいた。

 

「……ありがとう…ございます。」

 私はかけられていた毛布をぎゅっと握った。

 

「お前さん、なんでベンチで寝てたんだ?家は無いのか?」

 

 おじさんが尋ねてきたが、私は本当のことは言えず、咄嗟にDV彼氏から逃げてきた、両親は他界していて頼れないと嘘をついた。

 

 おじさんはそれ以上聞かず、


「そうか、なら今はゆっくりしていきなさい」


 ゆらりと湯気が立っている、暖かいお茶を出してくれた。

「温かい…。」


 その時、おじさんの携帯が鳴った。

 

 電話越しに「メールに詳細あるんで見といてください!」と聞こえた。

 

「またメールか、電話で全部話さんかい。えぇーと、メールはどこだ…?」

 

 おじさんはメールの開き方がわからずポチポチしていたところ、電話を切ってしまい、さらに慌てていたため、私はやり方を教え、助けた。


「ありがとうよ、若いもんはスマホとやらの扱いが長けておるな、お前さんもしかしてパソコンとかも出来たりするのかい?」

 

「はい、基礎ぐらいなら…出来ます」

 

 秘書をしていたから、簡単なものなら私は出来る。

 

 おじさんがやって欲しいものがあると言いノートパソコンを持ってきた。

 

 大学で講師をしている剣道サークルの参加者たちの長所と短所、褒めている点と直す点が書かれた稽古評価シートの手書きの紙を見せてくれた。

 これをパソコンで作って欲しいとお願いされた。


「私の手書きが達筆すぎるから読めないと苦情が入ったんだ、そんなこと言われても私はパソコンもスマホもよく分からんしどうしようもなくてなぁ。」


 驚いた。一人一人細かく書かれている。

 棒人間が竹刀を持って動いているような絵がとても可愛らしい。つい笑みが零れてしまう。

「ふふっ」


「む、無理か?パソコンは難しいか?」

 おじさんは焦ったようにオロオロしていた。


「いえ、出来ます。やらせてください!」

 私は不器用でも人の事をきちんと考えるおじさんを見て、とても優しい人だと思った。

 だから、喜んで引き受けた。

 

「そうか、本当にありがとうよ。ところで、お前さん、名前はなんと言う?」

 

「私…は……」


 私は、言い淀んだ。

 逃げてきた身で、ノアという名前は言いづらかった。


「そうか、DV彼氏とやらから逃げているんだったな。それなら私が新たにつけてあげよう。未緒はどうだ?可愛いだろう?」

 おじさんは嬉しそうな顔をしていた。


「未緒…素敵なお名前ですね」

「あぁ、そうだろう。その名前は死んだ母さんが子供が女の子だったら付けたかった名前なんだとよ。まぁ、生まれてきたのは息子だがな。」


 おじさんは吐息をこぼすように、静かに笑った。

 


 名に込められたあまりに深い想いを教えてもらい、

 そんな大切な名前を私が貰っていいんだろうか…と、

 どこか畏れ多いような、身に余る心地がした。

 でも、断ることはしなかった。

 

「ありがとうございます…っ!とても可愛いですね!ありがたく頂戴します!」


 大切な名前を、私につけてくれたことで、胸の奥が、じんわりと暖かくなった。

 

「そんなかしこまらんでええ。自分の家だと思って楽にしてくれよ」

 おじさんは恥ずかしそうにそっぽを向いてそそくさとお茶を飲みにいった。

 

 私は呪いだと思っていたノアという名前から、想いの込められた未緒という名前を貰い、

 私、ミオは喜んで受け止めた。


 私は名前を貰ったのでおじさんをお父様と呼ぶことにした。

 

 お父様は「そんなかしこまらんくていいって」と照れ笑いしていた。



 

 パソコンに稽古評価シートを打ち込んでいると。

 


「そういや、お前さん。いや、ミオ。ミオは何歳だ?」

 お父様は少し照れくさそうに名前を呼んでくれた。

 

「ふふ、私は十五歳です」

 私は手を止め、お父様の方を見た。

 

「十五歳なら高校生なんじゃないか?学校は?」


「……いえ、行ってないです。」

 ミオは少し視線を落とした。

 

「そうか。それなら通信制高校とか、定時制に行ってみるか?」


「いえ……まだ身分を示せるものもないですし……」


「あー、DV彼氏とやらに目をつけられちゃ敵わんしな……。あ、そういや文部科学省の高卒認定試験ならどうだ?表に出なくても高卒認定だけは貰えるぞ。」


 お父様の提案に、私はハッとした。

 高卒認定試験さえ取れれば、またどこか逃げる道があるかもしれない。

 

「…いいですね、でも高認を取るためには戸籍等が必要になりますし……」


 言いながら、胸の奥がひやりとした。

 私の戸籍は、あの場所にある。


「戸籍か。」


 お父様は少し考え、湯呑みを置いた。


「なら、うちの戸籍に入るか?」


「……え?」


 耳鳴りがした。


 戸籍。


 家族。


 その言葉は、私にとって一番遠いものだった。


 ――『あんな子、いらない』


 あの声が、蘇る。


 また、捨てられたらどうする?


 また、必要なくなったら?


「養子になればええ。苗字も変えれる、堂々と試験も受けられる。」


 あまりにもあっさりした声だった。


「……そんな、簡単に……」


「簡単じゃないかもしれん。でもな、ミオ。

 私はお前さんを放ってはおけんのだ。」


 お父様の真剣な瞳に私は吸い込まれていった。

 養子として入れてもらえれば、今後の生活は確定出来る。

 でも、それは私の過去に巻き込んでしまうことにもなる。


 これはチャンスなのだ。


 一時的に入れてもらえればもし今後レオンから追われても、成人すれば出ていける可能性もある。


 私は知っている。


 情に溺れれば、負ける。


 私は利用する側でいなければ、生き残れない。


 ――レオンの元で学んだことだ。

 

 今は、ここに身を置こう。

 


「ありがとうございます…、お父様がよろしければ入れてください。」

 私は、お父様の戸籍に入れてもらうことを決意した。


「うむ、いいぞ。なら養子の手続きを取らないとな。……苗字は暁になってしまうが、どうする?」

 お父様は腕を組み、頷いていた。


「…………。」

 苗字が同じであると、後々不便になるかもしれない。

 巻き込みたくはない。

 

 言葉が出ずに、唇を噛んでいた。


「……そうか、それなら柏木、という苗字はどうだ?母さんの元の苗字なんだが、後々出てく時、使えるだろう?」


「……えっ……いいん、ですか?」


 柏木。


 知らないはずの苗字なのに、胸の奥が温かくなった。


 “暁”ではなく、別の名前をくれる。


 縛らない。


 押し付けない。


 選ばせてくれる。


 こんな大人が、いるのか。


 お父様は黙っていた私のことを察してくれ、苗字までもくれた。


「あぁ、いいさ。ちょっと手続きは時間かかるかもだが、お前さんが……いや、ミオがいいなら、柏木未緒を名乗るといい。」


「…っ!!!ありがとうっ、ございますっ!!!」


 私はお父様から柏木未緒という新しい名前を貰った。

 柏木、未緒。ふふ、可愛らしい名前だ。

 私はくすぐったいような気持ちになった。


 今度は、捨てられたわけじゃない。


 選ばれたのだ。

 

 私はお母様からまた頂いてしまった。

 

 それなら私は、お母様から託された気持ちで、

 生きていこうと決めた。


 その後、お父様と一緒に手続きをした。

 

 少しだけ時間はかかったが、

 正式に『柏木未緒』となった。

 

 私は、高卒認定試験のために、勉強を始めた。


 基本科目は、エデンで勉強していたこともあり、すらすらと解けた。


 公民は、少しだけ難しかった。

 法律というものは、優しい顔をして冷たい。

 でも、それでも必要なのだと、私は理解した。


 机に向かう私の横で、お父様は湯呑みを置いた。

「焦らんでええ。逃げ道は一つじゃない」

 湯気が、ゆらりと揺れた。


 日本史は、知らない国の物語だった。

 戦って、壊して、それでも守ろうとした人たちがいた。

 気づけば、ページをめくる手が止まらなかった。


 どのくらい勉強に集中していただろうか。

 

「どうだ、進んどるか?」

 

 お父様は、教材と向き合っている私に、優しく話しかけてくれた。

 

「はい、楽しいです!」

 本音だった。

 私は"知ること"が、エデンに居た時からすごく好きだった。

 

「そうか、ええな」

 お父様は優しく微笑んでくれた。

 それだけで、胸が温かくなった。

 

 

 十六歳八月。高卒認定試験当日。


 教室には、教材をめくる音が小さく響いていた。

 ぱらり、ぱらり、と紙が擦れる音。


 単語カードを繰る指先。

 小さく呟く声。


 私の机の上には筆記用具だけ、答えは全て頭に入っている。


 深く息を吸った。


「これより試験を開始します。」


 静かな合図が落ちる。


 一斉に、シャープペンシルの芯が紙を走る音が広がった。

 かり、かり、と規則正しい音。


 私は迷わず解答欄を埋めていく。

 問題は、難しくない。

 ただ、日本の歴史だけは少しだけ時間をかけた。


 ――お父様が、楽しそうに話してくれた戦国武将の話。

 湯呑みから立ちのぼる湯気。

 「ここ、面白いだろう?」と笑っていた顔。


 自然と口元が緩む。


「そこまでです。筆記用具を置いてください。」


 ぴたりと音が止まる。


 私はゆっくりと息を吐いた。

 吐いて、吸って、もう一度吐く。


 手は震えていない。


 周りでは「むずくね?」「やばいかも」と声が飛び交う。

 私は立ち上がる。


 ……全部、解けた。


 ――これで、私は前に進める。

 

 長い長い数ヶ月が終わった。

 

 自己採点としては、自信があった。


 

 ――1ヶ月後

 


 玄関からカチャカチャと、音が聞こえてくる。

 

 見に行くとポストに白い封筒が差し込まれていた。


 手に取ると、一瞬、息が止まった。

 

 差出人は『文部科学省』


 私は息を飲んだ。


 リビングに戻り、震える手でハサミを取る。


 慎重に、封を切る。


 紙の音。


 出てきたのは一枚の紙。


『高等学校卒業程度認定試験 合格』


 その文字を、何度も読む。


 声には出さない。


 ただ、胸の奥が、じんわりと熱くなる。


 ──私は、ここにいていい。

 

 夜になり、お父様が帰ってきた。


「お父様、あの、ご報告したいことが。」

 私は手を震わせながら白い封筒を差し出す。

 

「ん?あぁ、高認の合否か」

 お父様は紙を開き、黙々と読んでいる。

 次第にお父様の目尻が下がり口角が上がっていった。


「やったな!ミオ!さすが私の娘だ!しかも全教科満点だ!」


 お父様は自分の事のように喜んで褒めてくれた。


 私は、それが嬉しかった。


 

――ある日私はレオンから逃げ出した日を思い出していた。


「逃げなさいノア。私は鬼となります、そして時が満ちた時、お前を捕まえに行きます。」

 

 私はこの言葉を「捕まえに行く=お前を消す」という意味だと理解していた。

 

 だから自分の身は自分で守らなくちゃと。


 私は、自分の身を守る術を考えた。

 お父様は大学の剣道サークルで講師をしている。

 ……なら、利用する。

 それしか、生き残る方法は無い。


 「私も大学に行って、お父様の剣道が見たいです!」


 お父様は、快く承諾してくれた。

 十七歳の春、私は大学に入学した。

 

 ノアだった頃は人から疎まれ蔑まれていたのが、今では首席となり、皆から羨ましがられ友達もでき愛された。


 二ヶ月間、勉強の期間を設けた後に遅れて剣道サークルへ顔を出す。


 そこで何度叱られても立ち直り真っ直ぐに練習をする男の子を見つけた。目が離せなかった。

 

 私は、ノアが見てきたものはすぐに目を背けて逃げ続けて来た、だからとても新鮮だった。


 真っ直ぐな目、気合いの入った声、芯の強さ。


 とても、とても気になってしまった。


 サークル終了前、お父様から先に帰っていて欲しいとお願いがあり、今日は先に帰りご飯の支度をした。

 

 お父様が帰ってきた。なんだかご機嫌そうだ。

 

「お父様、すごく嬉しそうですね、どうされました?」

 

「いやはや、今日はついに紹介できるなと思って。ミオ、今日はお前さんに合わせたい男がいる。」


 そんな会話をしていたら玄関から

 「ただいまぁ〜」と声がする。

 

 ドアを入ってきたのは、あの子だった。

 

 私が気になったあの子。

 

「ほれ、レンよ、この子が紹介したい子だ。少し前に養子になったぞ、未緒って言うんだ。」

 

「…え、…えっ!……ぇぇぇええええ゛え゛え゛!?!?」

 

 レンと呼ばれた子は嬉しそうな呆れてそうな驚いていた。


「色々事情があって養子にした、あまり深くは聞くんじゃない。わかったな、分かったら早く飯を食いなさい。」

 

 お父様は簡潔に話してくれた。


 そして詮索もしないようとしていた。

 

 お父様に言われた通りレンは詮索をせずに気軽に話してくれた、答えにくい質問もあったけど、少し黙っていると「そっか」と流してくれた。


 私は深く詮索をしないこの親子がとても好きになった、偽りの自分でも受け止めてくれたこの親子が好き。


 だから自然とレンのことも好きになれた。


 ノアだった頃は疎まれていた。

 

 今は、ミオという名前を呼ばれる。

 

「ミオ」


 その声が、少しだけくすぐったい。

 

 そして今は、誰かと囲う暖かい食卓があった。


 

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